第十七話 ―― 本と、旧交と ――
ハイデラバードは、丘の上の街だった。
黒い岩の丘が、いくつも連なり、その斜面に、石造りの家々が貼りついている。乾いた高原の風が、玄武岩の城壁を撫でて、通り過ぎた。乾いた街とも、雨の町とも違う。古い、根を張った街だった。
その丘の一つ、街を見下ろす高みに、修道院はあった。
白い漆喰の壁。低い鐘楼。蔦の絡んだ石段。古いが、手入れの行き届いた、静かな佇まいだった。
アゼルの足取りが、軽くなっていた。
石段を、一段飛ばしに駆け上がる。病み上がりとは思えなかった。
「アゼルさん、まだ本調子じゃ」
「平気平気。ほら、あれが鐘楼! 僕、あれの掃除でよく落ちかけて」
振り返るアゼルの顔は、これまで見た中で、いちばん子供っぽかった。
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門をくぐると、若い修道士が、箒を手に立っていた。
アゼルを見て、目を丸くする。
「……アゼル兄?」
「久しぶり。大きくなったなあ」
「アゼル兄!」
箒を放り出して、駆け寄ってくる。後ろから、もう一人、二人と顔を出す。
「アゼル兄が帰ってきた!」
たちまち、囲まれた。
リリアナたちは、少し離れて、その光景を見ていた。
いつも飄々として、誰の心にも、するりと入り込むアゼル。その彼が、ここでは「兄」と呼ばれ、もみくちゃにされて、照れている。
知らない顔の、アゼルだった。
リリアナの胸が、ふしぎと温かくなった。
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奥から、老いた声がした。
「騒がしいと思えば」
杖をついた、小柄な老人だった。修道院長だという。背は曲がり、目は白く濁りかけている。だが、その奥に、まだ光があった。
「……アゼルか」
「爺さん。生きてた」
「失礼な小僧だ」
老人――院長は、ふっと笑った。皺が、深くなる。
「お前が出ていって、何年になる。便りの一つも、寄こさんで」
「ごめんって。でも、ちゃんと、人を助けてきたよ。爺さんに教わった通り」
院長は、しばらく、アゼルの顔を見ていた。それから、リリアナたちへ目を移した。濁った目が、一人ずつを、ゆっくりと撫でる。
「いい、連れだな」
それだけ言って、院長は背を向けた。
「飯にしよう。積もる話は、その後だ」
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夕餉は、簡素だった。
米と、豆の煮込み。軽く煮た瓜。焼きたての、薄いパン。香辛料は、ほとんど使われていない。ニンニクも、玉ねぎもなかった。刺激を、一つずつ、削ぎ落としたような味だった。
食前に、修道士たちが、声を合わせて、短い祈りを唱えた。
アゼルも、目を閉じて、それを唱えていた。
久しぶりのはずの言葉が、するすると、口から出ていた。体が、覚えていた。
リリアナは、その横顔を見ていた。
床に車座になって、皆で、同じものを食べる。
これまでの旅の、どの食事とも違った。辛くもない。甘くもない。胃を刺すものも、舌を灼くものも、何もない。
ただ、静かで、温かかった。
その温かさが、すうっと、体に染みていった。
乾いた街の、味のない粥を、リリアナは、ふと思い出した。
修道士たちが、次々にアゼルの昔話を始めて、止まらなかった。落ちこぼれだったこと。掃除をさぼって屋根で昼寝していたこと。治癒の修行だけは、誰より熱心だったこと。
「アゼル兄、いっつも言ってた。『助けられる人を、助けられないのが、いちばん悔しい』って」
若い修道士の言葉に、アゼルが、ぐ、と詰まった。
「……そんな、青臭いこと、言ってたっけ」
「言ってた言ってた」
笑いが、起こる。
リリアナは、また、その横顔を見ていた。
助けられる人を、助けられないのが、悔しい。
その言葉の重さを、リリアナは、もう知っている。あの記憶を、見てしまったから。冷たくなる手を、握って、離さなかった、若いアゼルを。
笑っているアゼルの、その奥にあるものを、リリアナだけが知っていた。
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夜が明けて、アゼルは院長に許可をもらい、リリアナを書庫へ呼んだ。院長も一緒だ。
書庫は、思いのほか広かった。
壁一面の棚に、写本が並んでいた。羊皮紙を綴じたもの、木簡、巻物。
「リリアナさんは、こういう所、好きですよね?」
アゼルは尋ねたが、リリアナの目は、既に輝きを放っていた。古い書の匂いだけで、もう骨抜きになっている。
修道院では、古い書を写し、また写し、伝えてきたのだという。
「ここの修行は、祈りと、写本だ」
院長が、棚を撫でた。
「読めずとも、写す。意味が分からずとも、一字一字、写し取る。そうして、千年、伝えてきた」
「院長、ご報告があります。リリアナさんは、何も聞いてません」
院長は、愕然とした。膝の力が抜け、床に手をつく。
「こ、こやつ……」
当のリリアナは、一冊の本を手に取っていた。
「かの有名な、十人の賢者の記録……!」
引用でしか、知らなかった。その原典が、ここにある。
ページを、めくる。
見覚えのある、古代文字。だが――構文が、違う。石碑のものとも違う。これは、記録だ。誰かが、何かを書き残したもの。
一行、目で追う。
心臓が、跳ねた。
――十の者、竜を呼び、役目を終えた竜は、剣となる。
竜。
「……竜を、呼ぶ?」
記憶の中で、何かが引っかかった。だが、引き出せなかった。
その先は、暗号めいて、読めなかった。文字が規則を持って、入れ替えられている。読み解く糸の端は、まだ見えない。
リリアナは、夢中でページをめくった。
「リリアナさん、目が怖いですよ」
アゼルが、肩をすくめて、笑った。
「随分と、気に入ったようだな。そいつの写本は、まだある。持って行っていいぞ」
リリアナは、本をぎゅっと抱きしめた。
「あっ、そこは聞こえてるんだ」
アゼルも、がっくりと床に手をついた。
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ひとしきり写本に没頭したあと、リリアナは、ふと、顔を上げた。
千年、写し継がれてきた、壁一面の書。読めずとも、意味が分からずとも、ただ一字ずつ、守り伝えてきた、知識の山。
その重みに、胸を打たれていた。
「院長さん」
リリアナは、立ち上がった。
「ここに、結界を、張らせてください」
院長が、振り返る。
「結界?」
「魔物を、寄せつけない結界です。この書庫を……この知識を、守りたいんです。ずっと、ずっと先まで」
院長は、しばらく、リリアナを見ていた。それから、静かに、頷いた。
ガルドが、書庫の隅に、石箱を据えた。
リリアナは、魔導書に、命を吹き込む。
淡く光る膜が、書架の間を、ゆっくりと湧き上がっていく。千年の写本を、一冊ずつ、撫でるように。膜は書庫を満たし、修道院を包んで、少しずつ、薄れていった。
知識への、感謝を込めて。
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書庫を出る時、院長が、ぽつりと言った。
「最近、街に、おかしな連中が増えてな」
杖の先で、床を、こつ、と突く。
「白いローブの、教団の布教師だ。われわれ寺院とは違う、女神の教えを説く。悪いことは、言わん。だが――目が、どうも、好かん」
アゼルは、口を開きかけた。教団の真実。ダルシャの、澄んだ目。
結局、声は喉の奥に消えた。
「年寄りの、気のせいであればいいが……」
院長は、それきり、何も言わなかった。
ガルドだけが、その言葉に、足を止めていた。
白いローブ。好かない目。
祈堂で見た、あの空っぽの目を、ガルドは思い出していた。
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その夜、リリアナは、写本にかじりついていた。
ろうそくが、短くなっていく。
十の者。竜。剣。
暗号の鍵は、まだ、掴めない。だが、いつか解ける。その手応えだけは、あった。
窓の外、丘の下に、ハイデラバードの灯りが、瞬いていた。
その灯りのいくつかが、白いローブの集まる、祈りの家のものだった。




