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女神と、悪魔と ―過去にある未来―  作者: 一ノ瀬 俊晶


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第一話 ―― 少女と、魔法と ――

 ――その夜、世界の深いところで、何かが身じろぎをした。

 千年のあいだ、誰にも気づかれなかったものが。

 だが、それはまだ、誰も知らない。


-----


 煙が上がっている。

 リリアナがそれに気づいた時には、甘ったるい硫黄の臭いが、鼻の奥につんと刺さっていた。実験台の上には、黒く焼け焦げた筋が一本、走っている。

 魔法の実験に、また失敗したのだ。

「……また失敗」

 呟きながら窓を開けると、夕暮れの橙色が小屋の中に流れ込んできた。木枠が軋む。風が、焦げた臭いをゆっくりと外へ運んでいく。


 母屋の隣に建つ古い作業小屋は、リリアナがほとんど一人で使っている。「魔法の研究に使いたい」と父に頼み込んだ、十二歳の頃からずっと。

 父――血は、繋がっていない。だが彼女は、それ以外の呼び方をしたことがなかった。


 実験台に残った跡を、指でなぞる。ざらりとした炭の感触が、指先に残った。流れを意図的に捻じ曲げようとして、制御しきれず、暴発した。また、同じ失敗だ。


 火を灯す。水を浄化する。傷口を少し塞ぐ。そういう単純な術ならば、村にも使える者はいる。

 だが、リリアナが求めているのは、そういうものではなかった。書物に断片だけ残された、古い魔法の理。世界の手触りそのものに指をかけ、自然の摂理に干渉するような、もっと根源的な何か。

 それが何なのかは、自分でも分からない。ただ、求めずにはいられない衝動だけが、確かにあった。


 記録帳に今日の失敗の原因を書き留めながら、窓の外に目をやる。

 リシケシ村が、夕暮れの中に沈んでいく。山麓の、百人に満たない小さな集落。

 リリアナは、この村で育った。

 育てられた、と言うべきか。自分がここで生まれたのではないことを、彼女は知っている。赤ん坊の頃、父が魔物の群れの中から保護してくれたのだと。

 それが時折、胸の奥でひっかかる。


-----


 夕食の時間だった。

 扉を開けると、いつもと違う空気があった。

 煮込んだ豆の匂いが、いつもより濃い。竈の火が、まだ赤く残っている。食卓の上には、麻布を細い紐で結んだだけの、不格好な小さい包み。その隣に、父のガレンと、母のセリアが、並んで座っていた。二人が揃ってリリアナを待っているのは、珍しい。


「誕生日だろ」

 ガレンが言った。照れているのか、いつもより声が大きかった。

 本当の誕生日は分からない。父がリリアナを見つけた日が、この家の誕生日になっていた。

「覚えてたんですか」

「忘れるわけないだろ」

 セリアが苦笑した。

「三週間前から揉めてたのよ、あなたへのプレゼントで」

「揉めてない。意見が違っただけだ」

「同じことでしょ。ガレンったら最初、剣の手入れ道具を買おうとしてたのよ」

「研究に使えるかと思っただけだ」

「十八の娘に、何を贈るつもりなの」


 リリアナは笑いを堪えながら、包みを手に取った。思っていたより、軽い。紐を解くと、麻布がはらりと開いて、細いチェーンのペンダントが出てきた。手のひらに乗せると、ひやりと冷たい。ペンダントトップは小さく、銀の曲線が二本、中心から緩やかに広がっている。蝶の翅を線だけで表したような形だった。装飾はそれだけで、余計なものは何もない。

「セリアが選んだ」

「二人で選んだの」

 とセリアが訂正した。

「ガレンが、生命を感じるものがいいって言って」

「そんな真面目なことを言ったか、俺」

「言ったわよ」

 リリアナはペンダントトップに、指先でそっと触れた。薄い銀の曲線が、竈の灯を柔らかく弾く。指の腹で、なだらかな起伏をなぞった。

「……きれい」

 上手く言葉が出なかった。それだけで十分だった。

「似合う似合う」

 ガレンは大袈裟に頷いた。

 セリアが立ち上がる。

「つけてみなさい」

 チェーンが首筋に触れた。少し冷たくて、すぐに肌の温度になじんだ。


「いつもは本をねだるくせに」

 セリアが笑った。

「この間だって、五人の学者がどうとかいう古い本を」

「面白かったんです」

「あなたも十八なんだし、今年ばかりはと思って」

 血はつながっていなくとも、それは家族そのものだった。


「魔物がまた増えてるらしい」

 食事が始まってしばらくして、ガレンの声のトーンが変わった。スプーンを置く音がした。

「南の村の商人が言ってた。森の奥から出てくる群れが、一回り大きくなってるって」

「またですか」

 セリアの手が止まる。

「それとな。近頃、夜の月が妙な色をすることがあるらしい。年寄り連中が、気味悪がってた」

「……月、ですか」

「まあ、心配するな。俺がいる」

 その言葉は頼もしい。だが同時に、リリアナの胸に小さな不安が芽生えた。魔物の力が増しているという話は、ここ数年でよく聞くようになった。父の腕前が変わらなくとも、相手が強くなれば、意味は変わる。


 いまの魔法を完成させることができたら、父を助けられるだろうか。

 リリアナは静かにパンを千切りながら、その先を考えた。ちぎったパンを、豆の煮込みに浸す。指先に、ペンダントのチェーンが触れた。


-----


 夜。

 再び小屋に戻ったリリアナは、失敗した術式に挑戦していた。今度はもっと慎重に、流れを細い糸のように手繰るイメージで。

 集中する。

 意識を研ぎ澄ます。

 微かな光が、指先に宿った。

 魔法と呼べるほどのものではなかったかもしれない。それでも確かに、何かが動いた。

 小屋の外に気配を感じて、恐る恐る、覗いた。

 赤い満月が、東の空に浮かんでいた。

 今まで見たことのない色だった。霊峰の山容が、その光で赤く浮き上がっている。

 月の中で、何かが動いている。

 指先の違和感は、消えなかった。


 その夜、世界の深いところで、オクラスの眼が見開かれた。

 千年の眠りから醒めたかのように、その眼は世界を舐めるように見渡した。そして、捉えた。

 小さな村の、小さな小屋の、小さな少女の指先に灯った、ほんの僅かな光を。


 ――見つけた。


 深淵の奥で、何かが蠢いた。

 

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