表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/12

第9章 無能力者の作戦会議

 誰も、すぐには答えなかった。


 俺を差し出せば、八千人が助かるかもしれない。


 差し出さなければ、夜明けとともに総攻撃。


 数字だけ見れば、迷う余地などない。


 一人と八千人。


 比較することすら失礼なくらい、答えは決まっている。


「聞こえませんでしたか」


 俺はもう一度言った。


「俺を渡してください」


 平原の中央。


 円陣を組んだ兵士たちの間に、冷たい夜風が吹く。


 誰も目を合わせようとしない。


 俺が勇者だったとき、皆は俺を見た。


 俺が何とかしてくれると信じ、視線を集めた。


 今は違う。


 俺を見ることが、処刑の賛成票になるように感じているのだろう。


「侯爵」


 俺はダリオスへ向き直った。


「あなたが決めてください」


「なぜ私が」


「この軍の指揮官でしょう」


「先ほどまで、私の命令を否定していたではないか」


「今は否定しません」


「自分が差し出される時だけ、指揮権を返すのか」


 侯爵の顔には疲労が浮かんでいた。


 赤い鎧には泥と煤。


 口髭にも血がついている。


 彼もまた、進軍を命じた責任から逃げられなくなっていた。


「八千人を助けるためです」


「魔王が約束を守る保証はない」


「それでも試す価値はあります」


「ない」


 ダリオスは低く答えた。


「勇者殿を渡した直後、敵が総攻撃を仕掛ければ終わりだ」


「では、引き渡しと同時に撤退を」


「退路は敵が開く。つまり、敵の決めた道へ全軍を入れることになる」


「別の罠かもしれない」


 ミレイユが言った。


「勇者を受け取り、撤退中の軍を細い道へ誘導し、一か所で潰す。十分に考えられます」


「なら、俺だけ先に渡して」


「交渉材料を先に手放す指揮官はいません」


「俺は人質ですか」


「現状では」


 冷静だった。


 正しい。


 自分から交換材料になると言ったのだから、反論もできない。


「では、交渉してください」


「何を」


「俺を渡す代わりに、先に退路を開かせる」


「敵が応じると思いますか」


「分かりません」


「分からないことばかりですね」


「だから、話すしかないでしょう」


 自分でも苛立っていた。


 早く決めてほしかった。


 怖くなる前に。


 魔王軍へ渡される現実を、想像しすぎる前に。


「勇者様」


 セレナが口を開く。


「その呼び方はやめてください」


「では、トオル」


 彼女は俺の前へ進んだ。


「あなたを渡すことには反対です」


「理由は」


「魔王軍が約束を守らない可能性が高い」


「それは聞きました」


「もう一つ」


 セレナは俺をまっすぐ見た。


「私は、あなたを見捨てたくありません」


 予想していなかった言葉だった。


「感情で決める場面ではありません」


「先ほど、あなたはそうしました」


「俺が?」


「誰か一人を置いていく作戦を、認めないと」


「それは皆さんに対してです」


「なぜ、あなた自身だけは例外なのです」


「俺には価値がないからです」


 言ってから、空気が変わった。


 セレナの目に怒りが浮かぶ。


「もう一度、言ってください」


「戦闘能力もない。魔法も使えない。俺一人と八千人なら」


「価値の話をしています」


「だから」


「あなたは、自分に価値がないと言った」


 セレナは一歩近づく。


「それを、誰が決めたのです」


「事実です」


「力がないことは事実です。価値がないことは、あなたの判断です」


「同じでしょう」


「違います!」


 彼女の声が平原へ響いた。


 周囲の兵士たちが振り返る。


 セレナは気づいていないのか、気にしていないのか、俺から目を逸らさなかった。


「私は、最強の力を持つ勇者だから、あなたについてきたのではありません」


「最初はそうだったでしょう」


「はい」


 即答だった。


「最初は、そうでした」


 胸が痛む。


 だがセレナは続けた。


「黒角獣を倒した英雄だと思った。未来を読む方だと思った。私の理解を超える力を隠していると信じた」


「全部違いました」


「違いました」


「なら」


「それでも、旅の途中で見たものまで嘘にはなりません」


 セレナは平原を見渡す。


「あなたは、待ち伏せを疑った」


「怖かったからです」


「私たちを散らし、射線から外した」


「自分も狙われたくなかった」


「灰牙族へ頭を下げた」


「転びました」


「食料不足に気づいた」


「見れば分かりました」


「戦わずに済む方法を探した」


「死にたくなかっただけです」


「では、なぜ川を戻したのです」


 答えに詰まる。


「通り抜けるだけなら、灰牙族へ食料を渡し、立ち去ればよかった」


「後でまた困ると思ったから」


「なぜ、困ることを気にしたのです」


「契約が続かないから」


「なぜ、続く必要があるのです」


「また争いになるからです」


「なぜ、争いを避けたかったのです」


「人が死ぬからでしょう!」


 言ってから気づいた。


 セレナの表情が少しだけ緩む。


「それです」


「何が」


「私が信じたものです」


 風が吹く。


 焼けた旗が地面で揺れる。


「あなたは強くない。勇敢でもない。立派な言葉を考えているわけでもない」


「そこまで言わなくても」


「ですが、危険が見えたとき、他人を先に逃がそうとする」


「自分も逃げます」


「自分も含めて、です」


 セレナは以前と同じ言葉を返した。


「あなたは戦場で、一人だけ残ることを美徳だと思わない。撤退を恥だと思わない。仲間の力を借りることを敗北だと思わない」


「普通のことです」


「普通ではありません」


 その言葉は、褒められているようには聞こえなかった。


 ただ事実を告げている。


「少なくとも、この軍をここへ連れてきた者たちは、そう考えなかった」


 ダリオスの肩が僅かに動く。


 セレナは彼を責めなかった。


 自分自身も含めて話している。


「私は、勇者が全てを解決する物語を信じた。侯爵は、勇気があれば勝てると信じた。兵士たちは、あなたの名が敗北を消してくれると信じた」


 白い布の下に並ぶ死者。


 その前で、誰も言葉を挟めない。


「ですが、トオルは最初から、失敗する可能性を見ていた」


「失敗ばかり考える性格なので」


「それでいいのです」


「よくありません」


「少なくとも今、この軍には必要です」


 俺は首を振った。


「俺がいたから、皆が期待したんです」


「違う」


 今度はガルドが言った。


「お前がいなくても、こいつらは別の旗を掲げた」


「分からないでしょう」


「分かる」


 ガルドは負傷した肩を押さえながら、地面へ座った。


「強い誰かを信じたい奴は、対象を探す。王子。将軍。神託。勇者。お前がいなければ、別の何かだ」


「だから俺には責任がないと?」


「あると言った」


「では」


「責任があるから、残れ」


「残っても何もできません」


「考えろ」


「何を」


「逃げ道だ」


 あまりに単純な言葉だった。


「得意だろう」


「八千人ですよ」


「知っている」


「負傷者もいる。荷車も少ない。敵は前後左右にいる。朝になれば攻撃される」


「だから、お前が考えろ」


「無茶です」


「戦えとは言っていない」


 ガルドは俺を見る。


「敵を倒せとも」


「では」


「全員で逃げる方法を探せ」


「ないと言ったのは、あなたでしょう」


「今ある道にはない」


「同じです」


「道がないなら、作る」


 言葉を失う。


 ガルドはそれ以上説明しなかった。


 彼はいつもそうだ。


 必要なことだけ言い、後は相手に投げる。


「ミレイユさんは」


 俺は尋ねた。


「反対ですか」


「あなたを引き渡すことには」


「なぜ」


「効率が悪いからです」


「効率?」


「魔王軍があなた一人のために、これほど大規模な包囲を作った」


 ミレイユは眼鏡を直す。


「つまり、敵はあなたを戦闘能力以上の脅威と見ています」


「誤解です」


「敵の判断が誤りでも、その判断に基づいて行動していることは事実です」


「俺を渡せば満足するのでは」


「逆です」


「なぜ」


「魔王グラウゼルは、あなたを殺すだけなら、今日の戦闘中に狙えました」


 確かに。


 矢も魔法も、何度も飛んできた。


 俺個人を狙う機会はあった。


「わざわざ交渉を持ちかけた。全軍の前で、あなたを差し出すか選ばせた」


「何が目的です」


「信頼を壊すことです」


 以前、魔王城でバルダスが受けた命令。


 俺自身は知らなかった。


 だがミレイユは、状況から同じ結論へたどり着いた。


「あなたを守れば、兵士は仲間を危険へさらしたと考える。あなたを渡せば、勇者を見捨てたと考える。どちらを選んでも、王国軍内部に不信が残る」


「なら、俺を渡しても軍は助からない?」


「助かる可能性は低い」


「断言はできない」


「できません」


「それでも、一部でも助かるなら」


「そこまで自分を差し出したいのですか」


 ミレイユの声が冷たくなる。


「助けたいだけです」


「違います」


「何が」


「罰を受けたいのです」


 胸を殴られたようだった。


「今日の死者を、自分一人の責任にして、自分一人が死ぬことで終わらせようとしている」


「そんなつもりは」


「あります」


「ありません」


「ならば、生きて責任を取りなさい」


 強い口調だった。


 ミレイユは普段、感情を見せない。


 その彼女が、怒っていた。


「死ぬほうが簡単です」


「簡単ではありません」


「一度決めれば、それ以上考えなくていい」


「……」


「兵士がなぜここへ来たのか。オラクル網がなぜ歪められたのか。王国がなぜ英雄一人へ依存したのか。あなたがなぜ真実を言えなかったのか」


 ミレイユは一つずつ挙げる。


「それを調べ、直し、二度と同じことが起きないようにするほうが、はるかに苦しい」


「今は生き残れるかも分からない」


「だから考えるのです」


「何を」


「無能力者の作戦を」


 三人とも、同じ結論だった。


 俺を渡さない。


 戦えとは言わない。


 全員で逃げる方法を考えろ。


「……見捨ててくれないんですね」


 セレナが剣を拾う。


「残念ながら」


「最強勇者ではないのに」


「知っています」


「魔王を倒せないのに」


「私が戦います」


「また誤解を生むだけかもしれない」


「なら、今度は一緒に訂正します」


 ガルドが立ち上がる。


「話は終わりか」


「まだ何も決まっていません」


「決めるために集めろ」


「誰を」


「この軍で使える奴を全部」


 使える奴。


 言葉は乱暴だが、意味は分かった。


 指揮官。


 斥候。


 魔術師。


 工兵。


 治療班。


 荷車を扱う者。


 地形を知る者。


 敵の装備を知る捕虜。


 俺一人で考える必要はない。


 それどころか、俺一人で考えれば間違える。


「作戦会議を開きます」


 俺は言った。


「侯爵も」


 ダリオスの眉が動く。


「私もか」


「この軍で最も部隊を知っているのは、あなたです」


「指揮権を奪った相手へ、今さら助言を求めるのか」


「奪っていません」


「兵はお前の言葉を聞いている」


「だから困っています」


 俺は侯爵を見る。


「あなたの判断で人が死んだ。俺の名前でも人が死んだ。今、どちらが正しかったか争っている場合ではありません」


「私に頭を下げろと?」


「必要なら下げます」


 俺はその場で膝を曲げた。


「待て」


 侯爵が手を上げる。


「本当に下げるな」


「では、手伝ってください」


「……恥というものがないのか」


「あります。でも命より軽いです」


 ダリオスは長く息を吐いた。


「分かった」


 彼は赤い外套を外し、地面へ広げる。


 その上に地図を置いた。


「会議を始めるぞ」


 円陣中央の天幕へ、使える限りの情報と人間が集められた。


 ダリオス侯爵。


 セレナ。


 ミレイユ。


 ガルド。


 各領軍の将校五名。


 工兵隊長。


 補給担当官。


 治療魔術師長。


 伝令隊長。


 敵の地下道を知る元鉱夫。


 デルネ砦へ勤務経験のある老兵。


 捕虜となっていた魔王軍の下級兵。


 さらに、義勇兵代表としてロイまで呼ばれた。


「俺ですか」


「一般の兵士が何を知っているか、確認したいです」


「何も知りません」


「それを知りたいんです」


 天幕の中は狭い。


 立っている者も多い。


 地図の周囲に全員が集まる。


「最初に確認します」


 俺は言った。


「俺には、全員を助ける作戦はありません」


 何人かの将校が顔をしかめる。


「では、なぜ集めた」


「作るためです」


「勇者殿が?」


「全員で」


 俺は地図へ手を置く。


「一人で答えを出せる人はいません。だから、知っていることを全部出してください。立場や面子は後です」


「意見が割れた場合は」


「危険の少ないほうを選びます」


「それでは好機を逃す」


 ダリオスが言う。


「好機より全員の生還です」


「それが不可能なら」


「不可能だと証明されるまで探します」


 会議が始まった。


 まず敵の配置。


 南に魔王軍本隊。


 約一万二千から一万五千。


 東西の森に各千前後。


 北のデルネ砦に二千。


 合計で、王国軍の倍近い。


 地下道を使えば、部隊を短時間で移動できる。


「なぜ夜のうちに攻めてこない」


 将校が尋ねる。


「疲労させるためです」


 ミレイユが答える。


「夜戦では敵にも損害が出ます。水と食料が不足している我々は、時間が経つだけで弱る」


「夜明けの総攻撃は本当か」


「可能性は高い」


「では残り六時間」


 ダリオスが地図へ印をつける。


 次に退路。


 南の街道は敵本隊。


 西の森は火災。


 東は敵部隊。


 北東の谷は狭い。


 北の砦は占領済み。


「地下道は」


 俺が尋ねる。


 元鉱夫が地図へ指を置いた。


「平原の下に複数ある。だが入口は、南の旧採掘場とデルネ砦の地下だ」


「他に、崩れた入口は?」


「昔は西の森にもあった」


 全員が彼を見る。


「今は」


「三十年前の地震で塞がれた」


「どの程度です」


「入口が潰れた。中まで全部とは限らん」


「工兵で開けられますか」


 工兵隊長が考える。


「場所が分かれば。だが火の中だ」


「火を消せますか」


「この人数分の水はない」


「魔法なら」


 ミレイユが首を振る。


「森全体は無理です。局所的に道を作るだけでも、多数の水魔術師が必要」


 治療魔術師長が言う。


「水術を使える者はいる。しかし負傷者の治療へ魔力を残したい」


「使うと、治療できなくなる?」


「全員ではないが、厳しくなる」


 どこかを選べば、別の何かを失う。


 次に補給。


 食料は一日弱。


 水は一日半。


 だが負傷者を優先すれば、健常者は半日もたない。


 荷車は百二十台。


 使用可能は七十四台。


 そのうち負傷者で六十台が埋まる。


「残り十四台には何が」


「食料、予備武器、天幕、薪」


「捨てられるものは」


「ほとんど」


 補給担当官が即答した。


「ただし、水樽は捨てられません」


「負傷者は何人」


「自力歩行不能が二百八十七。補助が必要な者が六百以上」


 全員を細い谷から逃がすのは難しい。


「谷の出口はどこです」


 ガルドが地図を指す。


「北東。魔王領側の岩山」


「王国側へ戻れない?」


「そのまま北へ行けば敵地だ」


「では逃げても魔王領の奥へ」


「そうなる」


 希望に見えた道も、出口が悪い。


「デルネ砦の構造を教えてください」


 老兵が前へ出る。


「城壁は三重。南門が主門。東に小門。地下には世界核から引いた魔力導管がある」


「世界核?」


「魔王領と王国の境にある巨大魔力源だ」


 ミレイユが補足する。


「王国の砦や都市の一部は、地下導管で世界核の魔力を受けています」


「魔王軍も使える?」


「術式を書き換えれば」


「今、砦の魔導砲が動くのは」


「導管が生きているからでしょう」


 俺は地図を見る。


 地下。


 導管。


 採掘路。


 砦。


 ばらばらの情報がある。


 まだつながらない。


「魔力導管は、人が通れますか」


「無理だ」


 老兵が答える。


「人の腕ほどの太さしかない」


「どこへつながっています」


「南の中継施設。そこから王国側の魔力塔へ」


「中継施設はどこです」


 地図の南西。


 現在、魔王軍本隊の後方。


 使えない。


「魔導砲は、どこを撃てますか」


「平原全域」


「砦の真下は?」


「角度的に難しい」


「城壁の近くなら、砲撃されにくい?」


「近づく前に地上兵へ狙われる」


「門以外から入る方法は」


「東側の排水口」


 全員が老兵を見る。


「人は通れますか」


「子どもなら。大人は無理だ」


「広げられますか」


「内側からなら」


 内側。


 誰かが入る必要がある。


「細い人なら?」


 視線が俺へ集まる。


「やめてください」


 俺は即座に言った。


 だがガルドは排水口の位置を確認している。


「俺なら入れる」


「肩が負傷しています」


「片腕で這える」


「危険です」


「使える道を聞いたのはお前だ」


「使うとは言っていません」


「検討しろ」


 まだ早い。


 情報を全部出す。


 次に、魔王軍の捕虜。


 彼は角の短い若い魔族だった。


 恐怖で震えている。


「無理に話さなくていいです」


 俺が言うと、将校が眉をひそめる。


「敵だぞ」


「嘘を言われたら困るので」


 俺は捕虜へ向き直る。


「話せる範囲で構いません。魔王軍が俺を求めている理由は」


「知らない」


「本当に?」


「下級兵へ作戦は伝えられない」


「では、今朝まで何を命じられていた」


「王国軍を平原へ入れろ。退路を塞げ。だが、勇者は殺すな」


「やはり」


 ミレイユが呟く。


「俺だけ、生かして捕らえる?」


「そうだ」


「他の兵士は」


 捕虜が黙る。


「正直に」


「降伏すれば捕虜。抵抗すれば殺す」


「退路を開くという約束は」


「聞いていない」


 敵の使者が独自に言ったのか。


 上層部しか知らないのか。


 最初から嘘なのか。


「魔王軍は、なぜ世界核を欲しがっている」


 ミレイユが尋ねた。


 捕虜の顔が変わる。


「欲しがっているのではない」


「では」


「取り戻す」


 天幕の空気が動いた。


「世界核は、もともと魔族領の中心にあった」


「王国史では、無主の資源です」


「人間がそう書いた」


 捕虜の声に怒りが混じる。


「導管で魔力を吸い上げ、南の都市を明るくした。そのせいで、北の土地は枯れた」


 灰牙族の川。


 魔王軍の補給路。


 戦争の理由。


 これまで断片的に聞いていた話がつながり始める。


「魔王グラウゼルは、世界核を奪い返すために戦っている?」


「そうだ」


「だから王国の民を殺していいのですか」


 捕虜は目を逸らす。


「よくない」


 小さな声だった。


「だが、人間も俺たちを殺した」


「だから終わらないんですね」


 誰も何も言わない。


 今は戦争の正当性を議論する場ではない。


 だが、この情報は後で必要になる。


「他に、魔王軍が警戒しているものは」


「勇者」


「俺以外で」


「ない」


「なぜ俺をそこまで」


「魔力がないからだ」


 捕虜が俺を見る。


「魔王様の予測は、魔力の流れと殺意を読む。お前にはどちらもない」


「殺意はないですが、魔力がないのは弱いだけです」


「だから読めない」


「それだけで?」


「お前が現れた場所では、兵が命令どおり動かなくなる」


「俺のせいですか」


「敵も味方も、勝手に考え始める」


 天幕が静かになる。


 俺は意味を考えた。


 俺が強いからではない。


 俺が何も持っていないため、周囲が自分で補う。


 セレナが作戦へ変える。


 ミレイユが根拠を調べる。


 ガルドが現実を確認する。


 兵士が判断する。


 時には、それが良い方向へ動く。


 時には、伝説を作り、暴走する。


「魔王は、俺ではなく、俺の周囲を怖がっている?」


 ミレイユが頷く。


「可能性があります」


「なら、俺を渡しても」


「周囲の信頼を壊すことが目的なら、むしろ成功します」


 俺は地図へ視線を戻した。


 魔王の要求へ従う案は消えた。


 少なくとも、全員を助ける保証はない。


「次です」


 俺は言った。


「敵が予測していることを並べてください」


 将校たちが戸惑う。


「こちらの行動ではなく、敵が何を想定しているかです」


 ミレイユが最初に答えた。


「王国軍は、南へ突破を試みる」


「本隊がいるから、難しい」


「北の砦へ入ろうとする」


「罠がある」


「東西の森を抜ける」


「火と部隊で塞いでいる」


「北東の谷から、一部を逃がす」


「だから谷の出口にも監視がいる可能性が高い」


 ダリオスが続ける。


「勇者を差し出す」


「それを待っている」


「夜のうちに奇襲する」


「敵は警戒している」


 敵は合理的な選択を全て押さえている。


 千眼のバルダスと同じ。


 こちらが取るべき行動を予測し、先に潰す。


「では、敵が想定していないことは」


「降伏せず、動かない」


「夜明けに全滅する」


「全軍で砦へ突撃」


「想定内です」


「森へ火をつけ返す」


「自殺です」


 意見が出ては消える。


 俺は地図を見つめる。


 南。


 北。


 東。


 西。


 地下。


 空。


 どこも塞がれている。


「全員で一つの道へ行くから、読まれる」


 以前、自分が言った言葉を思い出す。


 全員で同じ場所へ行くのは危険ではないか。


「部隊を分けるのですか」


 セレナが尋ねる。


「分けたら、各個撃破されます」


「では」


「目的を分けます」


 自分でも、まだ形は見えていない。


「全員が逃げようとすれば、敵は出口を守る。全員が戦おうとすれば、敵は迎え撃つ」


「当たり前です」


「では、逃げる部隊、砦へ行く部隊、森へ行く部隊、ここへ残る部隊を同時に動かす」


「敵へ行動を読ませないため?」


「違います」


 俺は地図の複数箇所を指した。


「全部、本当に必要なことをする」


 南の敵を引きつける部隊。


 西の森で旧坑道を探す工兵。


 北東の谷を広げる部隊。


 デルネ砦の排水口から潜入する少数班。


 中央で負傷者を守る部隊。


「敵に偽物の目的を見せるのではなく、全て本物にする」


 ミレイユが目を細める。


「敵は、どれが本命か判断できない」


「本命はありません」


「全て成功させるつもりですか」


「全部成功する必要はないです」


 地図へ新しい線を引く。


「どれか一つでも出口を作れれば、全軍を動かす」


「その間に、部隊が失われる」


 ダリオスが言う。


「戦う部隊は、敵を倒す必要はありません。一定時間引きつけて戻る」


「誰がそれを指揮する」


「侯爵です」


 ダリオスが驚く。


「私に囮をさせるか」


「最も兵を動かせるからです」


「勇者殿は」


「中央に残ります」


「安全な場所へ?」


「一番目立つ場所へ」


 敵は俺を殺さない。


 捕らえたい。


 なら、俺が中央にいれば、総攻撃を遅らせる可能性がある。


「勇者の旗を全部、中央へ集めます」


「敵は、そこが本隊と考える」


「その間に他の部隊が動く」


「危険です」


 セレナが言う。


「分かっています」


「敵が方針を変え、あなたを殺す可能性も」


「あります」


「それでも」


「誰か一人を置いていく作戦ではありません」


 俺は全員を見る。


「全部隊、戻る時間を決めます。成功しても失敗しても、夜明け前に中央へ帰還。誰も残さない」


「砦へ潜入した班が戻れなければ」


「作戦中止。救出できなければ、排水口へは入らない」


 ガルドが鼻を鳴らす。


「慎重すぎる」


「戻れなくなるよりましです」


「入口だけ確認する」


「中へ入らないでください」


「状況による」


「そこは従ってください」


「検討する」


 不安しかない。


 だが、少しずつ役割が決まる。


 西の森へは工兵隊と水魔術師。


 局所的に炎を抑え、旧坑道の入口を探す。


 北東の谷へは軽装兵と斥候。


 崩れた箇所を広げ、出口を確認。


 デルネ砦へはガルド、セレナ、少数の騎士。


 排水口と東門の状態を調べる。


 南へはダリオス率いる騎兵と盾兵。


 本隊へ攻撃せず、接近と撤退を繰り返し、注意を引く。


 中央にはミレイユ、治療班、義勇兵、負傷者。


 そして俺。


「ロイ」


「はい」


「義勇兵の中で、作業できる人を分けてください」


「戦闘ではなく?」


「荷車の整理。縄。松明。負傷者の移動準備。できることを聞いてください」


「分かりました」


「戦えない人も、役に立てます」


 言ってから、自分へ返ってくる。


 戦えない人も。


 力がなくても。


 ロイは強く頷いた。


「敵の通信妨害は」


 ミレイユが魔晶石を並べる。


「近距離だけなら、複数の小さな通信網を作れます。ただし、全体を一つにつなげると奪われる」


「では、各部隊が独立して動く」


「合流時刻だけ固定します」


「途中で状況が変わったら?」


「隊長判断」


 俺が最も怖い方法だった。


 全てを把握できない。


 全員へ指示できない。


 だが、それこそ必要かもしれない。


 一人へ判断を集めれば、その一人が間違えた瞬間に全て崩れる。


「俺を信じて動かないでください」


 俺は全員へ言った。


「目的と撤退条件だけ共有します。現場では、自分の目で見て決めてください」


 将校の一人が苦笑する。


「軍隊へ、自分で考えろと?」


「はい」


「命令に従わなくなるぞ」


「命令が現場と合わないなら、従わないでください」


「無茶苦茶だ」


「今日、命令どおり進んで罠へ入りました」


 誰も反論できなかった。


「ただし、自分だけで勝手に戦わない。仲間へ伝える。戻る時刻を守る。無理なら撤退する」


 決まりごとは増やす。


 判断は任せる。


 矛盾しているようで、前世の危機対応も同じだった。


 現場の状況は、遠くの責任者には分からない。


 だから、止める権限だけは全員へ与える。


「誰でも作戦を中止できるようにしてください」


「誰でも?」


「危険を見つけた人が、身分に関係なく」


「兵卒が将校へ中止を命じるのか」


「危険を報告する。隊長は理由を確認し、無視するなら自分が責任を負う」


 ダリオスが腕を組む。


「軍紀が変わるぞ」


「今だけでいいです」


「今だけで済むと思うか」


「生き残ってから考えましょう」


 会議は続いた。


 何度も作戦が壊れた。


 時間が足りない。


 魔力が足りない。


 人が足りない。


 荷車が足りない。


 それでも、誰かが代案を出した。


 天幕を解体し、担架へする。


 槍を二本組み、負傷者を運ぶ。


 水樽を小分けにする。


 馬を騎兵だけで使わず、伝令と救護へ回す。


 戦えない義勇兵は工兵を補助する。


 火を消す水が足りなければ、土をかぶせる。


 北東の谷が狭ければ、荷車を分解して運ぶ。


 砦の門を開けられなくても、魔導砲だけ止める。


 一つの完璧な策ではない。


 小さな不完全な策を、何十個も重ねる。


 俺には答えがない。


 だから、皆の答えをつなぐ。


「作戦名は」


 伝令隊長が尋ねた。


「必要ですか」


「必要です。命令を共有しやすい」


 俺は困った。


 立派な名前をつければ、また伝説になる。


「全員帰る作戦」


 天幕が静まる。


 ダリオスが眉間を押さえた。


「もう少し、軍らしい名前はないのか」


「目的が分かりやすいでしょう」


「そのまますぎる」


「では『帰還作戦』で」


「変わっていない」


 ガルドが立ち上がる。


「それでいい」


「本気か」


「名前に勝つ必要はない」


 結局、作戦名は「帰還作戦」になった。


 格好よくない。


 英雄的でもない。


 ただ、何を目指すかだけは分かる。


 天幕を出ると、夜明けまで残り四時間を切っていた。


 兵士たちが動き始める。


 勇者の旗が中央へ集められる。


 何十本もの青い円が、俺の周囲へ立つ。


 それを見た兵士たちが、また期待の目を向ける。


「皆さん!」


 俺は大声を出した。


 何千人もの顔がこちらを向く。


 怖い。


 また誤解されるかもしれない。


 それでも言う。


「俺には、皆さんを勝たせる力はありません!」


 ざわめきが広がる。


「今回の作戦は、魔王軍を倒すためではありません!」


 旗が風に鳴る。


「全員で帰るためです!」


 誰かが息を呑む。


「格好悪くてもいい。敵に背中を向けてもいい。武器を捨ててもいい。生きて戻るために必要なら、何でもしてください!」


 兵士たちの表情が変わる。


「ただし、一人で逃げないでください! 隣の人を見てください! 怪我をしていないか、道に迷っていないか、ついてきているか確認してください!」


 ロイが隣の兵士を見る。


 兵士もロイを見る。


「勇者の命令だから従うのではなく、自分で確かめてください!」


 一度、言葉を切る。


「俺が間違っていると思ったら、止めてください!」


 静寂。


 やがて、負傷兵の一人が声を上げた。


「帰れるのか!」


 正直に答える。


「分かりません!」


 小さなどよめき。


「でも、帰る方法を探します!」


「勝てるのか!」


「勝つ必要はありません!」


「魔王軍は!」


「避けます!」


「追ってきたら!」


「逃げます!」


 何人かが笑った。


 緊張で引きつった、短い笑い。


 だが、その笑いは少しずつ広がった。


「勇者が逃げると言っているぞ」


「今さらだろ」


「最初から逃げていたらしい」


「それで生き残ってきたんだ」


 誰かが言う。


「なら、俺たちも帰ろう」


 別の誰かが続ける。


「帰って、侯爵の無茶を酒場で笑ってやる」


「聞こえているぞ!」


 ダリオスが怒鳴る。


 兵士たちの笑いが少し大きくなった。


 恐怖は消えない。


 敵も減らない。


 出口もまだない。


 それでも、空気は変わった。


 勇者が奇跡を起こすのを待つ軍ではない。


 自分たちで帰る方法を探す集団へ。


 各部隊が出発する。


 西へ。


 北東へ。


 デルネ砦へ。


 南へ。


 中央に残った俺は、全ての背中を見送った。


「怖いですか」


 ミレイユが隣で尋ねる。


「怖いです」


「また言うのですね」


「今度は隠しません」


 彼女は俺の首元を見た。


 空白大勲章。


 重いので、ずっと荷物に入れていた。


 今日は勇者の旗を集めるため、目印としてつけさせられた。


「外してもいいですか」


「敵に見せる必要があります」


「首が痛いです」


「我慢してください」


「無能力者に装備させる重さではありません」


「では、私が支えます」


 ミレイユは勲章の紐を少し持ち上げた。


 距離が近い。


 俺が驚くと、彼女も気づいたらしい。


 すぐ手を離す。


「落とさないでください」


「落としても拾わなくていいです」


「王国最高位の勲章です」


「中身は空白です」


「あなたに似ていますね」


「それは悪口ですか」


「今は褒めています」


「分かりにくい」


 遠くで角笛が鳴った。


 南へ向かったダリオス隊の合図。


 一回。


 接敵。


 二回。


 予定どおり後退。


 作戦が始まった。


 俺は地図へ向き直る。


 全てを自分で決めることはできない。


 全員を見守ることもできない。


 ただ、戻ってくる場所だけは守る。


「中央隊、準備を」


 俺は言った。


「負傷者を移動できる状態へ。戻った部隊から順に水を。敵が近づいても、旗の外へ出ないでください」


 兵士たちが動く。


 今度は、俺の言葉を神託としてではなく、作業の指示として聞いている。


 それだけでよかった。


 夜明けまで、あと三時間半。


 出口はまだ一つもない。


 それでも俺たちは、初めて最強勇者の奇跡を待たず、自分たちの手で生き残るために動き始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

「透の逃げっぷりが面白い」
「誤解の続きが気になる」
と思っていただけましたら、ブックマークで応援していただけるとうれしいです。

この下の☆☆☆☆☆から、感じたままの評価をいただけると励みになります。
一言だけの感想も大歓迎です!

次のエピソードでも、透は全力で逃げます。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ