第十五話 ―― 血と、眠るものと ――
「もう一度。今度は、どこまで保つかな」
穏やかな声のまま、長身の影は微笑んでいた。
その光景に、三人は動けなかった。
地に転がる、血みどろの男。悲鳴は、もう、出ていなかった。出し尽くしたのだ。細い息の音だけが聞こえてくる。
その傍らに、影は静かに立っている。
人ではない。魔物とも違う。
その気配を、ガルドは知っていた。
「悪魔だ」
声が、掠れた。倒せるか、ではない。倒す以外に、選択肢がない。
「やるぞ」
リリアナとヴァルは狼狽えた。
悪魔の存在は知っていた。だが、それが今、目の前にいる。どんな顔で対峙すればいいのか、分からなかった。
ガルドが、最初に動いた。
剣を抜き、踏み込む。
その背中が、二人の心を動かした。そうだ。被害者は、目の前にいる。
ガルドの斬撃が、肩を裂いた。黒い血が、噴く。
「ほう」
悪魔は避けもしなかった。
「私に、限界を教えてくれるのか。ありがたい」
ヴァルの炎の短剣が、胸を斬り裂く。
リリアナの光の弾が、雨のように撃ち込まれる。一つ、二つ、三つ――間断なく、間断なく。
斬れた。貫けた。撃ち込めた。
悪魔の体は、黒い血にまみれ、ぼろぼろに裂けていく。
なのに。
立っていた。微笑んだまま。痛みなど、感じていないように。
いや――味わうように。
「いいね。もっと、見せてくれ」
斬れば、塞がらぬまま、また斬らせる。貫けば、抉れたまま、また貫かせる。
いくら攻撃を加えても、倒れない。
倒す、という手段が、この相手にはない。
初めてだった。剣で、どうにもならない相手は。
ならば、と。
リリアナの指先に、光が集まった。黒く、燃えるような光が、渦を巻き、束ねられた。
「みんな、離れて!」
バリバリッ!
耳をつんざく轟音とともに、黒い稲妻が、悪魔を貫いた。
肉の焦げる臭い。煙が、雨に混じって、立ち上る。
手応えは、これまでの比ではなかった。
悪魔の体が、半ば、焼け崩れた。
「ああ……」
崩れた体の、どこからか、声がした。
恍惚と、していた。
「いいね。近づいてきた。私の――いや、この体の、限界に」
そして、三人の攻撃が止んだ時。
手が、尽きた時。
悪魔は、ゆっくりと、両腕を広げた。
全身から、温かい光が溢れる。僧侶の祝福と、寸分違わぬ、慈悲の光。
裂けた肩が。抉れた胸が。焼け崩れた半身が。撃ち込まれた、すべての痕が。
いっせいに、塞がっていった。
ぼろぼろだった体が、もとの、端正な姿へ戻っていく。
まるで、何も、なかったように。
三人の、総攻撃のすべてが。
ただの、計測でしか、なかった。
悪魔は、塞がりきった自らの体を、満足げに見下ろした。
「ありがとう。おかげで、いいところまで分かった」
そして、視線を、地に転がる男へ戻した。
「さて。続きを、しようか」
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歪曲のデミウルゴスの、地を這うような声がした。
「器の修復は、終わったぞ」
三柱の白いローブが、宿の屋根に降り立った。
眼のオクラスを通して、宿の中を透かし視る。
「……迎えか。今、いいところじゃないか。まだ、まだ」
地上から、グロストの声が届いた。
「ヴォルガス」
禍いのモルボスは、それだけ言った。
支配のヴォルガスが、口を開いた。
「グロストよ。器に、戻れ」
グロストの輪郭が、びくりと、強張った。
「や、やめ……っ」
抗う声は、途中で、塗り潰された。
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悪魔の輪郭が、ぐにゃりと、歪んだ。
黒い体が、角が、翼が、空気に溶けていく。
その姿が、消える間際。
黒い靄が、一筋。通りの向こう、アゼルの眠る宿の方角へ。すうっと、引かれるように、消えていった。
誰も、それを、見ていなかった。
悪魔が消えても、声だけが残っていた。
姿は、ない。四方から響くようでも、頭の奥で鳴るようでもあった。
眼の、悪魔だった。
「視させてもらった。いいものを、視た」
怒りも、悪意もない。ただ、視ている、という気配だけが、肌に絡みついた。
「邪魔をしたな。二人とも、達者でな」
気配が、薄れて、消えた。
二人?
リリアナとガルドは、ヴァルを見た。
やはり、そこに、いる。
「うっ……」
地に転がる男が、呻いた。服は血だらけだが、傷はどこにも見当たらなかった。
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三人が、宿の部屋に駆け戻った時。
アゼルは、ベッドに横たわっていた。
眠る前と、同じ姿で。すうすうと、寝息を立てている。
いや――眠る前より、顔色がよかった。
青ざめていた頬に、血の色が戻っている。穏やかな、寝顔だった。
リリアナは、ベッドの脇に膝をついた。
その顔を、見つめる。
よかった、と思おうとした。アゼルが、楽になったのなら、それでいい。
なのに、うまく思えなかった。
消耗して、倒れたはずだった。なのに、眠る前より、ずっと、安らかに見える。何かを、出し切った後のような。
ガルドが、戸口に立っていた。何も言わなかった。
ヴァルは、窓の外を見ていた。雨は、まだ、降っていた。
リリアナは、アゼルの寝顔を、見つめ続けた。
胸の奥の、小さな引っかかりが。
もう、小さく、なかった。




