第5話「裏切り」
「……おい」
数分が経っただろうか。傍らでただ佇む私に向かって、ご主人は口を開く。
だいぶ落ち着いたのか、いつものご主人の様子に戻っている。
「……ネコ次女。お前に、頼みがある」
「……」
頼み。命令ではなく、頼み。
見た目はいつもと変わらないが、心の中ではまだ動揺しているのかもしれない。
「……はい」
のそりと起き上がり、そしてこちらを向くご主人。
その目は、相変わらず何処か空虚で、遥か遠くを見ているような冷たい目だ。
買われた六年前と、何の変わりもしない虚ろな瞳。
「さっきのことと、この日記の内容……他の二人には絶対に言うな」
「……で、でも」
「頼む」
「!」
ご主人は頭を下げる。奴隷の私に対して、深々と……それも地面に着くほどに深く頭を下げた。
いつものご主人なら絶対にしない、特異な行為。だからこそ真剣みが増す。
「……不本意ではあるが、お前が俺に少しでも恩義を感じてくれているのなら、頼む。
もう少しなんだ。もう少しで、全てうまくいくんだ」
「……ッ」
断れるわけがなかった。あのご主人が頭を下げてまで頼んでくれたことを、断れるわけがない。
なにより彼の姿には、必死さがあった。ご主人の心からの頼みごとだと、わかった。
「やっと、俺のやりたいことがさ、……やり遂げられるんだ。
だからあと少しだけ、俺の奴隷として言うことを聞いてくれ。
奴隷は主人の言うことに逆らわないんだろ?」
「……やりたいこと、って……」
「……奴隷のネコにゃ関係ないことだ」
主人は立ち上がり、背を向ける。
「ご主人……」
「もう帰れ。……絶対に言うんじゃねえぞ」
「……言ったら、殴るんですか?」
「……殴りも、蹴りもしねえよ。
このことに関してお前を甚振るつもりはない。
ただお前を信じて頼んだ俺がバカだった……それだけのこった」
「!」
主人はその言葉だけ残すと、日記を拾って行ってしまった。
「……ッ」
殴られるのも、蹴られるのも構わない。痛いのはその時だけだから。
ご主人に嫌われるのも構わない。だって私は、あの人の大嫌いなネコなのだから。
でもこれ以上あの人の心を傷つけるのだけは絶対に嫌だ……。
「おかえりヨミお姉ちゃん……どうだった?」
「……」
「あはは、また手ひどくやられたね。アイツもこんなになるまで殴るなんて……」
「二人、は……?」
「私達は一発ぶん殴られた。あんまり足止めできなくてゴメンね」
「……ううん」
「それで、成果は? 何か分かったの?」
「……」
「……ヨミちゃん?」
「……ううん、何も得られなかった。あの離れには、何もなかった」
「そっか……。なら仕方ないね」
「そうね……」
「ッ……」
「な、なんで泣いてるのヨミお姉ちゃん!? あ、もしかして傷が痛むの?」
「……痛い。痛いよ……。こんなに、痛い思いするくらい、なら……あんなところに入るんじゃなかった……」
「ヨミちゃん……」
……私は、最低だ。誰よりも大事で大切な姉妹に、ウソをついた。
ウソをつくことがこんなにも痛いなんて。目の前で姉妹を裏切ることが、こんなにも辛いことだなんて。
二度と裏切らないと誓ったのに。それなのに、それなのに、私……。
「……」
悲しくて、苦しくて、辛くて。
でも、ご主人はずっとその痛みに独りで耐えてきたんだ。
真実を知ってしまった私がご主人を裏切れば、一体誰がご主人を理解してあげられるの?
私はもう、苦しむご主人を見たくなんか、ない……。
*************
「ヨミちゃん、これお願いね」
「……うん」
くずかごを受け取り、その場を後にする。
今は仕事中。掃除中に出たゴミを捨てるために私は焼却炉がある場所へと足を向けた。
「……」
あの出来事が起きてから一週間が経った。
みんな何も変わらない。ルーメも、タテハも、ご主人も、……私も。
変わらないように取り繕っている。でも、きっと二人とも私が何かを隠していることに勘付いているのだと思う。
それでいて変わらない対応をしてくれる。だから、みんな変わっていないように見える。
二人のその優しさが嬉しくもあり、同時に寂しくもあった。
私達姉妹の関係に、ほんの僅かだけど亀裂が入ったような気がして。
「……あ」
焼却炉の前に来ると、先客がいた。ご主人だ。
「……なんだ、ネコ次女」
「……いえ」
今は関わり合いになるべきじゃない。今なにか言えば、お互い辛いだけ。
私はご主人が使っている焼却炉とは別の焼却炉を使うべく、素通りしようとする。
「……?」
燃えている焼却炉。ご主人が何かを燃やしているようだが、それが妙に気にかかった。
遠目からでは分からない。なんだろうか、本のようにも見えるが……。
表紙が見えた。もう大半が火に覆われていてわからないが、文字がわずかだけ読み取れる。
……D……i……。
「……え……?」
頭が真っ白になった。くずかごをその場に落としてしまったのにも気づかないぐらいに、動揺していた。
「~~~!」
燃えている焼却炉へ何も考えず、走り寄ろうとする。
まだ原型が保っているうちにあの『日記』を引き出そうとする。
……しかし。
「邪魔だ」
焼却炉に触れようとした瞬間、そんな言葉と共に拳が飛んでくる。
私は焼却炉とは正反対の方向へと殴り飛ばされた。
「……ッ」
「燃えている焼却炉に素手で触ろうとするなんて、お前バカか?」
「……な、んで……」
「あん?」
「どうして、燃やしたの……!?」
「……」
無視。まるでお前には何の関係も無いと言わんばかりに。
あの日記はご主人の心が書いてあった。本音が書いてあった。
あの日記にはご主人の想いが書いてあった。
思いやり溢れる想い。一人ぼっちだったご主人の無念と切実な願いが書かれていた、のに。
そして、なにより……あの日記の最初の方には。あの歪んだページの向こう側には……。
「……奥さんとの、大切な思い出がいっぱい……書いてあったのに……」
「……」
ご主人が奥さんを失くす前の日々が、確かにあの歪んだページの前には在った。
まだ心を失くしていないご主人と奥さんの、楽しい思い出や馴れ初めが書いてあったのに。
ご主人にとって、それがどれだけ大事なものなのか私は知っているのに……!
「……死んだ女との思い出など必要がないだろ?」
「……」
「こんな本、お前に読まれる前にこうしておけばよかったんだ。そうすれば……お前に知られずに済んだ。
お前に、こんな苦しみを背負わせずに済んだ」
「!」
「……ハ、お前がこの一週間苦しんでいるのは知っている。
バカが。ネコの癖にネコらしくないことに苦しみやがって。
本当に大馬鹿野郎だよ……お前も、あんなこと頼みこんじまった、俺も」
「……」
「百害あって、一理もないこんな日記……とっておいたのが愚かだったんだ。
俺たちは今を生きている。過去の女の話なんか意味がない。そんなもの、邪魔なだけだ」
「……ウソ、です」
「ウソじゃねえよ。あの女のものは全て処分したし、この日記で最後だ。
だからもう、あんな女に……あんな女との思い出に未練なんかねえんだよ!」
「じゃあ……あの写真は……?」
「ッ……あれもいずれ処分する」
「それに、その内ポケットに入っている……二つの指輪」
「……なんでお前が、そこまで知ってんだよ」
カギを抜き取ったときに触れた、あの丸いもの。
あれは……今なら容易に想像ができる。あれこそ、ご主人と奥さんがつけていた指輪だったんだ。
「……」
「……ちッ」
ご主人は苛立ちながらも、指輪をポケットから取り出す。
……見た目もデザインも普通で可もなく不可もない、シンプルな指輪。
何か文字が彫ってあるように見えるけど、ここからでは読みとれない。
「本当に、その指輪……売ってしまうの……?」
「……ああ。名前が彫ってはあるが、それさえ消せば売り物にはなるだろうさ。
この指輪、結構したんだぜ?高い買い物だったのによ、あの女はこの指輪の価値も分からなくてなぁ。
なのにあいつったら……ッ、いや、なんでもねえよ……」
「……」
ご主人は、楽しそうに奥さんの話す。でもそれは一瞬だけ。すぐにいつもの顔に戻ってしまう。
その反応を見て確信する。……やっぱり、奥さんとの思い出が邪魔だなんて……ウソだ。
「……ま、それなりの金になるのさこれは。
この指輪も、あんな価値のわかんねえ女の指にあるより金に換わった方が幸せだろうよ」
「……」
何も言えなかった。
ご主人がどんな気持ちでその話をしていたのか。
今までどんな想いであの指輪を持っていたのか。
どんな想いであの日記を焼いたのか。
それを考えると、胸が締め付けられるように苦しくなった。
「おいコラ、ネコ次女。いつまでもボサっと突っ立ってねえで仕事をしろ。
お前は余裕をかましていられるような立場じゃねえんだからな。
お前は俺の奴隷なんだからなぁ」
主人はそう述べて、その場を後にした。焼却炉の火は既に消えかかっていた。
後には、ご主人の思い出が詰まった日記の、燃えカスだけが残っていた。
つづく。




