第二十二話 ―― 希望へ ――
「まだ、出発しないんですか?」
アゼルが、宿の窓から、退屈そうに外を眺めていた。
あれから、一週間が経っていた。
霧の山で、すべてを知ってしまった、あの日から。
この一週間、三人は、普通を装い続けた。アゼルの前で、何事もなかったように笑い、飯を食い、軽口に付き合った。それが、どれほど骨の折れることか。アゼルの屈託のない顔を見るたび、喉まで出かかる言葉を、飲み込んだ。
言えない。
お前の中に、何がいるのか。お前を救うために、何をしようとしているのか。何ひとつ、言えない。
「もう少し、待ってね」
リリアナは、机に広げた覚え書きから、顔を上げた。
この一週間、彼女は、ずっと書きものをしていた。記録帳に術式の図を。何度も、組んでは、消して。そして、十人の賢者の記録の解読。
「どうしても、会っておきたい友達がいて。まだ、手がかりが掴めないの」
「友達?」
「うん。とびきりの、ね」
ヴァルは、壁にもたれて、目を閉じていた。
リリアナが、ガルドとヴァルの肩を、軽く叩いて、すれ違う。
「ヴァル。まだ見つからない?」
「……まだかかるかも」
短い、いつも通りのやり取りだった。
アゼルは、また窓の外へ、視線を戻した。何も、気づいていない。
その、ガルドとヴァルの頭の中に、声が飛び込んできた。
『確信はない。でも、希望が見つかった』
ガルドの肩が、びくりと跳ねた。
『アゼルが寝たら。宿の外に出て』
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夜。
アゼルの寝息を、確かめて。
三人は宿の裏手に出た。
月は、雲に隠れていた。
「本当に、希望はあるのか」
ガルドが、低く問う。声を潜めて。
「ある」
リリアナが、頷いた。
「……でも、確信はない。必要なものが、三つ。一つでも欠けたら、終わり」
三人の白い息が、夜気に溶けた。
「一つ目」
リリアナが、指を一本立てた。
「悪魔を封印する、魔法」
ガルドの喉が、鳴った。それができるのか、と。
「術式は、もう考えてある。リシケシに置いてきた、五人の学者の本。あの知識が、もとになってる」
リリアナの目に、いつもの好奇の炎はなかった。ただ、静かな覚悟だけがあった。
「二つ目」
指が、二本に。
「悪魔を封じる、器」
「器?」
「女神の封印。それが器。十人の賢者が、女神を復活させようと試みてたみたい。その解析結果が、記録に残っていた」
リリアナは、一度、言葉を切った。
「その場所は、五人の学者の本が示している。本を手に取って、解析するしかない」
ガルドが、その意味を察した。
「……リシケシに戻るのか」
「うん。あの本は私の家に、まだ、ある」
帰る。あの、すべてが始まった村へ。
「そして、三つ目」
指が、三本に。
ここで、リリアナの声が、わずかに硬くなった。
「悪魔の力を奪う、剣」
「剣?」
「そう。役目を終えた、暗黒竜の成れの果て。十人の賢者の記録にあった。悪魔の、精神と身体の分断」
ヴァルが、初めて口を開いた。
「在り処は」
「あの暗号が示してた場所は、この大陸の最南端。その、さらに向こう。海の中の、岩」
遠い。あまりにも、遠い。今、来た道を引き返すどころか、その果ての、さらに先。
沈黙が、落ちた。
三つ。封印する魔法。封じる器。力を奪う剣。
一つは、リリアナの手の中に。一つの鍵は、北の果て、リシケシの本に。一つは、南の果て、海の岩に。
北と、南。引き裂かれている。
「……それで」
ガルドが、口を開いた。
「どう、動く」
リリアナは、ヴァルを見た。
まっすぐに。
「ヴァル。あなたに出会えたこと。これは運命だったと、今はそう思う」
「……どういう、意味だ」
「暗黒竜の剣を、形にするには、あなたの力がいる。それに――」
リリアナの声が、低くなった。
「悪魔の目には、あなただけが、映っていなかった。あいつらの計画に、あなたは、いない」
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「邪魔をしたな。二人の旅路は、視ている」
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ガルドとヴァルは、あの言葉を思い出した。あの時――三人いたのに、悪魔は、二人と言った。
「ヴァルが守ってきた、石碑の力。それを信じる。私の探知でも、ヴァルは今も見えていない。……ただし、消えるのは気配だけ。目の前に立てば、見える。だから、視られる前に、終わらせて」
ヴァルの目に、鋭い決意が宿った。
「わかった」
「あなたは、南へ。剣を取りに」
リリアナは、続けた。
「私たちは、北の欠片に向かうと、見せかけて――リシケシへ」
この決定が、どこへ繋がるかは、わからない。それでも――悪魔の計画の、外へ。
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出発の時。
ヴァルは、もう、旅装を整えていた。
南へ。たった一人で。
誰にも知られず、誰とも繋がらず。
「ヴァルさん、もう行っちゃうんですか?」
何も知らないアゼルが、名残惜しそうに、駆け寄る。
「ああ。野暮用だ」
ヴァルは、いつもの調子で、軽く返した。
それから、リリアナとガルドへ、目をやる。
短い、視線だった。言葉は、いらなかった。
「友達の居場所がわかった。用を済ませたら、急いで合流する」
それだけ言って、背を向ける。
ガルドが、隣に並んだ。
アゼルの声は、もう届かない。
「……すまん」
ヴァルは、足を止めなかった。
「何がだ」
「一人で、行かせる。ヴァラナシで、俺が声をかけなければ、お前は――」
「よせ」
短かった。
歩きながら、ヴァルは、腰の短剣に、指先で触れた。
「あの頃の私は、ただ、憂さ晴らしに斬っていた。倒しても、倒しても、何も変わらなかった」
少し、間があった。
「……この火の、使い道をくれたのは、あんただ」
ガルドの足が、止まった。
ヴァルは、止まらなかった。
「南の土産、期待してろ」
振り返らずに、言った。




