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176 恋よススメ(5)~キスの意味~

 ――はぁ……はぁ……はぁ……



 彼女(・・)は、丘の上で()を目にしてから、その姿を追い、マツィーヨの街を走り続けた。


 もう一度、彼を視たかったからだ。


 彼を視た瞬間から、彼から眼を離せなかった。



 ――ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ



 午前10時42分。



 ふわりと白い雪が降り始めた東の丘。


 胸の高鳴りを抑えられず、思わず彼女は駆け出していた。




 ◇     ◇     ◇




 彼女には不思議な力があった。



 人や物がひしめく丘の上でも、彼女は誰一人、何一つ、ぶつからずにその人混みを走り抜けた。


 これは『時間を圧縮』するという、蓮の神槌(しんつい)をもってしても、ほぼ不可能に近い。



 なぜ彼女にそれが出来たのか――



 それは『時間の圧縮』や、ましては『時間を止める』といった、超人的な能力によるものではない。


 彼女の身体は、いたって普通の成人女性そのものだ。


 それどころか、アマゾネスや亜人がいるこのヒズリアにおいて、人族である彼女は、平均以下の身体能力である。



 ただ――



 彼女には、これから起こることが『全て分かる』のだ。


 いや、『分かってしまう』と言った方が正しい。


 彼女の眼は、全てを凌駕するほど特別だった。


 彼女の眼には、己を取り巻く人、物、その全ての『内包する事象』が視えている。


 いや、ここも『視えてしまう』と言った方が正しい。


 その視界には『今』と『数秒前の過去』と『数秒後の未来』が常に重なっていた。


 そして、彼女がその気になって『意識を集中』すれば、その対象の更に未来――


 つまり、命の終わるその時……『結末』まで視ることが出来る。


 その力は――もはや神の領域。


 まさに神の視点と言っていい。



 ――『なぜ……そのようなことが出来るんだ?』――



 生後半年という驚異的な速さで、言葉を理解し、発するようになった彼女に、親代わりの魔導士が尋ねた。



「頭の上……空に……大きな図書館が……ある……それを視れば……全部載ってる……」



 今はもう記憶にはないが、彼女はそう答えた。



 ――『全能の知』と『確定予知の眼』――



 それが彼女が持って生まれた固有スキルだった。


 魔導士はその力に――



全知のしおり(ブックマーカー)



 と名付けた。



 ――『素晴らしい力だ。君は……最強になれる』――



 確かにその言葉に違いはなかった。


 彼女の身体が、大人になるための準備を始める頃、魔導士は彼女を『最強』に育てる為、あらゆる試験を課した。


 たった一本の小さな果物ナイフを渡し、あらゆる強者と戦わせた。


 だが――


 どんな剛腕も、どんな素早い動きも、どんな魔法も、彼女の前では無力だった。


 これから起こる『結末』を知っているからだ。


 彼女は、その『結末』をなぞるように動けばよかった。


 どんなに素早く振り下ろされる巨大な斧も空を切り、魔法の詠唱を始める前に距離を詰め、喉元に刃物をあてた。



 ――最強になれる――



 その言葉に違いはなかった。


 だが……



 ――素晴らしい力だ――



 果たしてそうだろうか。



 想像して欲しい。



 全ての『結末』を知っている世界を。


 彼女にとって全ては、すでに読み終えた本なのだ。



 想像して欲しい。



 読まずに、読み終えている……虚しさを。


全知のしおり(ブックマーカー)』が彼女にもたらしたのは――



 いわば、俯瞰という疎外。


 いわば、既知という退屈。


 いわば、結末という諦観。



 彼女は人の身でありながら、世界を理解してしまった。



 未知なき世界――



 その頁を開くことのない閉じた世界で、彼女は『生きる意味』を失った。



 生きるとは、未知との衝突。


 未知なき道に衝突はない。


 衝突とは、存在と存在のぶつかり合いだ。


 そのぶつかり合いの中で、人は挫折し、立ち上がり、成長する。



 彼女にはその全ての機会がなかった。


 過ちによる後悔も、不条理に対する祈りも、必要なかった。


 彼女は最強ではあるが、その心は――



 虚無……



 全ての『生』を知り得る最強の力は、皮肉にも――



 彼女を『生』から最も遠ざける呪いとなった。




 ◇     ◇     ◇




 だが、そんな虚無の中でも、彼女は死という選択をしなかった。


 唯一の例外があったからだ。


 己を取り巻く全てに『現在・過去・未来』が重なって視える情報の嵐の中――


 彼女自身と、親代わりの魔導士。


 その二人の本だけが、全知の図書館に収蔵されていなかった。


 自身の本が無いのはまだ理解できる。


 自分は図書館に収蔵される側の人間ではない。


 図書館を観測する側の人間だと、理解していた。


 問題にするべきは、魔導士の方だった。



 なぜ全知のしおり(ブックマーカー)が彼の本を見つけられないのか……



 だが、そんなことは彼女にはどうでもよかった。


 問題にする以前に、疑問に思う以前に、彼は彼女が生まれた時から、世界で唯一、先の読めない未知なる存在。


 それが当たり前だったからだ。


 だからこそ、彼女は魔導士を親と認め、彼の言葉にだけは、素直に従うことができた。


 そして――



「次は……何をすれば……いい?」



 魔導士の言葉だけが、彼女の生きる指針となった。



 ある時――



 偉い人から大仰な剣を渡され、それを使いこなすために、剣の稽古をする羽目になった。


 剣術などしたくもなかったが、魔導士がやれというので素直に従った。


 北に悪い魔族がいるのでやっつけてこい、と言われれば、一匹残らず皆殺しにした。


 西のあの国は悪い国だから滅ぼせ、と言われれば、聖騎士団を率いて滅ぼした。


 可哀そうだな、と少しは思ったが、結末が変わらないことは知っていた。


 自分がやらなくても、別の理由で、その魔族もその国も滅ぶ結末だった。


 この世界の因果――


 運命は全て決まっていて、頭の上の図書館には全て記されていた。


 自分がやらなくても、自分がやっても――



 無意味。



 だから、迷わず殺した。


 仕方のないことだから。


 決まっていることだから。



 貰った剣は全てを切り裂いた。


 強靭な魔族の爪も、鍛え抜かれた騎士の剣も、軽く一振りすれば、全てを二つに割った。


 戦場に出た彼女の足元には、累々たる臓腑と血の海が広がった。



 そんなことを繰り返すうちに、彼女の噂はどんどん広がっていった。



 ――『不在のシフォン』――



 帝国本部にほとんど居ないことからついた二つ名だが……


 皮肉にもこの二つ名は、彼女の感情……『生』の不在という本質を射ていた。



 そして、帝国最強として君臨した彼女は、今――



 ――ガガッ……ホエ~ン……



 マツィーヨの丘の上に立っていた。



 ある日の午前10時02分。


 壇上から見下ろした数百、数千の『今と過去と未来』が溢れた情報の嵐の中――



『今』だけの男が立っていた。



 魔導士以外に、そんなことは初めてだった。


 過去も未来も視えない……


『今』だけが視える……



『今』だけしか視えない。



 彼女は思わず声をあげた。



 ――『あなたは……誰?』――



 途端、男は姿を消した。


 全知のしおり(ブックマーカー)を以てしても、男の行方は分からなかった。


 彼女は男を見失った。



 いなくなる……


 今、見失えば、二度と会えないかもしれない……



 そう思った瞬間――



 ――ガシャンッ!



 彼女はその場に剣を捨て、思わず走り出していた。


 部下たちは何事かと、彼女の後に続いた。



 ――はぁ……はぁ……



 視界を遮るマスクが邪魔だった。


 重苦しいマントが邪魔だった。


 だから脱ぎ捨てた。



 ――あの人は……どこ?――



 彼女にはその事しか考えられなかった。



「ちょっと! 団長?! マスクとマント! これを着てないと!」


「いいって。強化陣入りのマントなんてなくても、あの人は大丈夫だろ。だって……絶対に当たらないんだもん」


「どうするよ……職務放棄だろ、これ」


「いや、団長の出番はまだ先だよ……今は好きにさせときな。それより、ほら。剣、お前が預かっておけ」


「全く……何考えてんだか……」



 彼女は一人走り続けた。



 ――はぁ! はぁ! はぁ!



 男の姿が見当たらない。


 魔力探知も持っていなければ、便利な魔法も使えない。


 図書館に本が無ければ……彼女はただの人。


 この広いマツィーヨの街で何の手掛かりもなく男を探すには、彼女はあまりにも無力だった。



 何処……何処……何処!!!



 喉は焼け、足の感覚はとうに消えていた。


 だが彼女は一時も足を止めなかった。


 何度も転んだ。


 膝は擦り剝け、掌からは血が滲んでいた。



 ――はぁ! はぁ! ぜぇ! ぜぇ!



 そこに……聖騎士団最強の姿はなかった。



 全知のスキルも最強の剣も、あの人(・・・)には何の役にも立たない――


 頼りになるのは……この足、この身体だけ。



 ――ぜっ! ぜぇ! げほっ!! ぜぇ!!!



 この身体だけが、彼への道しるべ。


 彼を見つけられるのは――



 この身体(わたし)だけ!!!



 こんなに何かを求めるのは、生まれて初めてだった。



 1時間、2時間、3時間――



 何時間探しても、見つからない。


 だが、あきらめなかった。


 あきらめるわけには……いかなかった。



 彼女は血まみれのまま街を走る。



 そして――



 丘を駆けだして、5時間52分後。



 午後16時34分。



 夕暮れの海岸線で……


 ようやく男を見つけた。


 男は女と砂浜の石に腰かけていた。


 夕日に照らされ、男の輪郭だけがはっきりと視えた。



 ――ぜひゅ……ぜひゅ……ぜっ……ぜぇ……



「……い……た……」



 ――ドクッ……ドクッ! ドクッ!! ドクッ!!!



 彼の『存在』を言葉にした瞬間、心臓がさらに高鳴るのが分かった。


 彼女の全身……


 細胞という細胞が『彼を知りたい』と欲した。



 ――ザッ……ザッ……



 傷だらけの彼女は彼の元へ歩く。



 膝の傷口からは薄っすらと骨が見えていた。


 血まみれの手は冷え切り、感覚が無かった。


 膝はガクガクと震え、立っているのもやっとだった。



 視えない……過去も未来も……



 ――ザッ……ザッ……ザッ……



 視える……彼だけが……



 彼をどうしていいか分からなかった。


 彼にどうして欲しいか分からなかった。



 知りたい……触れたい……



 ――ザッ……ザッザッザッ!



 だから本能に従った。


 身体が思うまま、動くままに身を任せた。


 結果、彼女の本能はある指令を出す――



 視て……こっちを視て……ッ!



 ――ザッザッ! ガバッ! ぐりんっ!



 私を――――視てっっっ!!!!!



 ――ゴチンッ! ぶっちゅうぅぅぅぅぅ!!!



 私というもの、その全てを……唇に託した。


 それしかないと全細胞が叫んでいた。


 そして、接吻というにはあまりに強い、その存在同士の衝突は――



 ――パキッ!!!



 男と女の前歯を……折った。


 唇同士をそれほど強くぶつければ、前歯が折れるのは自明の理……


 しかし彼女にはそれすら視えなかった。


 こと、彼に関しては……何も分からない。



「ッ~~~~~!!!」



 顔を歪めるほどの激痛。


 口の中に広がる鉄の味。


 柔らかな感触……



 全てが知らない事だった。



 限界を超えた疲労と激痛の中――


 彼女の瞳から、生まれて初めて涙が零れた。


 痛いからではない……


 痛いがあった(・・・)からだ。



 痛い私が……いる……



 初めての苦痛。


 初めての実感。


 呪いからの解放――



 そう……



 彼女は彼に出会い、ようやく――この世に『生』を受けた。



 その感情はもはや、恋や愛などではなく――


 救済に近いものだった。



 彼女は悶える男の唇を離さなかった。


 離せなかった。



 午後16時37分。



 彼女は必死に男の唇を吸いながら――



 ――ちゅうぅぅぅぅぅ……



 初めて『生』を感じていた。







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