第十三話 ―― 乾きと、戻らぬものと ――
ヴィザグを出て、内陸へ入った。
潮の香りは消え、乾いた土の匂いが立ち込めてきた。赤茶けた大地と、骨のように白く立ち枯れた木。唇はすぐに割れ、水筒の水が、みるみる減っていく。
リリアナは、舌で唇を湿らせた。
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その街は、乾いた大地の中に、ぽつりとあった。
日干し煉瓦の家々が、肩を寄せ合っていた。井戸で水を汲む人がひとり、肌を陽に灼かれ、乾いた目をしている。かつては栄えたのだろう。崩れた石塔の跡、風化した彫刻が、街のそこかしこに埋もれていた。
ガルドが、羊皮紙の地図を広げた。欠片の在り処が示すのは、この街の少し北だった。
鎧の男が、こちらへ歩いてきた。胸に、十字の紋章。
リリアナは、息を呑んだ。ガルドと同じ紋章だった。
「クルセイダーの、ダルシャだ」
男は、四人をじっくりと品定めした。アゼルのローブ、ガルドの紋章――その真贋を確かめたところで、再び口を開いた。
「本物のようだが……変わった組み合わせだな」
確かに、四人は異質な組み合わせだなと、ヴァルは妙に感心した。
「教団の聖務官の命で、地図を運ぶ途中だ。この者たちは、私の護衛だ」
ガルドは、もっともらしい嘘をついた。
ダルシャと名乗った男は、若かった。日に灼けた顔に、まっすぐな目をしていた。
重苦しい空気を、アゼルがわざと、ぶち壊した。
「あぁ~もう、疲れた。休みたい。水飲みたい。死ぬ」
ダルシャが、ふっと笑った。
「では、うちに来るがいい。ここには宿もないしな。怪しい者にうろつかれるのも、困る」
その道中、ダルシャはよく喋った。女神への祈り。教団の教え。巡礼者たちを魔物から守る使命。その一つ一つを、迷いなく口にした。目が、澄んでいた。何ひとつ疑っていない声だった。
ガルドは、ただ、その十字の紋章をしばらく見ていた。
女神。教団。ダルシャが信じているもの。そのすべてが、今はもう、悪魔の手の中にあること。ガルドは、それを知っていた。
告げるべきか。
迷いはあったが、結局、声は喉の奥に消えた。
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ダルシャが、食事を出してくれた。
欠けた椀に、白い粥のようなもの。米を、ただ煮ただけのものだった。塩も、香辛料も、ほとんどない。
「質素で、すまんな。この街では、これが馳走でな」
「しかし、あれだな」
ダルシャが、椀を配りながら、ヴァルを見た。
「お前さん、別嬪だな」
悪気は、まるでなかった。澄んだ目で、ただ思ったことを口にしただけだった。
ヴァルの手が、椀の手前で止まった。
「……は」
「いや、出会った時から思っていた。こんな別嬪が剣を振るうのかと、驚いた」
まっすぐに、重ねてくる。世辞でも、口説きでもない。本当に、そう思っているだけの声だった。
ヴァルは、口を開きかけて、結局、椀に目を落とした。こういう手合いが、いちばん困る。
アゼルが、横で堪えきれずに肩を揺らしている。
「アゼル」
「なにも言ってませんよ」
「目が言ってる」
リリアナは、一口、啜った。
味がしなかった。これまでの旅で食べた、どの料理とも違う。辛くもない。甘くもない。ただ、温かいだけだった。
だが、乾いた喉に、その温かさが染みていった。
ヴァルも、ガルドも、黙って椀を傾けていた。誰も、何も言わなかった。味のない粥を、ただ、啜っていた。
不思議と、それでよかった。
リリアナは、ふと、気配を感じ取った。
部屋の隅。深く沈んだ、影。
「あそこには、何があるの?」
「ああ、あそこには地下へ続く階段がある。先祖から、守れと言われている石碑があってな」
先祖。石碑。
まさか。
「見ても、いい?」
「構わんよ」
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地下は、岩を削って造られた洞窟だった。壁には、無数のノミの跡が残っている。これを掘るのに、凄まじい手間と時間がかかっていることは、容易に想像できた。
リリアナは呟きながら、周りを見渡す。
「不思議な気配は、この洞窟全体から感じられる。何か魔法がかけられている。きっと保護の魔法」
入口の右手に、古代文字が刻まれていた。
リリアナの指が、それをなぞる。読める。
――死者は帰らず。未来へ託す。
その奥に、石碑が立っていた。腰の高さほどの、低い角柱。あのパトナの石碑と、同じ姿だった。
リリアナは、夢中になった。記録帳を広げ、写し、注釈を加える。一行、また一行。乾いた地下に、ペンを走らせる音だけが響いた。
半日。
だが、リリアナのペンは、次第に鈍っていった。
ヴァルが護っていた石碑とは、桁が違った。構文が深く、複雑で、いくつもの層に折り重なっている。一つの糸を追うと、別の糸が切れる。追えば追うほど、全体が遠ざかっていく。
「……だめだ」
リリアナが、額の汗を拭った。
「これは、解ききれない。今の私じゃ、何年かかるか、見当もつかない」
それでも、ただ一つだけ、はっきりと読み取れたものがあった。
「分かるのは、これが『復活』に関わるものだ、ってことだけ。死んだものを……たぶん、蘇らせる」
リリアナは石碑を書き写しながら、ある違和感を覚えた。
――死者は帰らず。未来へ託す。
この碑が「復活」を記しながら、死者は帰ることは無い、それを未来へ託す? 辻褄が、合わない。
全文を書き取り終えた、その時だった。
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悲鳴が、聞こえた。
外へ出ると、街が混乱していた。
崩れた石組みの陰。岩と見分けのつかなかったものが、ぬるりと動いた。
巨大な、竜のような魔物だった。翼はなく、低く長い体が、地を這う。乾いた鱗が、岩肌と同じ色をしていた。だから、誰も気づかなかった。長く突き出た顎に、牙が並ぶ。額に、紋様。これまでの個体より、ひと回り大きい。
低い体が、地を這うように突進した。太い尾が、日干し煉瓦の家を、横ざまに薙ぎ払った。
ダルシャが走り出していた。剣を抜いて。
「女神よ……っ」
迷いはなかった。逃げ惑う人々と、魔物の間に、身を投じる。剣を構え、竜の牙を受け止めた。
ガルドが続く。ヴァルが炎を纏わせた――自分の短剣と、ガルドの剣に。リリアナが術式を組む。
戦いは、速かった。
だが、魔物の尾は、重かった。
ダルシャが人々を庇って、前に出た――その時。
牙が、ダルシャに食らいついた。
「っ……」
ガルドの炎の剣が、魔物の額を断った。
紋様が、砕けた。
魔物が、崩れ落ちた。
だが、遅かった。
ダルシャは、倒れていた。脇腹を、深く抉られて。
アゼルが、駆け寄った。両手を当て、祈りを込める。だが、その掌から、いつものような温かい、慈悲の光が発せられない。
脇腹から大量の血が流れる。命が零れ落ちていく。掴もうとするほど、指の間から、零れていく。
「なぜだ、なぜ、この手が光らない」
アゼルの額から、冷たい汗が流れ落ちる。
リリアナは、何かを見た気がした。治そうとする手とは、どこか違う、何か。だが、それが何か、形になる前に、消えた。
アゼルの顔には、必死さしか、なかった。
ダルシャの唇が、動いた。
「……女神は、護ってくださる」
澄んだ目のまま、ダルシャは、そう言った。
信じて、疑わずに。
そして、その目から、光が抜けていった。
アゼルの手の中で。
アゼルは、動かなかった。
手を当てたまま、動けなかった。
その時、崩れ落ちた魔物の亡骸から、光が零れた。
水晶の欠片。ゆらゆらと宙を漂い、四人の前で、止まった。
こんな時に。男が一人死んだ、その傍らで、欠片はただ、無慈悲に光っていた。
弾けた。四人に、アゼルの記憶の光景が広がった。
◇
薄暗い、部屋。
床に、人が伏せていた。痩せて、骨の浮いた手。荒い息。
まだ若い、僧になりたてのアゼルが、その傍らに膝をついていた。両手を当て、祈りを込める。光を送る。送り続ける。
「お母さん、まだ行ったらダメだよ。一人にしないで……」
顔色が戻らない。手が冷たくなっていく。
それでも、アゼルは、光を送り続けた。何度も。何度も。
伏せた人の手が、力なく、床に落ちた。
若いアゼルは、その手を、両手で握った。冷たい手を。握って、握って、離さなかった。
◇
光景が、消えた。
アゼルは、ダルシャの傍らに、膝をついたままだった。
救える手を持っているのに。傷なら、治せるのに。ただ、見ているしかできない。
リリアナは、何も言えなかった。今、流れ込んできたもの。アゼルが、誰にも言わずに抱えていたもの。それを、知ってしまった。
胸元のペンダントを、握りしめる。
冷たくなっていく手を、握って、離さなかった、若いアゼル。
リリアナも、知っていた。瓦礫の下で、自分の名前さえ思い出せなかった、あの日を。握りしめても、もう応えない手のことを。
蝶の翅が、手のひらに、食い込んだ。
ヴァルは、少し離れて、立っていた。いや、近づけなかった。
ダルシャの脇腹の、牙の痕を見ていた。それから、目を逸らした。
水辺の泥の上で、冷たくなっていった背中を、ヴァルは知っている。何度揺すっても、応えなかった、あの背中。
ガルドが、ダルシャの胸の、十字の紋章を、静かに見ていた。
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――この人間の限界はどこだ?
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アゼルの握った手は、もう、温かくならない。
あの時と、同じだった。
アゼルの中の何かが、ぴしりと音を立てた。




