第二十話 ―― 教唆と、混濁と ――
道は、登りに変わっていた。
マイソールを出て、南へ。なだらかだった丘が、次第に険しくなり、いつしか四人は、山を登っていた。
空気が、変わった。
乾いた高原の熱は、もうない。ひやりと湿った、冷たい空気。標高が、上がっているのだ。
そして、霧が出た。
登るほどに、霧は濃くなった。行く手も、来た道も、白く塗り潰されていく。数歩先の、ヴァルの背中が、霞んで見えた。
「うわ、なんにも見えませんね」
アゼルが、白い息を吐いた。
「青い山、か」
ガルドが、呟いた。
麓の村で、そう聞いた。この山は、青い山と呼ばれている。遠くから見ると、稜線が、青く霞んで見えるのだという。だが、中に入ってしまえば、ただ白い。どこまでも、白い。
その白の中に、緑があった。
斜面という斜面に、低い木が、整然と植えられている。茶の木だ、とヴァルが言った。摘み取られた新芽が、霧に濡れて光っていた。
美しい、はずだった。
なのに、リリアナは、なぜか落ち着かなかった。
霧で、何も見えない。すぐ隣に、何がいても、分からない。その感覚が、背筋を、撫でていく。
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欠片の気配は、その霧の奥にあった。
リリアナが、地面に左手を置く。
青い陽炎が、波紋となって広がった。だが、霧のせいか、いつもより、遠くまで届かない。
それでも、捉えた。
濃い気配が、ひとつ。茶畑の、さらに上。森の際。
「……いる。上の方」
四人は、霧を分けて、登っていった。
それは、唐突だった。
白い霧の壁が、ぐらりと揺れた。
――いや、違う。揺れたのは霧ではない。霧の向こう側で、何かが、動いた。
一歩。
踏み込んだ後に、遅れて、地の割れる音が届く。
また一歩。
その一歩ごとに、足の裏から、震えが這い上がる。膝を、腹を、胸を、突き上げる。音より先に、内臓が、それを聞いていた。
大地が、悲鳴のように軋む。
霧を押し分けて現れたのは、黒い、山のような影。
四つ足の、巨獣だった。象よりもなお大きい。分厚い皮膚が岩のように隆起し、その表面には細かな亀裂が走っている。だがその亀裂の奥で、何かが、脈打っていた。
額に、紋様。
「ベヒーモス……!」
ガルドが、叫ぶ。
「物量の、化け物だ。まともに受けるな!」
ベヒーモスが、前脚を振り上げた。
振り上げただけで、空気が、押しのけられる。耳が、詰まった。
叩きつける。
――次の瞬間、地面が砕けた。
衝撃が遅れて押し寄せ、四人の足元を突き上げた。
「ぐっ……!」
受け止める、という手は、なかった。
あの質量に盾を立てれば、盾ごと潰される。
砕けた岩。爆ぜた風。ガルドは身を低くし、腕でリリアナを庇う。
踏ん張った両足が、それでも、地を擦って後退る。
腕が、軋む。肩が、悲鳴を上げる。だが防いでいるのは、一撃ではない。ただ、吹き飛ばされまいと、耐えているだけだった。
ヴァルが横合いから踏み込み、炎の短剣を叩き込む。炎が、走る。
だが――。
「……消えた?」
焼けたのではない。炎が、刃ごと喰われた。手応えがない。
ベヒーモスが、わずらわしげに巨体をねじる。岩の尾が、唸りを上げて薙ぎ払われた。ヴァルが跳び、ガルドは伏せる。だが風圧だけで、後方の茶の木が根こそぎ倒れた。
リリアナが光の輪を放つ。四肢に絡みつく。
だが――ベヒーモスが、踏ん張る。輪が、軋む。
そして――音もなく、引きちぎられた。
「そんな……!」
手が、足りない。決め手が、ない。
巨体が、ゆっくりと、リリアナへ向き直る。
「リリアナさん、下がって!」
アゼルが前に出る。
ヴァルが、ありったけの炎を、眼前へ叩きつけた。喰われる。だが、喰いきれない。あふれた炎が、ベヒーモスの顔を焼いた。
一瞬、だけ。ひるむ。
その隙へ。
「行くぞォッ!」
ガルドが踏み込み、渾身の一撃を叩き込む。右前脚が、深々と裂けた。巨体が、大きく傾ぐ。
リリアナの指に、黒い光が集中する。
ガルドが裂いた、その傷口へ、黒い雷が落ちる。
ベヒーモスは、地面に膝を付いた。
「もらった」
ガルドが跳んだ。額の紋様へ、剣を振り下ろす。深々と、突き刺さった。
ヴァルがその刃に炎を灯した。
その瞬間。紋様が、光を放つ。
「なっ――」
炎が、逆流する。ガルドの腕を焼きながら、剣を伝い、体へと駆け上がる。
それでも。
「通れッ!」
ベヒーモスが地を揺らして崩れ落ち、紋様が砕けた。
いつものように、欠片は宙を漂い、四人の前で止まった。
弾けた。
リリアナは、身構えた。流れ込んでくるものに、いつもの温度が、なかった。
その光景が、広がった。
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暗い、部屋だった。
壁も、床もない。ただ、暗がりが、部屋の形をしていた。
白いローブの、五つの影。深淵の暗がりに、集っている。
「今のところ、順調だな。信徒は、増え続けている」
「我にも、静かに、力が戻るのを感じるぞ」
声が、満ちていた。焦りも、急ぎもない。ただ、計画が、進んでいる。
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場面が、流れた。
「ガルド、とか言ったか。私の支配が、効かん。近いうちに、処分する」
「待て。使いどころが、ある」
もう一つの声が、それを制した。
「世界に散らばる欠片。あれを、集めさせるのだ」
「欠片の地図は、完成した。あいつの居場所も、掴んだ」
「ほう。あいつも、動かす気か」
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場面が、流れた。
「誘導は、終わったか」
「ああ。ガルドは、すぐ来る」
「来たな。では、始めるか」
――誰かが、物陰から、覗いている。
その背中に、リリアナは、見覚えがあった。
「信者は、順調に集まっているな」
「ああ。だが、我らの信仰の、強制の力。それを失わせる方法が、一つだけ、ある」
「欠片の力と、それを扱える、少女だ」
「ははっ。そんな者が、現れる訳が、なかろう」
「念のため、調べておいた。ここに、欠片の地図がある」
声が、続けた。
「その少女の名は――リシケシ村の、リリアナ」
リリアナの、心臓が、止まりかけた。
私の、名前。
覗いていた背中が、息を、呑むのが分かった。
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場面が、流れた。
黒い靄が、一人の僧侶の中へ、吸い込まれていく。
その僧侶の、顔。
いつも、傍にいる。軽口を叩き、誰の心にも、するりと入り込む。
あの、穏やかな――
「ヴォルガスよ。あとは、頼んだぞ」
「ああ、任せろ。誰にも気取られぬようにな――こいつ自身にも」
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光景が、消えた。
霧の青い山。四人は、同じ場所に立っていた。
何も、変わっていない。
しかし、全てが、変わってしまった。
リリアナは、動けなかった。
今、見たもの。私の名が、悪魔の口から、零れた。私がガルドと出会ったのも、欠片を集めてきたのも、すべて、あの者たちの、掌の上。そして、私の村を襲わせたのも、私だけ助かったのも、きっと。
膝が、震えた。
ガルドは、拳を、握りしめていた。
己が、誘導されていたこと。信者を解放するための旅。その始まりから、仕組まれていたこと。剣を握る手の甲に、血管が、浮いていた。
ヴァルは、目を、見開いていた。
アゼルの中に、あれが、いる。
昨日も、一昨日も、隣で笑っていた、あの男の中に。
三人とも、一言も、発しなかった。
発せ、なかった。
そして。
その、三人の真ん中で。
「あれ?」
アゼルが、きょとんと、首をかしげていた。
「今回は、何も、見えませんでしたね」
いつもの、間延びした声。
白い息を吐いて、不思議そうに、三人を見ている。
「どうしました? みんな、揃って、変な顔して」
屈託の、ない笑顔だった。
何も、知らない。
自分の中に、何がいるのかも。今、自分以外の三人が、何を見てしまったのかも。
何も。
リリアナは、その笑顔を、見ていた。
見ていることしか、できなかった。
霧が、四人を、白く包んでいた。
すぐ隣にいるはずのアゼルが、ひどく、遠くに見えた。




