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第8章 勇者の名前が人を殺す

 退路を断たれた八千人の軍隊は、最初に地図を疑った。


「南の街道が塞がれただけだ!」


 ダリオス侯爵が馬上から叫ぶ。


「西の森を抜ければ王都へ戻れる!」


「森には火が入っています」


 俺は平原の西を指した。


 黒い煙が空へ昇っている。


 風は北東へ吹いていた。


 今は森の端だけが燃えているが、間もなく炎は街道側へ広がる。


「東へ迂回すればよい!」


「そちらにも敵の旗があります」


「少数だ!」


「数を確認したんですか」


「臆病者の目には、草木まで敵に見えるらしいな!」


 侯爵は認めようとしない。


 自分の命令で八千人を罠へ連れてきたという事実を。


 だが、認めたくない気持ちは分かった。


 俺も同じだった。


 自分の名前が掲げられた軍が、敵に包囲されている。


 正面には連絡の途絶えたデルネ砦。


 後方には、こちらを上回る魔王軍。


 左右には火を放たれた森。


 この状況を前にしても、俺はどこかで考えていた。


 自分は止めた。


 撤退しろと言った。


 進軍を命じたのは侯爵だ。


 だから、これは俺のせいではない。


 そう思えれば、少しだけ息がしやすくなった。


 その考えを、俺は必死に手放さないようにしていた。


「まず、全軍を止めてください」


 俺は侯爵へ言った。


「隊列が伸びたままでは、後方から各個に襲われます」


「前進して砦へ入る!」


「砦が敵に落ちていたら?」


「城壁がある! 平原に留まるよりましだ!」


「中を確認していません!」


「斥候を出せ!」


「出した斥候が戻っていないんです!」


 侯爵の顔が赤くなる。


 それでも号令を出そうとしたとき、平原南側から魔王軍の角笛が鳴った。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 続けて、王国軍の後方から悲鳴が上がる。


「敵襲!」


「荷車を守れ!」


「弓兵、南へ!」


 遠征軍の列が崩れ始めた。


 前方へ進もうとする兵。


 後方へ戻ろうとする兵。


 森へ逃げようとする義勇兵。


 命令が複数方向から飛び、誰も全体を把握できていない。


「セレナさん!」


「騎士隊を後方へ回します!」


「深追いしないでください! 補給隊を回収したら戻って!」


「承知しました!」


 セレナが騎士たちを率いて南へ走る。


 ガルドは平原の端へ移動し、敵の数と進路を確認する。


 ミレイユは杖を掲げ、空中へ青い光を放った。


「各部隊の位置を表示します!」


 光が平原の上で分かれ、王国軍の旗がある場所へ小さな印を浮かべる。


 散らばっている。


 ひどい。


 部隊ごとに所属する領主が違い、命令も統一されていない。


「全員へ同じ指示を出せますか」


「近距離の魔晶通信なら!」


「前進を止める。中央へ集まる。負傷者と補給を内側へ。槍兵を外周。弓兵は勝手に撃たない」


「勇者様」


 侯爵が俺を睨む。


「この軍の指揮官は私だ」


「では今すぐ指揮してください!」


「何だと」


「軍がばらばらです! 前へ行くのか、戻るのか、ここで守るのか、決めてください!」


 侯爵は口を開いた。


 だが答えは出なかった。


 前へ行けば罠かもしれない。


 戻れば魔王軍。


 ここで守れば包囲される。


 正しい答えなどない。


 だからこそ、誰かが選ばなければならない。


「中央へ集めます」


 俺は言った。


「少なくとも、今は」


「勇者殿の権限で?」


「俺に権限なんてありません」


「ならば命令するな!」


「あなたが命令しないからです!」


 言い争っている間にも、悲鳴は増えている。


 俺はミレイユを見た。


「伝えてください」


 彼女は一瞬だけ侯爵を見た。


 そして杖を振る。


 青い光が平原全体へ広がった。


『全軍へ通達』


 ミレイユの声が魔晶石を通じて響く。


『前進を停止。中央旗へ集結。補給隊、治療班、負傷者を内側へ。各部隊は独自行動を控えよ』


 兵士たちが動き始める。


 勇者の近くへ集まれ。


 そう伝わったのだろう。


 正規兵だけでなく、義勇兵まで中央へ押し寄せてくる。


「押さないで!」


「荷車を先に!」


「負傷者を通してください!」


 命令が届いても、八千人はすぐには動けない。


 中央へ集まろうとした兵同士がぶつかり、道を塞ぐ。


 荷車の車輪が溝にはまり、後続が止まる。


 騎兵が徒歩兵を押し退けようとする。


「部隊ごとに順番を決めてください!」


 俺は近くの将校へ叫ぶ。


「旗の色で分ける! 青旗は東側、赤旗は西側! 白旗の義勇兵は中央!」


 将校たちが復唱する。


 俺が考えた指示ではない。


 現場の兵士たちが、状況に合わせて形へ変えている。


 少しずつ、円形の陣ができていく。


 その外側へ魔王軍の矢が飛んできた。


「盾!」


 何百枚もの盾が上がる。


 矢が雨のように落ちる。


 金属音。


 悲鳴。


 盾を持たない義勇兵が、近くの荷車の下へ潜り込む。


 俺も伏せた。


 頭のすぐ上を矢が通過する。


「勇者様!」


 誰かが俺の前へ盾を出した。


 ロイだった。


 震える腕で、借り物らしい小さな盾を掲げている。


「何をしているんです!」


「勇者様を守らないと!」


「自分を守ってください!」


「勇者様がいれば、まだ勝てます!」


 その言葉に、体が冷えた。


「勝てません」


「大丈夫です!」


「大丈夫ではありません!」


「いつもそう言って、最後には勝ってきたでしょう!」


 ロイは笑った。


 恐怖を押し隠すための、引きつった笑顔だった。


「今回も、何か考えているんですよね」


「考えていません」


「俺たちには分からないだけで」


「本当に何もありません!」


 ロイは信じなかった。


 いや。


 信じられないのだ。


 ここで俺に何もないと認めれば、自分たちが罠の中へ入った事実と向き合わなければならない。


 最強の勇者がいる。


 だから逆転できる。


 そう思うほうが、怖くない。


 南側で爆発が起きた。


 黒煙が上がる。


 セレナたちが守っていた補給隊の一部が燃えていた。


「水を!」


「治療班、こちらへ!」


「敵の騎兵が回り込むぞ!」


 伝令が走ってくる。


「南側の魔王軍、数およそ一万二千! さらに増援あり!」


「デルネ砦から反応は?」


「ありません!」


「門は?」


「閉じています!」


「王国旗は?」


「掲げられています!」


 旗だけ。


 守備兵がいるとは限らない。


「砦へ近づいた斥候は?」


 伝令は答えない。


 顔を伏せた。


「戻っていません」


 侯爵が剣を抜いた。


「ならば、砦まで突破する!」


「待ってください!」


「平原で包囲されれば全滅だ! 城壁へ入れば守れる!」


「門が開かなかったら?」


「開かせる!」


「敵が中にいたら?」


「勇者殿がいる!」


 まただ。


「俺を作戦に入れないでください!」


「ここまで来ても、なお力を隠すか!」


「隠していません!」


「兵の士気を保つための芝居なのであろう!」


「違う!」


 侯爵は俺の声を無視し、剣を北へ向けた。


「全軍、デルネ砦へ!」


 兵士たちが動こうとする。


「止まってください!」


 俺は叫んだ。


「砦の状況が分かるまで動かないで!」


 命令が二つ。


 八千人の兵士たちは迷った。


 侯爵を見る者。


 俺を見る者。


 やがて、誰かが声を上げた。


「勇者様が慎重に進めとおっしゃっている!」


「斥候を出せ!」


「勇者様の策を待て!」


 まただ。


 俺の言葉は撤退ではなく、もっと大きな逆転作戦の準備として受け取られている。


「策はありません!」


「敵を欺くためだ!」


「聞かれているぞ!」


「ならば、勇者様は本当の策を口にできない!」


 否定が、作戦の証明になる。


 黙れば、秘密の作戦になる。


 もう何を言っても駄目だった。


 魔王軍の二度目の矢が飛んでくる。


 ミレイユが防壁を張った。


 半透明の青い壁が、陣の南側を覆う。


 だが範囲が広すぎる。


 壁へ矢が当たるたび、ミレイユの顔から血の気が失われる。


「長くは保ちません!」


「弓兵は敵の射手を狙って!」


 将校が命じる。


 王国軍の矢が撃ち返される。


 距離が遠い。


 多くは届かない。


 魔王軍は無理に近づかず、こちらを消耗させている。


 食料を失わせ、水を減らし、負傷者を増やす。


 そして、恐怖が軍を内側から壊すのを待っている。


「西側から敵騎兵!」


 ガルドの声。


「数、五百!」


「槍兵を西へ!」


 俺は叫んだ。


 兵士たちが移動する。


 だが集まりすぎた陣の中では、部隊がうまく動けない。


 荷車。


 負傷者。


 義勇兵。


 逃げようとする馬。


 槍兵が前へ出る前に、敵騎兵が突っ込んでくる。


 悲鳴が上がった。


「道を空けろ!」


 セレナが南から戻ってきた。


 銀の鎧は泥と血で汚れている。


 彼女は騎士たちを率い、敵騎兵の側面へ突撃した。


 銀の剣が一閃する。


 敵の先頭が崩れる。


 王国の槍兵も、ようやく隊列を作った。


 敵騎兵は長居せず、すぐに後退した。


 追えば、包囲の外へ誘い出される。


「追わないで!」


 俺の声に、兵士たちは止まった。


 敵は深追いしない。


 こちらへ一撃を加え、すぐ退く。


 何度も繰り返して、軍を疲れさせるつもりだ。


「負傷者は?」


 セレナが馬を降りる。


「確認中です」


 俺は答えた。


「補給隊は?」


「三分の一が焼かれました」


「水は」


「二日分ほど」


「八千人で?」


「……一日半です」


 息が苦しくなる。


 日が沈めば、さらに危険になる。


 暗闇の中で攻撃されれば、兵士たちは互いの位置を見失う。


 今のうちに動かなければならない。


 だが、どこへ。


「砦を確認します」


 ガルドが言った。


「危険です」


「他に手はない」


「一人では」


「人数が増えれば見つかる」


「帰る時刻を決めてください」


「日没まで」


「戻らなければ?」


「敵がいると思え」


 ガルドは平原の北へ消えた。


 俺はその背中を止められなかった。


 誰かが危険な役目を引き受けなければ、何も分からない。


 分かっている。


 それでも、戻らなかった場合を考えるだけで胃が縮む。


「勇者様!」


 東側から将校が走ってきた。


「兵の一部が、独自に突破を始めました!」


「どこへ」


「デルネ砦へ!」


 遠くを見る。


 数百人の兵士が、陣を離れて北へ走っている。


 先頭には、俺の紋章が描かれた旗。


「誰の命令です!」


「不明です! 義勇兵を中心に、『勇者の先陣』を名乗っています!」


 俺は馬へ乗ろうとした。


 足が鐙へ入らない。


 セレナが支える。


「止めに行きます!」


「私が」


「俺も行きます!」


「勇者様が姿を見せれば、さらに士気が上がる可能性があります」


 そのとおりだった。


 俺が追えば、先頭に立ちに来たと思われる。


「では、オラクル網で」


 ミレイユが首を振る。


「魔王軍の干渉が続いています」


「近距離通信は?」


「届きます」


 魔晶石へ向かって叫ぶ。


「北へ進んでいる部隊、止まってください! 戻って!」


 返答が入る。


『勇者様、ご安心を!』


「安心できません!」


『我々が砦への道を開きます!』


「開かなくていい!」


『勇者様の策が完成するまで、敵を引きつけます!』


「そんな策はありません!」


『承知しています! 敵に聞かれていますから!』


 通信が切れた。


 数百人は止まらない。


 デルネ砦へ向かう途中には、低い丘と窪地がある。


 見通しが悪い。


 待ち伏せに最適だった。


「戻れ!」


 俺は届かない声で叫んだ。


 先頭の旗が丘を越える。


 兵士たちが続く。


 一人。


 十人。


 百人。


 やがて全員が丘の向こうへ消えた。


 数秒後。


 地面が光った。


 丘の裏側から、巨大な炎の柱が立ち上がる。


 爆音が遅れて届いた。


 馬が暴れる。


 空気が震える。


 炎の中から、人影が飛び出してくる。


 燃えている。


 転び、地面を転がり、動かなくなる。


「治療班!」


 セレナが駆け出す。


 騎士たちも続く。


 俺は動けなかった。


 丘の向こうから、戻ってくる兵士たち。


 槍を捨てて走る者。


 仲間を背負う者。


 片腕を押さえる者。


 泣き叫ぶ者。


 敵の姿はない。


 地面へ仕掛けられた術式だけ。


 俺の名前を信じた部隊は、敵へ触れることすらできなかった。


「負傷者を中央へ!」


 声を出した。


 自分の声ではないように聞こえた。


「水を! 火傷へ布を直接当てないで! 治療できる人を呼んで!」


 動かなければならない。


 考えるのは後だ。


 目の前にいる人を助ける。


 それだけ。


 兵士が一人、俺の足元へ運ばれてきた。


 若い。


 ロイより少し年上くらい。


 胸元には、空白の勇者を示す小さな木札が下がっている。


 鎧の半分が焼けていた。


「勇者……様」


「話さなくていいです」


 俺は膝をついた。


「治療班が来ます」


「策は……成功、しましたか」


「策なんてありません」


「大丈夫です」


 兵士は苦しそうに笑った。


「分かって……います。敵に……聞かせないため……」


「違います」


「俺たちが……道を……」


「開いていません」


「勇者様なら……」


「やめてください」


「勝って……」


「やめろ!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。


 兵士の目が揺れる。


 周囲の人々もこちらを見る。


「俺を信じるな!」


 俺は叫んだ。


「俺の名前で死ぬな! 俺には何もない! 皆を救う策も、魔王を倒す力もない!」


 兵士の唇が動く。


 何かを言おうとした。


 だが声は出なかった。


 治療魔術師が駆け寄り、俺を押し退ける。


「離れてください!」


 俺は立ち上がった。


 足元が揺れる。


 治療の光。


 怒号。


 泣き声。


 焦げた匂い。


 地面に落ちた、俺の紋章の旗。


 青い円が半分焼けている。


「何人です」


 俺は尋ねた。


 誰も答えない。


「何人、死んだんですか」


 近くの将校が唇を噛んだ。


「現時点で、確認できているだけで四十三名」


 四十三。


「重傷者は百を超えます」


 数字が頭へ入ってこない。


「それ以外にも、丘の向こうへ残された者が」


 四十三。


 俺が止まれと言った。


 それでも進んだ。


 俺の命令を無視した。


 だから俺の責任ではない。


 そう考えようとした。


 だが、兵士の胸には俺の木札があった。


 彼は最後まで、俺なら勝てると言った。


 俺が何度否定しても。


 なぜ信じた。


 オラクル網が嘘を流したから。


 ベルドが編集したから。


 魔王軍が通信を歪めたから。


 侯爵が俺の名を使ったから。


 全部正しい。


 俺一人の責任ではない。


 けれど。


 最初に王都で、勇者として扱われたとき。


 本当に止めようと思えば、もっとできたのではないか。


 神殿から逃げることばかり考えず、国王へ何度でも検査を求めることができた。


 人前に出ることを拒否できた。


 自分の活躍が編集されていると知った時点で、民衆へ直接話すこともできた。


 ベルドに利用されていると分かってからも、立場を失うのが怖くて黙っていた。


 誤解されるたびに訂正はした。


 だが、それが通じないと分かると諦めた。


 勇者として得られる安全な部屋も、食事も、護衛も受け取り続けた。


 俺は騙すつもりなどなかった。


 それでも、誤解によって守られていた。


 その間に、伝説は大きくなった。


 そして今、その伝説を信じた人が死んだ。


「勇者様」


 ロイがそばへ来た。


 盾は割れ、頬に血がついている。


「負傷者を運ぶのを手伝ってください」


「……はい」


「ここにいると、皆が集まってしまいます」


 彼は俺を責めていなかった。


 それが苦しかった。


「ロイ」


「はい」


「俺のことを、勇者様と呼ばないでください」


 ロイは困った顔をする。


「では、何と」


「トオルでいいです」


「でも」


「お願いします」


「……トオルさん」


 その呼び方に、胸が締めつけられた。


 俺たちは負傷者を運んだ。


 夕方まで。


 何人も。


 手を握った。


 水を渡した。


 名前を聞いた。


 返事のない人へ、何度も声をかけた。


 日が落ちるころ、魔王軍は攻撃を止めた。


 暗闇の中で無理に攻めなくても、王国軍が疲弊していくと分かっているのだ。


 遠征軍は平原中央で円陣を組んだ。


 火は最小限。


 食料は半量。


 水は負傷者を優先。


 逃亡を防ぐためではなく、暗闇で迷わないよう部隊同士を縄でつないだ。


 死者は、陣の北側へ並べられた。


 白い布が足りず、旗や外套まで使われた。


 俺の紋章が描かれた旗も、何枚か遺体へ掛けられている。


 見ていられなかった。


 それでも目を逸らせなかった。


 ガルドが戻ったのは、完全に夜になってからだった。


 肩に矢が刺さっている。


「ガルド!」


「抜くな」


 ミレイユが治療班を呼ぶ。


「砦は」


 俺は尋ねた。


「落ちている」


 ガルドは短く答えた。


「中に魔王軍。王国旗は偽物だ」


 やはり。


「兵の数は」


「少なくとも二千。門の内側に魔導砲」


「近づけば?」


「平原ごと撃たれる」


 前は砦。


 後ろは本軍。


 左右は火と敵部隊。


 完全な包囲。


「抜け道は」


「地下道がある」


 希望が生まれかける。


「だが、入口は砦の中だ」


 消えた。


「他には?」


「北東の谷」


 ガルドは地面へ簡単な地図を描く。


「細い。大軍は通れない」


「何人くらい」


「一度に二、三人。途中に崩れた場所もある」


「八千人は無理ですね」


「全員なら、朝までかかる。敵が見逃さない」


「一部だけなら」


「逃がせる」


 一部。


 誰を選ぶ。


 負傷者。


 義勇兵。


 若者。


 騎士。


 指揮官。


 誰かを逃がせば、残る人がいる。


「全員で出られる道を探してください」


「ない」


「まだ分からないでしょう」


「見た」


「別の場所も」


「敵がいる」


「もっと探せば」


「日がない」


 ガルドは冷静だった。


 残酷なくらい。


「選べ、トオル」


「何を」


「誰を逃がす」


「選びません」


「なら全員死ぬ」


「選びません!」


 周囲が静かになる。


 俺は息を整えた。


「誰かを置いていく作戦は禁止です」


「今は理想を言う場面ではない」


 ガルドの目は鋭い。


「分かっています」


「分かっていない」


「分かりたくないだけです」


 俺は地図を見る。


 北東の谷。


 デルネ砦。


 南の魔王軍。


 燃える森。


 残りの水。


 負傷者。


 八千人。


 何も思いつかない。


 以前なら、誰かが俺の曖昧な言葉を作戦へ変えてくれた。


 だが今は、その言葉すら出てこない。


「全軍へ伝えてください」


 俺は言った。


「明け方まで防御を維持。部隊ごとに水と食料を再確認。負傷者を移動できる状態へ。荷車は使えるものと使えないものを分ける」


「撤退経路は?」


 ミレイユが尋ねる。


「まだありません」


「では、兵士へ何と説明します」


「何も決まっていないと」


 セレナが俺を見る。


「混乱します」


「嘘の希望を与えるよりいいです」


「ですが」


「俺が何か考えていると思わせないでください」


 声が震える。


「もう、誰にも俺を信じて死んでほしくない」


 近くの天幕を借り、仲間だけを集めた。


 セレナ。


 ミレイユ。


 ガルド。


 エルナはいない。


 王都に残っている。


 ヴァルガとリィナも灰牙族の土地だ。


 ここにいるのは、最初から俺の旅へ同行してきた三人だけだった。


 天幕の中には、小さな魔晶灯が一つ。


 外から、負傷者の声と兵士の足音が聞こえる。


「話があります」


 三人は黙って俺を見ている。


 言わなければならない。


 ずっと先延ばしにしてきたことを。


「ミレイユさんは、知っています」


 セレナの視線がミレイユへ動く。


「俺には、本当に何の能力もありません」


 声が掠れた。


「魔力回路もない。剣も使えない。特別な加護もない。鑑定晶は、俺が触れる前から壊れていました」


 セレナの顔から表情が消える。


 ガルドは動かない。


「最初の黒角獣は、照明が落ちただけです。待ち伏せに気づいたのも、怪しいところが目についただけ。灰牙族の礼は転んだ。川が戻ったのは、荷車が監視塔へぶつかった事故です」


「千眼のバルダスは」


 セレナが静かに尋ねた。


「俺の行動を読めなかっただけです。俺が怖がって、判断を変え続けたから」


「敵の攻撃へ踏み込んだのは」


「足がしびれて転びました」


 言葉にするたび、これまでの勝利が崩れていく。


 立派に見えたものが、元の情けない形へ戻る。


「俺は最強勇者ではありません」


 セレナは俯いた。


「皆を騙していました」


「それは違います」


 ミレイユが口を開く。


「違いません」


「あなたは何度も否定した」


「本気で止めなかった」


 俺は首を振った。


「誤解されていると分かっていて、勇者の立場を使いました。安全な部屋も、護衛も、食事も受け取った。責任が怖くて、真実を言う時期を延ばした」


「トオル」


「今日、人が死にました」


 四十三人。


 その後、さらに増えた。


 治療中だった三人が亡くなったと聞いた。


「俺の名前を信じて」


「命令したのは侯爵です」


 セレナが言う。


「映像を編集したのはベルド。通信へ干渉したのは魔王軍です」


「でも、俺も止めなかった」


「止めようとしました」


「足りなかった!」


 自分の声が天幕の布を震わせる。


「何度も誤解されたから、もう仕方ないと思った! 何を言っても通じないから、諦めた! 自分が悪くない理由ばかり探していた!」


 誰も答えない。


「今日、あの兵士は最後まで俺を信じていました」


 策は成功したか。


 勇者様なら勝てる。


 そう言っていた。


「俺が本当のことを伝えられなかったからです」


「伝えた」


 ガルドが言った。


「平原で」


「遅かった」


「そうだな」


 肯定された。


 胸が痛んだ。


 だが、ガルドは続けた。


「遅かった。だが、言わなかったわけではない」


「同じです」


「違う」


「何が」


「死者の責任を全て奪うな」


 俺は顔を上げる。


「奪う?」


「兵は自分で来た。侯爵は進軍を命じた。ベルドは嘘を流した。敵は罠を作った。お前も黙った」


 ガルドは指を一本ずつ折る。


「全部だ」


「だから」


「お前一人のせいにすれば、他の奴らが楽になる」


 言葉が止まる。


「死んだ兵も、自分で選んだ部分がある。選ぶための情報を歪められていた。それでも、全てをお前が背負えば、何が間違っていたか見えなくなる」


「でも」


「責任から逃げるな。だが、他人の責任まで盗むな」


 厳しい声だった。


 俺は何も返せなかった。


 セレナが静かに剣を外した。


 鞘ごと、地面へ置く。


「最初に神殿でお会いした日」


 彼女は俺を見ない。


「私は、あなたが黒角獣を倒したと思いました」


「違います」


「はい」


 その一言が怖かった。


「その後も、勇者様は力を隠しておられるのだと」


「隠していません」


「今は分かっています」


「いつから」


「明確に疑い始めたのは、補給拠点です」


「そんな前から?」


「戦える方の動きではありませんでした」


 恥ずかしい。


「それでも、俺を勇者と」


「力がないことと、何もしていないことは違うと思ったからです」


「でも、今日」


「今日、私はあなたの名を信じた兵を守れませんでした」


 セレナの拳が震えている。


「私も、英雄の物語を信じたかった。あなたが最後には全てを解決すると、どこかで思っていた」


「セレナさんまで」


「私は愚かでした」


 彼女の声が初めて揺れた。


「勇者様が何とかしてくださる。その思いが、私自身の判断を鈍らせた」


 セレナは顔を上げる。


 青い目に、失望はあった。


 怒りも。


 悲しみも。


「だから、すぐに答えることはできません」


 胸が沈む。


 当然だ。


「ミレイユさんも、ガルドも」


 俺は二人を見る。


「俺から離れてください」


「何を言っているのです」


「俺の名前は、もう危険です」


 兵士を進ませる。


 敵を引き寄せる。


 言葉を歪められる。


「俺のそばにいる限り、また巻き込まれます」


「今、包囲の中ですが」


「脱出できたら」


「その前に全員死ぬ可能性があります」


「だからこそ、今のうちに決めてください」


 俺は三人を見る。


「俺は勇者ではない。戦えない。皆を勝たせることもできない。これまでの評判は、ほとんど誤解です」


 一度息を吸う。


 喉が痛い。


「こんな人間を守る必要はありません」


 セレナは何も言わない。


 ミレイユも。


 ガルドも。


「見捨ててください」


 口にした瞬間、胸の奥で何かが切れた気がした。


「今なら、俺を差し出して交渉できるかもしれない。魔王軍が狙っているのは俺です。俺を渡せば、他の兵を逃がせる可能性がある」


「それは」


 ミレイユが言いかける。


「俺が囮になる案ではありません」


 自分で否定する。


「交換材料です」


「同じです」


「違います」


「どう違うのです」


「逃げるためではなく、自分で決めています」


 怖い。


 魔王軍へ渡されれば、殺されるかもしれない。


 拷問されるかもしれない。


 想像するだけで吐きそうになる。


 それでも、四十六人の遺体が外にある。


 これ以上増えるなら。


「俺一人で八千人を救えるなら、それが一番被害が少ない」


「相手が約束を守る保証は」


「ありません」


「ならば作戦になりません」


「他に何かありますか」


 誰も答えない。


「俺にはありません」


 天幕の外で、兵士が叫んだ。


「敵の使者です!」


 全員が振り返る。


「魔王軍から使者が来ました!」


 俺たちは天幕を出た。


 円陣の南側。


 白い布を掲げた魔族の騎兵が、一人だけ近づいてくる。


 兵士たちが槍を向ける。


 使者は一定の距離で馬を止め、黒い筒を地面へ投げた。


 筒が開き、魔王グラウゼルの声が平原へ響く。


『空白の勇者トオルを差し出せ』


 兵士たちがざわめく。


『夜明けまでに勇者を引き渡せば、王国軍へ一度だけ退路を開く』


 俺は目を閉じた。


 やはり。


 敵の目的は俺だ。


『拒むなら、日の出とともに全軍を殲滅する』


 筒の光が消える。


 使者は返答を待たず、南へ戻っていった。


 兵士たちの視線が集まる。


 俺へ。


 希望としてではない。


 初めて、一人分の命として。


「決まりです」


 俺は言った。


 セレナたちへ向き直る。


「俺を渡してください」


 三人は答えなかった。


 遠征軍の誰も、声を上げない。


 夜の平原に、負傷者の呻きと、遠くの炎が木を爆ぜさせる音だけが響く。


「見捨ててくれ」


 今度は小さく言った。


 それが命令なのか、願いなのか、自分でも分からなかった。


 三人の答えを待つ間だけが、包囲されてから最も長い時間に感じられた。


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