第二話 ―― 魔物と、剣と ――
異変に気づいたのは、夜明け前だった。
小屋での研究を切り上げ、戸締まりをしようと扉を開けた瞬間、地面が揺れた。
足の裏から、震えが伝わってくる。すぐそこで、何かが崩れる音がした。石が砕ける音。木が裂ける音。そして、悲鳴。
赤い月が、まだ西の空に残っていた。
リリアナは、走り出した。
村の入り口に差し掛かったところで、足が止まった。
狼の魔物がいた。
数えるのも馬鹿らしいほどの数が、家々の間を縫うように蠢いていた。村人たちの悲鳴が、夜明け前の空気を切り裂く。
父は――と視線を走らせる。
いた。村の中心で、ガレンが剣を振るっていた。その動きに迷いはない。一対一ならば、いや一対三でも、父の敵ではないはずだ。だが今夜の数は、明らかにおかしかった。これほどの群れが一度に現れたことなど、これまで一度もない。
リリアナは、まだ形にもならない術式を頭の中で組み立てながら、村に踏み込もうとした。昨夜、指先に灯った、あの微かな光。あんなものが何の役に立つのか、分からない。それでも、行かずにはいられなかった。
その瞬間だった。
轟音が響いた。
柱が、倒れてくるのが見えた。
避ける間も、なかった。
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意識が戻った時、少女は瓦礫の中に横たわっていた。
頭が、痛い。手を当てると、額に温かいものが滲んでいた。指が、ぬるりと滑る。
起き上がろうとして、止まった。
村が、なかった。
家々は原形を留めていなかった。焦げた梁が地面に散らばり、崩れた石壁が道を塞いでいた。魔物の姿はない。人の姿も、ない。
誰の姿も、なかった。
静寂だけが、あった。
立ち上がる。足は、動く。
少女は、廃墟の中を、あてもなく歩いた。土埃が、まだ宙に残っていた。
魔物は、突然現れた。
曲がり角を抜けた先に、それはいた。並の狼の、三倍はあろうかという巨体だった。漆黒の体毛。落ち窪んだ眼窩で、両目が、赤く燃えている。荒い息のたびに、牙の隙間から、火がちろちろと漏れた。額には、奇妙な紋様。光を帯びた、何か古いものを思わせる印が、浮かんでいた。
少女は、動けなかった。
魔物が、視線を外した。右へ、跳躍する。その先に、男がいた。黒を基調とした鎧に、十字の紋章。片手の剣が、魔物の牙を受け止めていた。
「下がっていろ」
低い声だった。命令というより、確認のような口調だった。
男は魔物と向き合ったまま、微動だにしない。
狼が、顎を開いた。喉の奥が、赤く光る。
火が、噴き出した。
だが、男はもう、そこにいなかった。火をかいくぐり、黒い影が地を蹴る。
その刹那、銀が閃いた。
何が起きたのか、少女には見えなかった。気づいた時には、狼の巨体が、ぐらりと傾いでいた。
崩れ落ちる、その額から――砕けた紋様の奥から、水晶の欠片のようなものが、こぼれ出た。宙に舞い、ゆらゆらと漂いながら、少女の周りで止まった。
男は、倒れた狼を見下ろした。
「ヘルハウンド……これほどの個体は、見たことがない」
低い声で、誰にともなく呟く。
それから、男は振り返った。
四十前後だろうか。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。感情を読み取りにくい目をしていた。敵意はない。だが友好的とも言い切れない、ただ静かな目だった。
「名前は」
少女は口を開いた。だが、何も出てこなかった。
名前が、ない。顔が、ない。どこから来たのか、何をしていたのか。頭の中を探っても、何もない。
「……思い出せない」
男は何も言わなかった。ただ、少女を見ていた。
その瞬間、漂っていた欠片が、弾けた。
少女は、胸元に手をやった。何かが、触れた。細いチェーン。指先でペンダントトップを握った瞬間、薄い銀の曲線の感触が、掌に広がった。
と同時に、何かが流れ込んできた。
煙の臭い。焦げた実験台。夕暮れの橙色。豪快な笑い声。誕生日の食卓。母の手。父の照れた顔。
――いつもは本をねだるくせに。
パンを千切る指先。指先に宿った、微かな光。赤い満月。
リリアナ。
自分の名前だ、と分かった。
同時に、涙が出た。理由は分からなかった。ただ、何かとても大切なものが戻ってきた気がして、それが嬉しいのか悲しいのか、判断できないまま、涙だけが流れた。
「お前がリリアナか」
名前を、知っている。それが不思議でも、怖くもなかった。この男は自分を探していたのだ、と直感で分かった。
「そうです。あなたは」
男は少し、間を置いた。
「ガルド。クルセイダーだ、訳ありだがな」
クルセイダー。その言葉が、リリアナの胸の中で静かに沈んだ。教団の戦士。なぜそんな人間が、このリシケシに、自分を探しに来るのか。
聞きたいことは、山ほどあった。
だが、先に聞くべきことがあった。
「村の人たちは。父は、母は」
ガルドは答える前に、視線を村の奥へ向けた。その沈黙が、何かを告げていた。
「……間に合わなかった」
リリアナの膝が、折れた。
声が出た。自分でも聞いたことのない声が。叫びとも泣き声とも呼べない、ただ痛みだけが形になったような音が、廃墟に響いた。ペンダントを両手で握りしめたまま、地面に額をつけた。掌の中の銀の曲線が、痛いくらいに食い込んだ。
ガルドは、何も言わなかった。
ただ、そこに立っていた。




