第二十三話 ―― 南へ ――
ヴァルは一人で、南へ向かっていた。
ニルギリの霧を抜け、山を下り、ひたすら南へ。
一人きりになると、家族で囲んだ食卓の笑い声が、ふと、よみがえる。いちばん大きく笑っていたのは、いつも父だった。
南へ下るほど、土地は緑を増していった。
椰子の木が増え、風に潮の匂いが混じり始める。
やがて、道の果てに海が見えた。
カニャークマリ。大陸の、南の果て。三つの海が出会う、巡礼の終着の地だという。
色の違う水が、岬の先で混じり合っている。西から、東から、そして南の、果てしない大洋から。境目がうねり、せめぎ合っていた。
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浜辺の、粗末な食堂に入った。
席に着くと、中年の主人が、注文も聞かずに皿を置いた。
「あんた、ひどい顔してるよ。これ、食べな」
白い飯に、赤い汁のかかった魚の切り身。
「ミーン・クランブだ。今朝獲れたやつさ」
ヴァルは一口、口に運んだ。
辛い。そして、酸っぱい。タマリンドの酸味に、香辛料の辛さ。だが、その奥に、ココナッツのまろやかな甘みがある。尖った味を、優しく包んでいた。
長い道のりで冷えていた体に、それがじんと染みた。
「……旨い」
「だろう。食べな食べな」
頼んでもいないのに、おかわりが盛られた。
顔は、似ていない。なのに、父の面影が、どこかにあった。
ヴァルは黙って、それも平らげた。
飯のあと、漁師を探した。
沖の岩へ渡りたい。そう告げると、ほとんどが首を振った。
「あの岩か。波が荒い。やめときな」
ようやく、一人。年老いた漁師が頷いた。
「金次第だ。だが、岩までだぞ。儂は、上がらん」
「それでいい」
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小舟が、波を分けて進む。
やがて、それが見えてきた。
海から突き出した、黒い岩。波に削られ、濡れ光っている。
漁師は、岩の手前で舟を止めた。
「妙な岩だ。長居は、するなよ」
ヴァルは、波の引いた一瞬、岩へ跳んだ。音もなく、降り立つ。
岩の上に立った瞬間、足の裏が、脈を打った。
いや――岩が、脈打っている。
低く、重く。心臓ほどの間隔で、岩の底から響きが突き上げてくる。生きているものの、息づかい。
眠っている。だが、死んではいない。
何かが、この岩の底で、ヴァルが来るのを待っていた。
ヴァルは、突き出た柄のような造形に、手を当てた。
響きが、強くなった。
――起きろ。
柄の造形に、魔法の力を込める。
もう一度、込める。強く、さらに強く。
ヴァルの額に、汗が滲んだ。
なぜだ。やり方は、間違っていないはずだ。込めて、込めて、込め続ける。それでも、岩は沈黙したまま。
手が、震えた。
一人だ。リリアナも、ガルドも、アゼルも。教えを乞う相手も、いない。
「……どう、やるんだった」
膝をついたまま、ヴァルは目を閉じた。
◇
石碑の、前だった。
幼いヴァルが、短剣を握って、唇を噛んでいる。
その傍らに、大きな背中。父だった。まだ、生きていた頃の。
「力ってのはな」
父が、ヴァルの小さな手に、自分の手を重ねた。
「込めるもんじゃない。預けるもんだ」
「……あずける?」
「ああ。お前が、ぜんぶ背負おうとするな。剣を、信じろ。相手を、信じろ。力は、託すんだ。そうすりゃ、向こうから、応えてくれる」
幼いヴァルは、よく分からなかった。
それでも、父の手の温かさだけは。
ずっと、覚えていた。
◇
ヴァルは、目を開けた。
込めていた。ずっと。一人で、ぜんぶ背負おうとして。
違う。
ヴァルは、手のひらから力を抜いた。
込めるのを、やめる。預ける。眠る竜を、信じて。
「……お父さん、力を、貸して」
岩が、応えた。
手のひらの下で、亀裂が走った。底のない、黒い光が漏れる。
亀裂は広がり、岩肌を走り――柄のようだった造形が、ねじれ、節くれだち、竜の骨を思わせる、まことの柄へと、形を成していく。その根元に、二本の角めいた鍔が、湾曲して張り出した。
ヴァルは、その柄に手をかけた。
引き抜く。
ずるり、と。
岩から、一振りが抜けた。
だが――刀身が、ない。
柄と、鍔。その先には、何もない。剣としては、未完のまま。
これでは、何も斬れない。
ヴァルは、すぐに悟った。
この先を埋めるのが――自分の、役目だ。
柄を、両手で握り直す。
家に伝わる魔法の力。今、刀身のない、その空白へ、炎を纏わせる。
込めるのではない。父の、教えた通りに。
預ける。
柄の先で、何かが灯った。
黒い炎だった。
ゆらりと、立ち上る。揺らめき、形を定めず、刀身の長さほどに伸びていく。
光を、放たない。それどころか、周りの光を吸い込んでいた。昼の陽も、海の照り返しも、その炎の輪郭で、ふつりと途切れている。熱はない。ただ、冷たく、燃えていた。
これが、暗黒竜の、成れの果て。
悪魔の、精神と身体を、分かつ剣。
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その夜、ヴァルは、浜の岩陰で、火を焚いた。
腰には、黒い柄。千年の刃が、短剣ほどの重さで、そこにある。
火を見ながら、ふと、出立の朝を、思い出した。
――一人で、行かせる。すまん。
ヴァルは、口の端を、少しだけ、上げた。
……何を、謝る。
ヴァラナシの川辺で、あの男は、言ったのだ。
手伝ってくれないか、と。
魔物を斬るしか能のない、憂さ晴らしの女に。
あの時、私を、必要としてくれた。
そして、今も。
剣を取りに行けるのは、私だけだと。
悪魔にすら視えない、この私だけだと。
一人でいた頃と、違う。
今の一人は、役目だ。
ヴァルは、火に、薪をひとつ、足した。
戻ろう。
必要とされている場所へ。
土産を、持って。




