自転車と視線と、太もも
スカートでの通勤に懲りたはずなのに、その週末、田中は思わぬ事情でまた裾の短い格好を強いられることになった。前日の雨で、駅までの道が広範囲にわたって冠水し、迂回するにはどうしても自転車が必要だったのだ。手持ちの服の中で唯一動きやすそうに見えたタイトスカートを選んだのが、そもそもの間違いだった。
サドルにまたがった瞬間、布地が太ももに張り付く感触に違和感を覚える。想像していたより生地が伸びず、ペダルを漕ぐたびに裾がわずかにずり上がる感覚が気持ち悪い。田中は「気にしすぎだ、ただの服だ」と自分に言い聞かせながらペダルを漕ぎ続けた。
信号待ちで隣に並んだ自転車の男が、ちらちらとこちらの脚元を見ていることに気づいたのは、青信号に変わる直前だった。視線の動きは露骨ではなく、むしろ意識してさりげなさを装っているように見えた分、余計に不快だった。
(見るなら見るで、堂々とすればいいのに……いや違う、そもそも見られたくない)
考えがまとまらないまま漕ぎ出すと、体が勝手に反応した。スカートの裾を気にして太ももをきゅっと閉じ気味にする姿勢、ペダルを踏み込む力を無意識に弱めて上下動を抑える漕ぎ方、そして視線に気づいた瞬間に浮かぶ、頬の熱。田中の意識はハンドル操作に集中しているつもりなのに、体は器用に「見られている自分」を演出している。
自分の太ももの動きひとつ、風になびく髪ひとつにまで意識が向いてしまう感覚は、これまでの人生で一度も経験したことのないものだった。見られることに慣れていないはずの体が、見られることへの"対処法"だけは最初から知っているという矛盾に、田中は薄気味悪さを覚えずにいられなかった。
信号が変わり、男が追い抜きざまに小さく「可愛いっすね」と呟いたのが聞こえた。田中は聞こえなかったふりをしたが、耳の先まで熱くなるのを止められなかった。
(可愛い、じゃない……くそ、なんで反応してるんだ俺の体は)
悔しさの矛先が定まらないまま、田中はただペダルを漕ぎ続けた。信号がいくつか変わるうちに、追い抜いていった男の姿はとうに見えなくなっていたが、頬の熱はしばらく引かなかった。
自宅に着く頃には、太ももの筋肉痛よりも、羞恥のほうがよほど堪えていた。自転車を停め、玄関の鍵を開けながら、田中は自分の膝がまだ内側に寄ったままだったことに気づいて、独りで舌打ちした。
「……体だけじゃなく、癖までついてきてるじゃねえか」
誰も見ていない部屋の中でまで、その姿勢を取り続けていた自分に、田中は言いようのない敗北感を覚えた。




