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女神と、悪魔と ―過去にある未来―  作者: 一ノ瀬 俊晶


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第十話 ―― 石碑と、研究心と ――

 ヴァラナシの宿屋に石箱を設置し、パトナに入ったのは夕暮れだった。


 古い街だった。石畳が続き、崩れかけた石壁が道の脇に残っていた。ここには時間の重さがあった。何百年も前から、人がここで生きてきたような、静かな重さが。


 道端の屋台で、丸い褐色の菓子を売っていた。


「ラドゥーだ」とヴァルが言った。「焙煎したひよこ豆粉の菓子だよ」


「みんなで食べようよ」

 アゼルが四人分買って、それぞれに手渡した。

 ガルドは黙って一つ食べ終えると、何も言わずにラドゥーの屋台へ引き返していった。

 リリアナとアゼルは、思わず顔を見合わせ、最大級の笑顔になった。


 その笑顔のまま、リリアナは残りを口に放り込んだ。

 直後、眉間に皺が寄る。喉までせり上がる、暴力的な甘さ。左手で口を押さえ、ヴァルに目で訴えた。

 察したヴァルが、隣の屋台でチャースという薄い乳飲み物を買ってきた。流し込んで、ようやく息がつけた。


「慣れない奴は、少しずつ齧って、チャース飲みながら食べるんだよ」


 リリアナは、じとっとした目をヴァルに向けた。


「……先に言って」


-----


 宿に入ると、リリアナはすぐに記録帳を広げた。


 旅の間に書き溜めた術式の図を眺める。またひとつ、思いついた形があった。ペンを走らせる。組み直す。光が滲む。違う。また組み直す。


「何書いてるの?」


 リリアナの全身が、瞬時に強張った。ヴァルからは、生き物としての気配が感じられない。最初に出会った時もそうだった。急に現れたはずなのに、ずっとそこにいた気がしてしまう。


「その文字」

 ヴァルの声が、少し変わった。

「見たことがある」

「え?」

「祖先の墓に、同じような文字が刻まれた石碑がある」


 リリアナの目に、好奇の炎が宿った。


 その顔を見て、ヴァルが続けた。

「明日、行かない? 私も子供の頃から、何が書いてあるのか気になってて」


 翌朝、四人で墓へ向かった。


-----


 街の外れ、静かな風が吹き抜ける洞窟。その奥に、古い石碑が立っていた。腰の高さほどの、低い角柱だった。四つの面に、びっしりと文字が刻まれている。周囲の小石は綺麗に取り除かれ、苔もない。定期的に手入れをしている跡だった。


 ヴァルは石碑の前に立ち、黙って頭を下げた。


 リリアナは石碑に近づいた。指先で、文字をなぞる。


 同じだった。


 一般的な魔法の文字体系だ。だが構文が、全く違う。単語自体も組み替えてある。何かの意図は感じるのに、内容が頭に入ってこない。


「すごい」


 声が出た。独り言だった。一行、また一行と読み進めるうちに、細い糸が繋がっていく感覚がする。指先が、震えた。


「何が書いてあるんだ」

「魔法の理論よ。これ、墓じゃないわ」

「えっ、違うの?」

 ヴァルが石碑を見返した。

「当たり前よ。地面を見て。岩盤でしょ。墓石だけここに置く訳ないじゃない」

 リリアナの推察が続く。

「たぶん、この石碑を守るために、誰かがこの場所を選んだ。風雨に晒されず、植物に壊されることもない。文字が妙に深く彫ってあるのも、その誰かの意図」


「洞察」

 リリアナは一番上の大きな文字を読み、記録帳に全文を書き写し始めた。写し終えると、ぶつぶつと呟きながら、石碑の周りを回り始めた。


 一時間、二時間……流れる時間とは裏腹に、残る三人は悠久の時の中に閉じ込められたような錯覚に陥っていた。


「寒い……」

「腹が減った……」

「眠い……」

 アゼルの嘆きは、もう祈りに近かった。

「もう、死んじゃうよ……」


 動いたのは、ガルドだった。腰掛けていた大きな石から勢いよく立ち上がると、リリアナを肩に担ぎ上げ、走り出した。


「もう少し、もう少しだから……っ」


 断末魔にも似たリリアナの要求が聞き入れられることは、ついになかった。そのまま一行は、洞窟を後にした。


-----


 宿に戻るなり、リリアナは記録帳を広げた。石碑の文字を写し、注釈を加え、術式に落とし込む。


 ヴァルは自分の寝台に腰を下ろし、腕を組んで目を閉じた。


 リリアナは、ひたすらペンを走らせる。額を伝った汗が瞳を刺しても、その意識が現在に向くことはなかった。


-----


 それから一週間が経った。


「旅は、続けないんですか」

 と、アゼルが尋ねた。

 ヴァルは、椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰いでいる。

「お前が余計なことをしたせいだろ」

 ヴァルは、不服そうな顔をした。

「冗談だ」

 ガルドが、口の端をわずかに緩めた。

「あいつが生き生きしてるのを見ると、悪くない」


 ガルドは、リリアナと出会った時のことを、二人に話し始めた。瓦礫になった村。名前も思い出せずに座り込んでいた少女。


「それに、俺も何か必要なことだと感じてな」


 卓には、丸い団子を焼いたものが並んでいた。バターが溶け、湯気を立てている。


「リッティ・チョーカーです。パトナの名物ですよ」

 アゼルが、奥の机に向かって声をかけた。記録帳に覆い被さるように突っ伏した背中は、ぴくりとも動かない。

「リリアナさん。昨日から、何も食べてないですよね」

「食べてた」

「いつ」

「……覚えてない」

 アゼルが、深く溜息をついた。


 リリアナはペンを置かないまま、皿の一つを手元へ引き寄せ――そのまま、また文字の中へ沈んでいった。団子は、手つかずのまま冷めていく。


 ヴァルが、黙って食べていた。二皿目を、静かに引き寄せた。


 ガルドも、黙って食べていた。三皿目を、静かに引き寄せた。


 ドドドドッ


 リリアナが、焼けるような熱を帯びて突進してきた。


「出来たっ! 完成!」


 リリアナが、いつものように畳み掛ける。

「ヴァルの気配がない理由、石碑のせいだったわ。あの石碑、近くにいる人に、気配を消す力を少しずつ付与する自動装置だったの。それと、もうひとつ」

 リリアナは、一冊の本を机に置いた。

「石碑には、弱点を明らかにするっていう術式が、隠されてた」


 三人は何も理解していなかったが、リリアナの熱量に押されて頷いた。


「使ってみた?」

 ヴァルが、興味のある振りで聞いた。

「ううん、使えない。方法はわからないけど、身体と魂の浄化が必要らしくて」


 ガルドが、ゆっくりと天井を仰いだ。

 ヴァルが、目を伏せた。

 アゼルが、口を開きかけて、やめた。

 ――これだけ待たせて、使えないのか。


「この本は?」

 ヴァルが、呆れながら聞いた。

「その術式を魔導書にしてみた。ヴァルにあげる。あなたが、あの石碑を守ってたんでしょ」


 ヴァルは、本を受け取った。表紙に、指を滑らせる。何か言いかけて、結局、小さく頷いただけだった。


 ガルドが、重い口を開いた。

「言ってなかったが……俺も、故郷に、あの石碑に似た墓を守っていてな」


 その声の重さに、束の間、誰も口を開かなかった。ガルドが故郷の話をするのは、これが初めてだった。


 沈黙を破ったのは、リリアナだった。目に、また好奇の炎が宿っている。

「後でちゃんと案内しなさいよ!」


 ガルドは、リリアナに肩を思いっ切り揺さぶられ続けた。

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