第十二話 ―― 辛さと、暗がりと ――
左手に、海が見える。潮の匂いが、ずっと風に乗っていた。海面の光が、目に突き刺さる。
悲鳴が聞こえた。
街道の先で、荷馬車が立ち往生していた。その周りを、犬の魔物が、四匹、囲んでいた。額に、紋様はない。ただの、餓えた魔物の群れだった。
ガルドが走った。剣を抜き、一匹を斬り伏せる。
ヴァルが短剣を投げた。炎が宙を裂き、二匹、三匹と倒れる。
リリアナが光の輪を放ち、一匹の脚を絡め取った。
その隙に、ガルドが仕留める。
残った一匹が、逃げた。
荷馬車の陰に、商人の一家が震えていた。父と、母と、幼い娘。アゼルが、真っ先に駆け寄った。
「もう、大丈夫ですよ」
娘の前にしゃがみ込み、目の高さを合わせる。声が、やわらかかった。
「ほら、傷はない。よく、我慢しましたね」
娘が、こくりと頷いた。さっきまで強張っていた顔が、少しずつ緩んでいく。
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商人の一家は、ヴィザグへ向かう途中だった。同じ街と分かり、四人は荷馬車に同行した。
魔物のせいで村で商売が立ち行かなくなり、拠点をヴィザグへと変えるところだという。
娘は、もうアゼルに懐いていた。
荷台に揺られながら、アゼルは娘の話に付き合っていた。何を持っているのか、どこへ行くのか。娘の答えを、大袈裟なくらい面白がる。娘が笑うたび、母の肩からも、力が抜けていった。
商人が口を開いたのは、その流れの中でだった。最初は天気の話。次に、商売の話。気づけば、聞かれてもいないことまで、自分から喋っていた。アゼルは、ただ相槌を打っていた。それだけで、商人は止まらなくなった。
リリアナは、隣でそれを見ていた。
武器を持った見知らぬ四人。本来なら、警戒されて当然だった。なのにアゼルは、特別なことは何もせず、ただその人のいる場所まで降りていって、隣に座る。それだけで、相手の方から、心を開いてしまう。
ふしぎな人だ、と思った。
戦う力なら、ガルドにも、ヴァルにもある。でも、これは、アゼルにしかない。
娘を笑わせるアゼルの横顔を、リリアナは、いつのまにか、見ていた。
視線に気づいたアゼルが、こちらを向く。
「?」
「な、なんでもない」
リリアナは、慌てて海の方を見た。波の音が、やけに大きく聞こえた。
港町に着く頃には、商人は、宿まで世話を焼いてくれていた。砂浜の向こうの海には、何艘もの漁船が浮かび、海鳥の声が絶え間なく響いていた。
「あの僧侶さまは、不思議なお方だ」
別れ際、商人がガルドにそう言った。
ガルドは、ただ頷いた。
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いつもなら、僧侶のローブを見ただけで人は心を開く。だが、この宿の主人は、渋い顔をしていた。得体の知れない石の箱を、店に置けというのだ。無理もなかった。
アゼルは、無理に勧めなかった。
代わりに、主人の話を聞いた。商売のこと、最近の海の荒れ方、魔物が増えて漁師が減っていること。相槌を打ち、時折、問いを挟む。気づけば、話しているのは主人の方だった。
「……それで、倅が漁に出たまま、な」
主人の声が、湿った。
アゼルは、何も言わずに、ただ聞いていた。
しばらくして、主人がぽつりと言った。
「その箱とやら、置いてみるか。倅が帰ってくる場所くらい、護られてた方がいい」
リリアナは、その様子を、少し離れて見ていた。
戦って魔物を倒すのとは、違う。傷を癒すのとも、違う。アゼルは、人の心の閉じた扉を、こじ開けるのではなく、向こうから開かせてしまう。
それが、すごいことなのか、少し怖いことなのか。リリアナには、分からなかった。
胸の奥が、少し、ざわついた。
「いいぞ、リリアナ」
ガルドの合図に、はっと我に返る。
リリアナは石箱の魔導書に、命を吹き込んだ。淡く光る膜が、宿を、港町を、ゆっくりと包む。光は、少しずつ薄れていった。
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その晩、助けた商人の一家が、礼にと食事を運んできた。
ゴングラ・マムサムと呼ばれる料理だ。ゴングラという酸味の強い葉野菜、青唐辛子、羊肉などが使われているそうだ。唐辛子と酢のような香りが鼻を刺激する。
「このあたりの味です」と商人が笑った。「辛いですよ」
ヴァルが、最初に口に入れた。表情を変えず、二口目を口に放り込む。
リリアナも、続いた。
次の瞬間、目を見開いた。辛い。ただ辛いのではない。舌の奥を、針で刺すような辛さだった。喉が、燃えた。
「っ、か……からっ」
手元の水を、一息に飲み干す。だが、辛さは引かなかった。むしろ、口の中で暴れ回った。
商人の娘が、きょとんと見ている。この辛さに、慣れているのだ。
アゼルが、ヒィヒィと笑いながら、肩を震わせている。笑いすぎて、窒息寸前だ。
「アゼルさんっ、笑ってないで、水っ」
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深淵の暗がりに、白いローブが、五つ、あった。
支配のヴォルガス。唇の刺繍。
歪曲のデミウルゴス。耳の刺繍。
眼のオクラス。眼の刺繍。
禍いのモルボス。掌の刺繍。
そして、五つ目――牙の刺繍。
その頭巾だけが、誰も纏わぬまま、椅子の背もたれに掛けられていた。
「軌道に乗ったな。グロストは確実に隠匿されている」
オクラスの視線が、暗闇の中で、三人を捉えていた。
「信徒は、増え続けている」
支配のヴォルガスの声が、続いた。
「予想通り、魔物が強まるほど、人は救いを求める」
「デミウルゴスよ、完成したか?」
禍いのモルボスが尋ねた。
「まだ力が足りないが、順調だ」
四つの影は、暗闇へ消えた。
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