第十六話 ―― 目覚めと、希望と ――
雨は、三日、降り続いた。
アゼルは、目を覚まさなかった。
熱はない。傷もない。ただ、眠っていた。穏やかに、すうすうと。
リリアナは、その枕元を離れなかった。
ガルドは宿の主人に、もう数日、留まりたいと頼んだ。主人は、何も聞かずに頷いた。雨の日に倒れた者を、急かす町ではなかった。
ヴァルは、相変わらず、ふらりと出ては、ふらりと戻った。何を見てきたのか、語らなかった。
リリアナは、眠るアゼルの傍で、記録帳を広げていた。
手元にあるのは、あの乾いた街で写した、蘇生の石碑の写し。解ききれなかった、桁違いの構文。
ペンを、走らせる。
組んでは、崩す。また、組む。光は滲むたび、指先で消えた。糸の在り処は、前より見える。ほつれの端を、一つ、また一つ、指で手繰る。だが、その奥は、いくつもの結び目で塞がれていた。指は、途中までしか届かない。
それでも、リリアナは手を止めなかった。
眠るアゼルを、時々、見た。
救える手を持ちながら、命を掴めなかった男。流れ込んできた、あの記憶。母を、ダルシャを。
だから、というわけではない。ただ、何かをしていたかった。
穴だらけの、使えない術式。それでも、一冊の本に落とし込んでいく。
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四日目の朝。
雨が、上がっていた。
窓から、久しぶりの光が差し込んだ。乾いた高原に戻った空気が、洗われて、澄んでいた。
その光の中で、アゼルの睫毛が動いた。
「……ん」
ゆっくりと、目を開ける。
天井を、見上げる。それから、ぐるりと、三人を見回した。
「……あれ。僕、どうしたんでしたっけ」
いつもの、間延びした声だった。
返事の前に、アゼルは、ガルドを見て、ふっと笑った。
「ガルドさん、相変わらず、喋りませんねえ。僕が寝てる間、一言でも喋りました?」
「……起き抜けに、それか」
「あ、喋った」
それから、ヴァルへ、目を移す。
「ヴァルさんは、相変わらず、お綺麗で。寝起きに拝めて、眼福だなあ」
「……寝ぼけてるのか」
ヴァルが、目をそらした。耳が、わずかに赤い。
リリアナは、その様子を見て、こらえきれなくなった。
「……ばか」
視界が、滲んでいた。なぜ滲むのか、自分でも分からなかった。
「四日も、寝てたんだから。心配……したんだから」
「四日!?」
アゼルが、飛び起きた。そして、めまいを起こして、また倒れた。
「いたた……」
いつもの、アゼルだった。
張り詰めていたものが、ふっと、抜けた。
戸口のガルドが、息を吐く。ヴァルが、窓の外へ目をやって、小さく、口の端を上げた。
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その日の昼、アゼルは粥を平らげ、夕には立てるまでになった。
驚くほど、回復が早かった。
誰も、それには触れなかった。
夜。
リリアナは、出来上がった一冊を、アゼルに差し出した。
「これ、あげる。あの街の石碑から、作った」
アゼルは、受け取って、表紙に指を滑らせた。いつか、ヴァルに洞察の書を渡した時と、同じ仕草だった。
「へえ。何の魔法です?」
「蘇生。死んだ人を、浄化して、甦らせるらしい」
「らしい?」
「解けてないの。それに、一つの力じゃ足りない。性質の違う、二つの力が要るみたいで。今は、使えない」
リリアナは、肩をすくめた。
「だから、今は、ただのゴミ」
アゼルは、しばらく、その本を見ていた。
死なせてしまった、たくさんの手を、思い出していたのかもしれない。
「……いつか、使えたら、いいですね」
ぽつりと、言った。
「うん」
リリアナは、それだけ返した。
アゼルは、本を、懐にしまった。
ただのゴミを、ずいぶん、深いところに。
アゼルは、ふと、リリアナの横顔を見た。
いつもなら、ここで軽口の一つも、出るはずだった。
なのに、言葉が、出てこない。
口を開きかけて、結局、閉じた。
茶化すのは、得意なはずなのに。
それきり、二人とも、何も言わなかった。
窓の外に、雨上がりの月が、出ていた。
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翌朝、四人は宿を発った。
ヴァルが、東の空を見て言った。
「ハイデラバードは、もうすぐだ」
アゼルが、伸びをした。
「あー、久しぶりだなあ、あの街」
リリアナが、振り返る。
「久しぶり?」
「言ってませんでしたっけ。僕、あそこの修道院で、修行してたんですよ」
なんでもないことのように、アゼルは笑った。
「懐かしいなあ。爺さん、まだ生きてるかな」
四人は、歩き出した。
乾いた高原の道に、雨上がりの光が満ちていた。




