それぞれの門出
「先生」
自然の静寂の帳に包まれた、湖畔に立つ小屋の一室。
窓から差し込む、昼の穏やかな光の中、幼女は扉が開く音に気が付くと、手にしていた本から視線を移した。
開かれた扉から「先生」という声と共に、見慣れた少女の姿が現われると、幼女はパァっと顔を晴らし微笑んだ。
「おぉ、ソロか」
ソロと呼ばれた少女は、幼女に同じように微笑んで返し、扉を閉め、部屋に入る。
しかし、その微笑みは、青空から照らす太陽のようなものではなく、どこか曇りがかったものだった。
白いベッドから上半身のみを出している幼女の姿を見るたびに、ソロの小さな胸には、暗い雨夜に走る稲妻のような、痛みが駆けた。
真昼の中、いつもは小鳥の姿でしか活動できなかった師が、本来の姿で時を過ごしているという事実は、彼女にかかっていた邪神の呪いが解けたことを意味していた。
幼女の呪いを解く者は、邪神の他には1人としていない。
その邪神の加護を受け、その力を込めた闇の勇者の"死の光"は、幼女の呪いを打ち砕くのに十分なものであった。
4000年という長きに渡る時の中、永遠に朽ちる事のない身体をようやく手放すことができたことは、幼女にとって喜ぶべきことであったし、それは、その幼女の心を知っていたソロにとっても、そのはずであった。
しかし、邪神の災いなのだろうか。
幼女の浴びた"死の光"は、幼女の不老不死という呪いを解くだけにとどまらず、その本来の効力も幼女の身体に作用していた。
直前に最大の防御魔法を咄嗟にかけたお蔭で、即死は免れたものの、その光は幼女の身体を確実に蝕んでいた。
もう自身は永くはない。
意識が戻った時、幼女が最初に放った言葉だった。
大災厄の時代の迫る中、幼女と過ごす時間が欲しいという、ソロの願いを拒む者は、誰一人としていなかった。
この小屋に戻って来たのは、ソロと幼女の中で、この場所が一番思い入れの深い場であった為だった。
世界という大舞台への出発地点。その場所が、ここであった。
少し歩けば、疲れたから、おんぶをしろ、とせがむばかりであった幼女は、今ではもう自身で歩くこともできない。
しかし、幼女は部屋に入って来る、最愛の弟子に、いつも微笑んでみせた。
2人の会話はいつもと変わらず、漫才のようにおちゃらけたものであった。
酒を幼女がせがめば、「もう、ほどほどにしてくださいよ」と苦笑し、夜には、2人で巡った旅の軌跡に思いを馳せた。
「思えば、お主とは本当に世界の様々な地を周ったものじゃのぉ」
すっかり夜の帳に包まれた窓の傍に置かれた、淡いオレンジ色のランプの光の中、幼女は感慨深そうに言った。
「こんなにも長らく誰かと共に旅をしたのは、後にも先にもお主だけじゃったわい」
「そうなんですか?」
「ああ。リュカの奴は、面倒くさがりじゃったからの」
幼女が笑いながら言うと、ソロもクスクスと声を漏らす。
「なぁ、ソロ。覚えておるか? お主とわしが出会った時のことを」
幼女が訊くと、ソロは強く頷いた。
「ええ、はっきりと覚えていますよ」
「あの時のお主は、本当にチンチクリンじゃったの。米粒ほどのチンチクリンじゃったわい」
「そんなにちっちゃくありません!」
ソロが言うと、カッカッカと幼女は笑う。
「あの時、お主もわしも、まぁお互い様にチンチクリンじゃったのぉ。出会うことがなければ、わしはあのまま独りで永遠に腐っていくばかりじゃった」
「それは、ボクも同じです。先生に出会うことがなければ、ボクは今頃、あの森の栄養分になってました」
「お主なんて、大した栄養にはならんじゃろう?」
「先生だって、身体の9割がお酒でできてる人間なんて、森にとっては有害ですよ」
「酒は天井天下、万物の宝じゃぞ? 植物でも飲めば一瞬でハイになれる」
「えー」
「そういえば先生」
ソロは唐突に幼女に訊ねる。
「先生の中で、一番美味しかったお酒って何なんですか?」
幼女が、何でそんなことを訊くんじゃ? というような顔を浮かべると、ソロは言葉を足した。
「四六時中お酒に夢中になってる先生の、今までの中で一番美味しかったお酒って何なんだろうなぁ、って気になったんです」
何じゃ、そんなことか、と幼女は言うと、うーん、と腕を組む。
「一番か。うーん……、難しいのぉ。夜桜の中、湯船で飲む酒も美味かったし、ラペーシュの町で飲んだドンペリも良かったからのぉ。あ、ヴィーナスコンテストの夜、宴の席で飲んだ酒も良かったぞ。お主の精一杯のナイスポーズをした」
「やめてください」
ソロをからかった後の無邪気な笑みを幼女は溢すと、幼女は再びうーんと声を鳴らした。
「うーん、今まで飲んだ酒は、どれも一番じゃったからの。お主という話し相手が傍におったからのぉ」
えっ、とソロは思わず声が出た。
幼女はソロに向き直ると、ニッと微笑んで見せた。
「そ、そんなこと言ったって、何にも出ませんよ!」
照れとこみ上げてくる嬉しさを隠すように、ソロは言う。
それを最後に、しばらくの沈黙が部屋を包み込んだ。
いつの間にか、ソロも幼女の隣に寝入り、天井を見つめていた。
「なぁ、ソロ」
静かな声が隣から聞こえると、ソロは横を向く。
「わしが居なくなったら、アルスと連絡を取れ」
「え」
ソロは声を漏らす。
「ミーニャには、わしから話をつけて置いた。お主とアルス、2人の面倒を見てくれるそうじゃ」
幼女が淡々と話すも、その言葉はソロの頭の中を掠り抜けた。
身の毛のよだつように身体が一気に震えると、こみ上げて来た熱い何かが声と共に飛び出た。
「嫌です!!!」
話を終える前に、顔を埋めるように勢いよく抱き着いてきたソロに、幼女は驚き、言の葉を噤む。
「嫌です。先生とお別れなんて絶対に嫌です!
だって、今までずっと一緒に旅をしてきたじゃないですか。
世界の色々な国や町、広大な砂漠や森、綺麗な滝だって見ました。字の読めないボクに、字を教えてくれたのも先生です。弱かったボクに、武術や魔法を教えてくれて、生きる術を教えてくれたのも、先生です。
まだまだ世界の見ていない場所、たくさんあるじゃないですか。
先生と一緒に見ていないもの、ワクワクするような冒険、たくさんあるじゃないですか。
お酒も好きなだけ飲んで良いです。チンチクリンって、いくらでも呼んで良いです。
だから、せんせい……、死なないで……」
嗚咽交じりの消えるような声だった。
幼女は、自身の胸に頭を埋める少女の、小さな頭を優しく撫でた。
「ソロ、わしは嬉しい。こんなにも、わしの事を思ってくれるのは、お主以外にはおらぬよ。
わしは、これで良かったんじゃ。
死を恐れ、不老不死などというものに手を出し、長らくの間出口のない迷宮を彷徨うようなものじゃった。
しかし、悪い事ばかりでもなかった。
絶望と後悔の最中、お主という、目には見つめるに余る程に眩い存在に出会えた。
それが、わしの長い旅路の中で最高の時間だったんじゃよ」
幼女は、どこまでも広がる平原の中の道のりを見つめるように、思い返すように言うと、ソロに向き直る。
「もう、お主はわしが居なくとも生きて行ける。
なぁに、心配はいらない。
今のお主には、どこぞへ旅立ったかと、その行方を案じる者もおる。クエストにおける働きを認め、お主を頼って来る者もおる。他の勇者達も、お主の力になってくれるはずじゃ。
もう、お主は独りではないのじゃよ。喜ばしいことではないか」
幼女が言うと、ソロは途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「けど、……けど、そしたら先生がまた独りになっちゃう。死んだら、先生が独りになっちゃうよぉ」
しゃっくり交じりの声でソロが顔を上げ言うと、幼女は微笑み言った。
「ソロ、それは勘違いじゃ。幼き頃のわしが抱いていた、勘違いじゃよ」
幼女は昔を思い返すように、遠き日の自身を諭すように言った。
「ソロ。精一杯生きて死ぬことは、悲しいことではない。ある者は、生き物は死ねば無になるという。しかし、わしはそうとは思わん。
ほら、ソロ。あそこの木々を見るんじゃ」
幼女が窓の外、月光に照らされた湖畔の木々を向くと、ソロも窓の外を見た。
夜の蒼い山々の影から、夜の空が地上にもあるように、湖に映り、その白い光に照らされ、木々が静かに立っている。
「あの木は、春になれば、それはそれは美しい華を咲かせる。しかし、秋になればその葉も落ち、枯れ木のようになる。さて、その華や葉はどうなる?」
鼻を吸い、少しキョトンとするソロに、幼女は微笑み話を続ける。
「華や葉は、その役割を終えれば、地に落ち、土の中に分解され、小さな生物や他の植物の栄養となる。そして、その生物や植物も、その生を終えれば、他の生命の一部の中へと組み込まれ、受け継がれていく。
分かるか、ソロ。
生命は、命は循環するんじゃ」
ソロは、涙を拭うと、鼻を吸う。
その眼は、師の顔から逸れる事はない。
「命が、循環する……?」
少女が繰り返すと、幼女は「ああ」と頷いた。
「華や葉が落ちれば、土に還ることは、子どもでも知っていることじゃ。
じゃが、わしはそれを見落としてしまっていた。
不老不死になれば、その循環からは外れ、本当の独り者になってしまうのじゃ。
じゃから、ソロ。泣くな。
わしは、死んだ後も独りにはならぬ。
世界という大きな生命の中に、再び還るだけなのじゃ。
わしが不老不死のままであれば、それこそ、お主が年を取り、土に還った後、わしは独りになってしまう。
これで良かったのじゃよ。
ソロ、安心をせい。わしは、この世界の一部となり、お主のことを見守り続けておる。
いつまでも、いつまでもお主が幸せになることを、近くで祈っておる」
幼女が優しく、ソロを抱きしめると、目元に再び熱いものがこみ上げて来た。
それが赤みがかった白い肌に溢れ流れ出すと、ソロは声を上げて泣いた。
今までにないような、赤子のような声で泣いた。
「せんせっ、……先生ぃ」
子どものように泣きじゃくるソロに、幼女は、優しく何度もその背中をさすった。
「ありがとう……、ありがとうな、ソロ。
4000年という長い人生じゃったが、お主といた最後の時間が、わしの人生の中で輝いておった。
お主との旅は、決して忘れぬ。
わしの人生の中に、飛び込んできてくれて、本当に、ありがとう」
幼女は、これまでにしたことのないくらい、ギュッとソロを抱きしめた。
震える声の中、微笑んでいる幼女の頬にも、透き通った光の雫が、静かに伝っていた。
翌日。再び東の山から白い陽の光が小屋の中に、その足を伸ばす時。幼女がその目を開くことはなかった。
その表情はとても穏やかなもので、朝日に照らされた、その顔つきは、陽だまりの中でいつの間にか眠りについてしまった子どものような、そんな表情だった。
小屋の近くに静かに立つ、朝露でキラキラと光る大木のもとに、穴を掘ると、眠りについた幼女を色取り取りの花で彩られた絨毯に、そっと乗せた。
古くからある大樹には、人々や自然に住まう生き物たちを護る精霊が宿る。
きっと、長い旅で疲れた幼女に安らぎをもたらしてくれるだろう。
そして、幼女の好きだった酒を、一本一本丁寧に入れると、ソロは大樹のもとに眠る幼女に柔らかい土をかけていった。
(先生……)
ソロは、もう泣くことはなかった。
最後の夜、幼女と約束をしたのだ。
先生が安心できるように、強く生きていくと。
ソロは、大樹の中で眠る幼女に祈りを捧げると、静かに立ち上がった。
「先生。ボク、頑張ります。
先生に、もうチンチクリンなんて言わせないくらい、強くなります。
だから、向こうで安心してお酒を飲んで見ていてください。
あっ、くれぐれも飲み過ぎには注意ですよ!」
ソロはそう言うと、微笑み、そして言った。
「じゃあ、行ってきます」
頭を下げると、荷物を背負い、大樹を背に歩き出す。
風が、びゅーっと音を立て、少女を背中から撫ぜると、少女は大樹に振り返った。
大樹からビュッと、飛び出たそれを見ると、ソロは微笑み、頬に一滴が垂れた。
(またいつかお会いしましょう。先生――)
地に立つ少女の視線の先。鮮やかな色の小鳥は、大きく挨拶をするように旋回すると、白い雲の浮かぶ青空の向こうに、翼を広げ、飛び立って行った。




