第十一話 ―― 潮と、面影と ――
パトナを出て、街道を東へ下った。
日を追うごとに、空気が湿っていった。風に、塩を含んだ、遠い水の匂いが混じり始める。
ヴァルの口数が、減っていた。元々多い方ではない。だが今は、先頭にも最後尾にもつかず、ただ黙って東の空を見ていた。
リリアナは、歩きながらも術式のことばかり考えていた。あの石碑の、太古の構文。組み替えられた単語の連なりから、まだ見ぬ術式の形が、おぼろげに立ち上がりかけている。だが、繋がりきらない。指が、宙で何かをなぞる。
アゼルが、隣で小さく笑った。
「現実世界にいませんね」
「え?」
「身体はここですけど、頭の中は術式に埋もれてます」
「……そんなことない」
「指、動いてますよ」
リリアナは、はっと両手を握った。
アゼルが、笑いを噛み殺している。意地悪な笑いではなかった。リリアナは、なぜだか、その目を見ていられなくて、前を向いた。
-----
街が見えてきたのは、三日目の昼だった。
コルカタは、これまでのどの街とも違った。大きな川が、街の西を流れていた。川幅が広く、水は南へ、ゆっくりと重く流れていく。河口が近いのだ、と分かった。帆を張った舟が、いくつも行き交っていた。
人が、多かった。荷車と、人と、家畜と、声。新しい石造りの建物と、崩れかけた古い壁とが、肩を寄せ合っていた。湿った風が、潮と香辛料の匂いを運んでくる。
ヴァルは、足を止めなかった。迷いのない足取りで、雑踏を抜けていく。三人は、その背中を追った。
屋台の並ぶ一角で、ヴァルがふいに足を止めた。鉄板の上で、薄く焼いた生地に何かを巻いた物を、男が手早く包んでいる。
「カティ・ロールだ」
ヴァルが、四人分を頼んだ。誰に聞くでもなく、当たり前のように。配られたそれを、リリアナは紙ごしの熱を両手で包んで齧った。香ばしくて、辛くて、酸っぱい。歩きながら食べるのに、ちょうどいい。
だが、ヴァルは自分の分を手に持ったまま、食べなかった。雑踏の向こうを、見ていた。
途中、古い路地の前で、ヴァルの足が、一瞬だけ緩んだ。
生家のある、路地だった。
ヴァルは、覗かなかった。母は、もう、あの家にはいない。それだけは、聞かなくても分かっていた。
足を止めずに、通り過ぎた。
-----
川辺に、古い渡し場があった。
石段が水際まで続き、小舟が舫われていた。その一艘の傍らに、年老いた男が座っていた。背は曲がり、肌は陽と潮に灼かれて黒かった。
ヴァルが、その前で立ち止まった。
老人が顔を上げる。濁った目が、ヴァルを捉えた。皺の奥の目が、わずかに見開かれた。
「……お前さん。あの刺繍職人の、子か」
ヴァルは、答えなかった。
「ビレンじいさん」
それが、答えだった。
老人――ビレンの口元が、ゆっくりと緩んだ。歯の抜けた、温かい笑みだった。
「驚いた。えらい別嬪に育ったじゃないか」
「や、やめてくれ」
ヴァルが、目をそらした。
アゼルが、すかさず横から覗き込んだ。
「照れてます?」
「照れてない。……海風だ」
ビレンが、声を上げて笑った。リリアナも、口元を押さえた。
ビレンが、川を見た。
「お前の兄さん、ずっとこの波止場で働いとったがな。一年前、河口まで運んだぞ」
ヴァルの動きが、止まった。
「今は、河口の集落にいる。……いや、いた、と言うべきか。あの集落が、虎の魔物に荒らされた。もう、あそこまで舟を出す者もいない」
ヴァルの声が、硬くなった。
「連れて行ってくれ。その集落へ」
ガルドが、ビレンに向き直る。
「舟を、頼めるか」
ビレンは、頷いた。
-----
舟は、川を下った。
川幅は、下るほどに、いくつもの細い流れに分かれた。両岸に、根を水面から突き出した木々が密に茂っている。マングローブだ、とビレンが言った。
空気が、湿って生温い。櫂が水を掻くたび、泥の匂いが立った。鳥の声が、遠くで鋭く響いては、また止む。静けさが、重かった。
潮が、満ち始めていた。海が、近い。
-----
集落は、水際にあった。
高床の小屋が並んでいた。だが、ほとんどが壊れていた。柱が折れ、屋根が崩れ、人の姿はなかった。
ビレンが、舟を岸に着けた。
「ここから先は、儂は行けん。……気をつけてな」
四人は、泥を踏んで村へ入った。
気配は、すぐにあった。
壊れた小屋の影から、それは現れた。
虎だった。だが、ただの虎ではない。馬よりも大きく、口から、湾曲した二本の牙が、剣のように伸びている。額に紋様が浮かんでいた。
虎が、低く唸った。
地を蹴る。速い。
ガルドが前に出た。剣で、爪を受ける。
重い一撃に、足が泥にめり込んだ。
ヴァルが、短剣に炎を纏わせた。
ガルドの剣にも、炎が走る。
炎の刃が、虎の脇腹を裂いた。
だが、浅い。
虎が身を翻した。尾の一撃。
アゼルが、跳んで避けた。
虎が、再び沈み込む。次の跳躍。狙いは、ヴァル。
リリアナが、術式を組んだ。
光の輪が、虎の四肢に絡みつく。
跳躍が、途中で止まった。
「今だ」
ガルドとヴァルが、踏み込む。
だが虎は、光の輪を引き千切り、マングローブの森へ消えた。
森が、ざわめいた。葉の擦れる音が、四方から湧く。位置が、掴めない。
リリアナが、地面に左手を置いた。
道中ずっと捏ねていた、あの構文。繋がらなかった糸が、今、勝手に繋がった。
左手を中心に、青い陽炎が、波紋となって広がる。
「私の指先の方向に、虎がいる」
リリアナの指が、アゼルを差し――そのまま、真上へ跳ね上がった。
アゼルの背後。虎が、宙にいた。飛びかかる、その頂点で。
「今よ」
ヴァルが、跳んだ。
空中の、額を捉える。
炎の刃が、紋様を断った。
砕けた。
虎が、泥の上に崩れ落ちた。紋様のあった場所から、水晶の欠片が零れ、宙を漂い、四人の前で止まった。
弾けた。四人に流れ込んできたのは、ヴァルの記憶だった。
◇
幼い少女がいた。ヴァルだ。
父が、倒れていた。水辺の泥の上に、大きな背中を晒して。傍らに、魔物の爪の跡があった。少女が、その背を揺する。何度も、揺する。父は、応えなかった。冷たくなっていく背を、小さな手が、ただ揺すり続けた。
母がいた。
いつからか、白い簡素な衣を着せられるようになっていた。教団の僧が、家を訪ねてくるようになった。母の目から、少しずつ光が消えていった。やがて、娘を見ても、何も映さなくなった。
少女が、母の裾を引いた。何度も引いた。母は、振り向かなかった。口だけが、祈りの言葉を繰り返していた。
兄がいた。
父は死に、母は心を奪われた。その家に残されたのは、兄と二人きりだった。だが、ある朝、兄は荷を背負っていた。
「兄ちゃん」
少女が呼んだ。兄は、戸口で足を止めた。背を向けたまま、動かなかった。それから、出ていった。一度も、振り返らずに。
小さな影が、追おうとして、止まった。
――もっと前。
まだ、誰も欠けていなかった頃。
壊れる前の、同じ小屋。窓の外は、夕暮れの明るさ。竈で、魚が焼けていた。脂の爆ぜる音。香辛料の湯気。
父が、肩を揺らして笑っていた。母の手が、骨を外した魚の、いちばん身の多いところを、いちばん小さな皿に置く。兄が、まだ幼い妹の頭を、乱暴に撫でた。妹が怒って手を払い、兄が笑う。
いちばん小さな皿の前で、幼いヴァルが、魚を口いっぱいに頬張った。
温かかった。
父と、母と、兄と、自分。四つの影が、ひとつの灯りの下に、寄り集まっていた。
◇
光景が、消えた。
四人は、壊れた村の泥の上にいた。
誰も、口を開かなかった。
ヴァルが、崩れた小屋の壁際へ歩いていった。背を預けて座り込み、膝を抱えて顔を伏せた。
リリアナは、その隣に腰を下ろした。何も言わなかった。ただ、肩が触れるくらいの距離に座っていた。
胸元の、ペンダントに、指が触れた。
父と、母と、兄と、ヴァル。ひとつの灯りの下に、寄り集まっていた、四つの影。
リリアナにも、あった。豆の煮込みの匂い。ガレンの笑い声。セリアの手。誕生日の、食卓。
もう、ない。
蝶の翅を、指で、そっと握った。
ガルドが、その二人を見ていた。記憶の中の、ヴァルの母の目を思っていた。光のない目。あれは、祈堂で何度も見た目だ。信者の、空っぽの目。ガルドは何も言わず、いつもより長く、そこに立っていた。
-----
ヴァルは立ち上がると、壊れた小屋を一つずつ見て回った。だが、誰もいなかった。
いちばん奥の小屋の柱に、印があった。短剣で彫ったような、荒い線。家の紋だった。ヴァルの、家の紋。
「……ここにいたんだ」
声は、それだけだった。生きているのか、どこへ行ったのか、何も分からない。だが、ここにいた。それだけが、確かだった。
ヴァルは、紋の上にそっと手を置き、離した。
-----
コルカタへ戻ったのは、潮が引く頃だった。
渡し場の傍に、ガルドが石箱を据えた。
「いいぞ、リリアナ」
リリアナは、魔導書に命を吹き込んだ。
淡く光る膜が渡し場を包み、川面を渡り、南へ広がっていく。河口の方へ。デルタの、いくつもの村の方へ。光は遠ざかりながら薄れ、やがて見えなくなった。
ヴァルは、その膜が南へ消えるのを、黙って見ていた。
ビレンが、目を細めた。
「……あの子にも、届くといいな」
ヴァルは、答えなかった。ただ、小さく頷いた。
ヴァルが、腰の包みを開いた。昼のカティ・ロールが、すっかり冷めて固くなっている。
一口、齧った。
冷たくて、油が固まって、辛さだけが舌に残った。
「……不味い」
ぽつりと言って、それでも、もう一口齧った。
リリアナは、何も言わずに、その横顔を見ていた。




