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第7章 止めたいだけなのに出陣演説になる

 八千人の軍隊を止めるには、馬一頭では足りなかった。


「もっと速く走れませんか!」


「走っています!」


 前を駆けるセレナが叫ぶ。


 俺が乗せられている馬は、王城でも特に脚の速い軍馬らしい。


 確かに速い。


 速すぎて怖い。


 鞍へしがみつくだけで精いっぱいだった。


 後ろからは、ミレイユ、ガルド、騎士たちが続いている。


 エルナは王都に残り、オラクル網の中継準備を進めていた。


 俺が直接、遠征軍へ撤退を呼びかける。


 今度は編集せず、そのまま流す。


 そう約束した。


「遠征軍はどこです!」


「王都北方のラグナ平原を通過中です!」


「追いつけますか!」


「行軍速度なら、日没前には!」


「日没前では遅いかもしれません!」


 遠征軍の目的地は、国境近くのデルネ砦。


 そこを拠点に、魔王領へ侵攻する予定らしい。


 王都を出発してから、すでに半日以上が経っている。


 正式な王命なしに八千人もの軍が動けたのは、複数の領主が兵を出し、義勇兵と傭兵が加わったからだ。


 統一された軍ではない。


 命令系統も複雑。


 誰か一人を説得すれば止まるというものでもない。


「どうして国王は出発を止められなかったんですか!」


「王都所属の部隊ではありません!」


 セレナが答える。


「各領主は、領地防衛を理由に独自の軍を持つことを認められています!」


「国境を越えても領地防衛ですか!」


「魔王軍を先に叩くことが防衛だと主張しています!」


 理屈は分かる。


 だが、それを許せば誰でも戦争を始められる。


「指揮官は?」


「遠征軍総司令は、北方貴族のダリオス侯爵です!」


「どんな人ですか」


「勇猛な方です」


「慎重な人ではないんですね」


「勇猛な方です!」


 言い換えなかった。


 嫌な予感がした。


 ラグナ平原へ近づくにつれ、街道沿いに人が増えていった。


 遠征軍を見送るために集まった民衆だ。


 農民。


 商人。


 子ども。


 皆、青と白の旗を振っている。


 旗の中央に描かれているのは、空白の円。


 俺の紋章だった。


「勇者様だ!」


 誰かが俺を見つけた。


「勇者様が遠征軍を追っておられる!」


「自ら指揮を執るためだ!」


「ついに魔王領へ!」


「違います!」


 馬を止める余裕はない。


 俺の声は後方へ流れていく。


「止めに行くんです!」


「勇者様自ら、進軍の遅れを止めに!」


「違う!」


 どの単語を選べば正しく伝わるのか、もう分からない。


「敵地へ行くな!」


「焦るな、時機を待てとの御言葉だ!」


「帰れ!」


「帰る場所を守るために戦えと!」


「言葉の意味が反転している!」


 沿道の歓声が、遠征軍の後方まで伝わっていく。


 俺たちが近づいていると知り、兵士たちの士気が上がっているらしい。


 止めに来た人間の存在で、進軍速度が速くなっていた。


「別の道から前へ回れませんか!」


 ガルドが平原の西を指す。


「林の中を抜ければ、行軍隊列の先頭近くへ出られる」


「馬で通れます?」


「途中から徒歩だ」


「行きましょう」


 街道を外れる。


 林へ入ると、馬の速度は落ちた。


 枝が顔へ当たりそうになる。


 地面には根が張り出し、何度も体が浮いた。


 セレナは迷いなく進む。


 ガルドが先行し、通れる道を見つける。


 ミレイユは後方の騎士たちへ魔法の光を送り、目印を残していた。


 俺は落ちないようにするだけだった。


「トオル」


 並走するミレイユが声をかける。


「遠征軍へ追いついたら、何を話すつもりですか」


「本当のことです」


「具体的には」


「俺には力がない。勝てる保証もない。魔王軍は罠を使う。すぐに撤退してほしい」


「あなたが無能力であることまで、この場で話しますか」


 馬の蹄が土を蹴る。


 答えるまでに少し時間がかかった。


「話します」


「八千人の前で?」


「話さないと、止まらないでしょう」


「逆に、混乱する可能性があります」


「分かっています」


 兵士たちは俺を信じて進んでいる。


 その俺が突然、勇者ではないと告白する。


 隊列が乱れる。


 指揮官への不信も生まれる。


 魔王軍が近くにいれば、そこを狙われる。


「では、まず撤退を命じて、王国へ戻ってから真実を話すべきですか」


「あなたの命令に従う根拠は、勇者という肩書きです」


 ミレイユの言葉は冷静だった。


「肩書きを使って撤退させた後、その肩書きは偽物でしたと明かす。それもまた、利用です」


「では、どうすれば」


「私には決められません」


「いつも最後は俺に戻しますね」


「あなたの正体だからです」


 林の先が明るくなる。


 ガルドが手を上げた。


「街道へ出る。軍の中ほどだ」


「先頭ではないんですか」


「奴らが予想より速い」


 遠征軍は、俺が追いつくと知って速度を上げていた。


 本当に迷惑な信頼だった。


 林を抜ける。


 目の前を、兵士の列が延々と進んでいた。


 槍兵。


 弓兵。


 騎兵。


 荷車。


 義勇兵。


 統一感はない。


 鎧の形も、旗も、装備もばらばら。


 それでも全員が、同じ方向へ向かっている。


 北へ。


 魔王領へ。


「勇者様!」


 一人の兵士が俺たちに気づく。


 声が隊列を伝わった。


「勇者様が来られた!」


「道を空けろ!」


「総司令へ知らせろ!」


 兵士たちが左右へ分かれる。


 中央に道ができた。


 まるで最初から、俺が軍を率いる予定だったように。


「止まってください!」


 俺は叫んだ。


 だが隊列は動き続けている。


「進軍を止めてください!」


「勇者様の訓示だ!」


「全隊、歩調を整えろ!」


「止まれと言っています!」


「静粛に!」


 声を聞かせるため、兵士たちが会話をやめた。


 足は止めない。


 数千人の足音だけが、平原へ響く。


「セレナさん、命令を!」


「私はこの軍の指揮官ではありません!」


「王国の聖騎士ですよね!」


「所属の異なる諸侯軍へ、直接命令する権限はありません!」


「では侯爵を探してください!」


 伝令騎兵が先頭へ走る。


 俺たちは隊列の中央を進んだ。


 左右から、兵士たちが俺を見る。


 期待。


 興奮。


 安心。


 恐怖を隠すため、勇者という存在へすがっている目。


 中には、どう見ても若すぎる者もいた。


 髭も生え揃っていない少年。


 農具を改造した槍を持つ男。


 革鎧すらなく、厚い布を何枚も重ねている女性。


 この人たちは、正規兵ではない。


 勝てると思って来たわけでもない。


 俺が勝たせてくれると思って来たのだ。


「勇者様!」


 隊列の中から、一人の青年が出てきた。


 年齢は十八歳くらい。


 手に持っている槍は新品だが、握り方が不自然だった。


「お会いできて光栄です!」


「名前は」


「ロイです! 王都南区の鍛冶職人の息子です!」


 手紙の名前と同じだった。


 志願すると書いた青年。


「なぜ来たんです」


「勇者様の戦いを見たからです!」


「どの戦いを」


「千眼のバルダスを退けた戦いです! あの敵を前に、勇者様は一歩も退かなかった!」


 座っていただけだ。


 足がしびれていた。


「俺は退きました」


「最後には敵を追い払った!」


「仲間が戦いました」


「だからこそです。勇者様は仲間を信じ、戦場に残った」


 ロイの目は輝いていた。


「俺も、家族を守れる男になりたいんです」


「家族を守りたいなら、帰ってください」


「ですが」


「死んだら守れません」


 青年の顔が曇る。


「怖くないんですか」


「怖いです」


「勇者様でも?」


「俺は、あなたより怖がりです」


 周囲の兵士たちが、こちらへ耳を向けている。


「戦場へ行きたくない。怪我もしたくない。死にたくない。今すぐ王都へ戻りたい」


 ロイは戸惑った。


「では、なぜ勇者様は戦っているんです」


「逃げられなかったからです」


 正直に言った。


「最初は、それだけでした」


 今も逃げたい。


 だが、この軍を見た後、自分だけ王都へ帰ることはできない。


 少なくとも、全員が安全な場所へ戻るまでは。


「皆さん、聞いてください!」


 俺は馬上から叫んだ。


「俺を信じて進まないでください!」


 ざわめきが広がる。


「俺がいれば勝てるというのは嘘です! 魔王軍の補給拠点を落としたのも、川を戻したのも、俺一人の力ではありません!」


 隊列の速度が少し落ちる。


「戦ったのはセレナさんたちです! 作戦を形にしたのはミレイユさんです! 灰牙族の協力がなければ、俺は何もできませんでした!」


「勇者様」


 セレナが小さく呼ぶ。


 止めようとしているのではない。


 続きを待っていた。


「俺には、魔力も剣術もありません!」


 言った。


 周囲の空気が変わる。


「鑑定晶は、最初から壊れかけていました! 測定不能だったのではなく、本当に何もなかったんです!」


 兵士たちの足が、少しずつ止まり始める。


 後ろから来る者がぶつかり、隊列が詰まる。


「俺は勇者ではありません!」


 その言葉が平原へ響いた。


 静寂。


 誰も進まない。


 数千人の軍が、初めて止まった。


 ロイは俺を見上げている。


 失望した顔。


 当然だ。


 俺はその視線から逃げずに続けた。


「だから、俺の名前を理由に命を懸けないでください。勝てる保証などありません。皆さんを守れる力もありません」


 胸が苦しい。


「撤退してください」


 誰も返事をしない。


「家へ帰ってください。家族のもとへ。守りたい人がいるなら、まず自分が生きて戻ってください」


 遠くから馬の蹄が聞こえた。


 先頭から、伝令と一緒に騎兵隊が戻ってくる。


 中央にいるのは、赤い鎧を着た大柄な男。


 五十歳ほど。


 太い口髭。


 胸にはいくつもの勲章。


 ダリオス侯爵だろう。


「勇者殿!」


 侯爵は馬を止め、俺を睨んだ。


「進軍中の軍を混乱させるとは、何事です!」


「撤退させてください」


「ここまで来て、何を申される!」


「敵の情報がありません。正式な王命もない。兵の練度も装備も揃っていない。このまま進めば危険です」


「魔王軍は補給を失い、混乱している!」


「それを確認したんですか」


「斥候から報告がある!」


「どんな報告です」


「国境の敵兵が減っている」


「後退したのか、隠れているのかは?」


「臆病な疑いで好機を逃すつもりか!」


 侯爵の声に、兵士たちの視線が集まる。


「勇者殿は、魔王軍の幹部を退けた。補給拠点も壊滅させた。その御方が先頭に立てば、我らは勝てる!」


「今、聞いていなかったんですか!」


「謙遜は不要です!」


「謙遜ではありません!」


「ならば、なぜ数々の勝利を得た!」


「皆がいたからです!」


「その皆を率いたのが、勇者殿ではないか!」


 議論が同じ場所を回っている。


 俺が何もしていないと言う。


 周囲が、仲間を生かしたことこそ勇者だと言う。


 だが、今問題なのは俺の評価ではない。


 八千人の命だ。


「仮に、俺があなたの考える勇者だったとしても、撤退を命じています」


 侯爵の顔が固まる。


「それでも進むんですか」


「勇者殿は混乱しておられる」


「都合のいいときだけ俺を勇者にしないでください」


「王国の勝機を前に、恐れへ屈したのです」


「恐れています」


 俺は認めた。


「だから危険が見えるんです」


 侯爵が鼻で笑う。


「恐怖は判断を鈍らせる」


「勇気も、行き過ぎれば判断を鈍らせます」


 周囲の兵士が息を呑む。


「怖くない人間は、退路を考えない。負傷者を考えない。失敗した後を考えない」


「我らが無謀だと?」


「はい」


 はっきり言った。


 侯爵の部下たちが剣へ手をかける。


 セレナが俺の前へ馬を進めた。


「武器を抜くなら、聖騎士団への敵対と見なします」


「セレナ殿。これは軍務だ」


「正式な王命なき進軍を、軍務とは呼べません」


 緊張が高まる。


 兵士同士が争い始めれば、魔王軍と戦う前に崩壊する。


「分かりました」


 俺は言った。


「侯爵は進みたい。俺は止めたい。では、兵士一人一人に選ばせてください」


「軍隊は多数決で動かぬ」


「正式な命令がないなら、義勇兵は帰れますよね」


「士気を乱すつもりか!」


「死ぬかもしれない人たちに、事実を知らせるだけです」


 俺は周囲を見る。


「俺には、皆さんを勝たせる力はありません。それでも行くなら、俺は止められません」


 兵士たちは沈黙している。


「でも、帰ることを恥じないでください。怖いと言っていい。家族を選んでいい。撤退する人を臆病者と呼ばないでください」


 ロイが槍を下ろした。


「俺は……」


 声が震えている。


「俺は、帰りたいです」


 侯爵が彼を睨む。


「義勇兵が何を」


「母と妹がいます」


 ロイは俺ではなく、地面を見ていた。


「勇者様が勝てるなら、自分も役に立てると思った。でも、俺は槍の訓練も三日しかしていません」


 別の男が武器を下ろす。


「俺もだ」


 女性兵が続く。


「村を守りたくて来た。でも、村を空にしたまま進むのは違う」


 少しずつ声が増える。


 帰りたい。


 怖い。


 準備が足りない。


 命令がない。


 家族へ何も言わずに来た。


 遠征軍の隊列が揺れる。


「黙れ!」


 侯爵が叫んだ。


「魔王軍に家族を殺されてからでは遅い! 勇者殿の勝利が、敵の弱さを証明している!」


「証明していません!」


 俺も叫び返した。


「俺たちは、毎回ぎりぎりで逃げてきただけです!」


「ならば、なぜ今ここに来た!」


 問いを投げつけられる。


「逃げたいなら、王城に残ればよかった! なぜ軍を追い、我々の前へ立った!」


 答えは分かっていた。


「俺の名前で来た人がいるからです」


 ロイを見る。


 兵士たちを見る。


「俺のせいで危険な場所へ進んだ人を置いて、逃げられなかった」


 平原が静まる。


「それが勇者だ!」


 侯爵が勝ち誇るように叫ぶ。


 しまった。


 言葉を選び間違えた。


「違います!」


「自らに力がないと知りながら、八千の命を救うため追ってきた! それを勇者と呼ばず、何と呼ぶ!」


「責任を感じている一般人です!」


「皆の者、聞いたか!」


 侯爵が兵士たちへ向き直る。


「勇者殿は、我らに己の足で立てと申している!」


「言っていません!」


「己の力に頼るな! 勇者一人へ勝利を預けるな! 自分で家族を守る覚悟を持てと!」


 言葉の一部だけなら、近い。


 だが結論が逆だ。


「そうではなく、帰れと!」


 侯爵は剣を抜き、空へ掲げた。


「勇者は、我らの信仰を試しておられる!」


「試していません!」


「力がないと聞いてもなお、共に進めるか!」


「進むな!」


「勇者の名ではなく、自らの意思で戦えるか!」


「戦わなくていい!」


 兵士たちの間で、迷いと熱狂がぶつかり合う。


 帰ろうとする者。


 残ろうとする者。


 勇者の言葉を撤退命令と受け取る者。


 自立を促す演説と受け取る者。


 最悪だった。


 そのとき。


 エルナの声が、空中から響いた。


『オラクル網、王都中継を開始します』


 頭上に、巨大な半透明の魔晶画面が浮かび上がる。


 平原にいる俺たちの姿。


 王都だけではない。


 各地の中継所へ同じ映像が送られている。


「エルナさん!」


『勇者様。音声も届いています』


「今までの会話は?」


『全て記録しています』


「編集していませんね?」


 一瞬、間があった。


『……していません』


「そのまま流してください」


『分かりました』


 今度こそ、俺の言葉がそのまま届く。


 俺は息を吸った。


「王国の皆さん」


 声が震える。


 八千人の前だけでも怖い。


 今は王国中が見ている。


「俺は、皆さんが思っているような勇者ではありません」


 侯爵が遮ろうとする。


 セレナが馬を動かし、前へ出た。


「最後まで聞いてください」


 俺は続ける。


「魔力はありません。剣も使えません。未来も読めません。魔王軍の補給拠点が壊れたのは、仲間の行動と、偶然が重なったからです」


 画面の向こうにいる人々の顔は見えない。


 それでも話す。


「俺が一人で魔王を倒すことはできません」


 平原にざわめきが広がる。


「だから、俺を信じて突撃しないでください」


 その言葉を、はっきり区切った。


「自分の命を、知らない誰かの伝説へ預けないでください」


 ロイが俺を見ている。


「怖いなら止まってください。分からないなら考えてください。命令が間違っていると思うなら、確認してください」


 侯爵の顔が赤くなる。


「それは軍紀を乱す発言だ!」


「命を守るためです」


「兵が命令を疑えば、軍は崩壊する!」


「間違った命令へ全員が従えば、もっと簡単に崩壊します」


 兵士たちが息を呑む。


「俺ではなく、自分で考えてください」


 言った。


 今度こそ、誤解されないように。


「そして、今は撤退してください」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 最初に動いたのはロイ。


 彼は槍を地面へ置いた。


「帰ります」


 次に、彼の隣にいた男。


 その次に女性。


 義勇兵の一部が、少しずつ隊列を離れる。


 正規兵の中にも、戸惑いが広がっている。


「戻る者を捕らえろ!」


 侯爵が命じた。


「敵前逃亡と見なす!」


「まだ敵前ではありません!」


 セレナが剣を抜く。


「彼らは王命による出兵ではない。帰還を妨げる権限はありません」


「この軍の指揮官は私だ!」


「ならば全員を生還させる責任も、あなたにあります」


 侯爵の顔が歪む。


 周囲の騎士たちは、誰に従うべきか迷っている。


 そのとき、オラクル網の映像が揺れた。


 エルナの声に雑音が混じる。


『勇者様、通信へ別の術式が――』


「何ですか」


『何者かが、各地の中継石へ同時に干渉しています』


 映像が乱れる。


 俺の姿が途切れる。


 音声が歪む。


『俺を……信じて……』


「違います!」


 俺の言葉の断片が、勝手につなぎ直されていく。


『俺ではなく……自分を信じて……』


「止めてください!」


『今は……進んでください』


「そんなこと言っていません!」


 最後の「撤退してください」から、「撤退」の部分だけが消えた。


 残った音声が王国中へ響く。


『自分で考えてください。そして、今は進んでください』


 平原が静まる。


 次の瞬間。


 遠征軍の後方から歓声が上がった。


「勇者様は、我らへ自分の意思で進めと!」


「勇者一人に頼らず、共に戦えと!」


「真の出陣演説だ!」


「違う!」


 侯爵が剣を掲げる。


「全軍、進め!」


「止まれ!」


 帰りかけていた兵の一部まで、足を止める。


 迷っていた者たちが、再び前へ向き直る。


 俺の訂正は、歓声に呑まれる。


「エルナさん、通信を切って!」


『できません! 外部から固定されています!』


 映像の端に、黒い王冠の紋章が浮かんだ。


 魔王軍だ。


 こちらの通信へ干渉し、発言を切り取った。


 王国の情報操作を利用し、俺の言葉をさらに歪めた。


「ミレイユ!」


 セレナが叫ぶ。


「追跡しています!」


 ミレイユの杖から、複数の光の糸が伸びる。


 空中の魔晶画面へ触れる。


「発信源は一つではありません! 国境付近の中継塔が、すでに奪われています!」


「いつから?」


「おそらく、遠征軍が王都を出た直後です!」


 敵は待っていた。


 この軍が進むのを。


 俺が止めようとするのを。


 発言が拡散されるのを。


「この進軍自体が罠です」


 俺は言った。


「敵は遠征軍を誘い込んでいます!」


 侯爵が睨む。


「今さら恐怖を煽るか」


「通信が乗っ取られたんですよ!」


「それこそ、魔王軍が我らを恐れている証拠!」


「逆です!」


 言葉が届かない。


 侯爵は前進を命じる。


 遠征軍が再び動き始める。


 義勇兵の一部は残った。


 だが多くは、流れに押されて歩き出す。


 ここで止めるには、侯爵を拘束するしかない。


 だがそうすれば、軍同士の衝突になる。


「トオル」


 ミレイユが馬を寄せる。


「王都へ戻って正式な停止命令を取るべきです」


「間に合いますか」


「早馬とオラクル網を使えば」


「中継塔は敵に奪われています」


「別系統を探します」


「その間、この軍は進む」


「ここで争っても止められません」


 正しい。


 だが、遠征軍を置いて戻れば、何が起きる。


 敵の罠があると分かっている。


 兵士たちは、俺の名前を信じている。


 俺が王都へ戻れば、


 勇者が先回りして準備をしている。


 そう解釈されるかもしれない。


「俺は残ります」


 口にした瞬間、自分が何を言ったのか分かった。


 怖い。


 前線へ行くなど、絶対に嫌だ。


「勇者様」


 セレナの声が厳しくなる。


「遠征軍へ同行すれば、進軍を認めたことになります」


「認めません」


「ですが」


「止められないなら、被害を減らします」


 侯爵を説得できなくても、兵士へ撤退の準備をさせることはできる。


 斥候を出す。


 補給を確認する。


 無理な行軍を止める。


 退路を確保する。


 魔王軍の罠を探す。


「俺がいなくても、侯爵は進みます」


「はい」


「俺がいれば、少なくとも変なところへ行こうとしたとき、危ないと言えます」


「敵地へ入ることになります」


「分かっています」


「死ぬ可能性があります」


「分かっています!」


 声が大きくなった。


 本当は分かりたくない。


 考えただけで逃げたくなる。


 それでも、前へ進む八千人の背中を見てしまった。


「俺の名前で来た人たちです」


 俺は言った。


「名前を取り戻せないなら、せめて、その名前のせいで死ぬ人を減らしたい」


 セレナは目を伏せた。


 やがて剣を鞘へ収める。


「ならば、私も残ります」


「当然のように巻き込まれないでください」


「あなた一人では何もできないのでしょう」


「事実ですが、言い方があります」


「私が戦います」


 ミレイユも頷く。


「私は中継への干渉を追います。敵の罠を見つけるにも、魔術師は必要です」


 ガルドはすでに北の地形を見ていた。


「先に行く」


「どこへ」


「斥候だ」


「一人では危険です」


「危険を見るために行く」


「危なくなったら戻ってください」


「お前は毎回それを言うな」


「毎回必要なので」


 ガルドは返事をせず、平原の草むらへ消えた。


 遠征軍は北へ進む。


 俺たちは、その流れへ加わった。


 昼を過ぎるころ、軍はラグナ平原の北端へ到達した。


 前方には、森と低い山。


 その先が国境だ。


 侯爵は速度を落とさない。


「兵士が疲れています」


 俺は騎馬で侯爵へ近づいた。


「日没前にデルネ砦へ着く」


「休憩を」


「敵に時間を与える」


「疲れた状態で襲われたら?」


「勇者殿がいる」


「今の話を聞いていましたか」


 侯爵は答えない。


「荷車が遅れています」


「最低限の食料は兵が持っている」


「負傷者を運ぶ荷車は?」


「戦う前から負傷を考えるな」


「考えてください!」


 俺たちのやり取りを、周囲の兵士が聞いている。


 侯爵は体面を失いたくない。


 俺も引けない。


「少なくとも、偵察が戻るまで止まってください」


「斥候なら出している」


「いつ戻ります」


「予定では先ほどだ」


 侯爵の顔が僅かに曇る。


「戻っていないんですね」


「地形確認に時間がかかっているだけだ」


「予定より遅れています」


「だから何だ」


「異常です」


 前世で、予定どおり来るはずの連絡が来ない。


 それだけで危険の兆候だった。


 報告を忘れた。


 通信機が壊れた。


 戻れない状況になった。


 理由は分からなくても、問題が起きている可能性は上がる。


「停止してください」


「進め」


「侯爵!」


 そのとき、草むらからガルドが現れた。


 息が荒い。


 右腕から血が流れている。


「ガルド!」


「止まれ」


 彼は短く言った。


「前に敵はいない」


 侯爵が笑う。


「見ろ。恐れる必要はない」


「最後まで聞いてください」


 ガルドは地面へ地図を広げる。


「敵はいない。砦にも、森にも」


「撤退したのか」


「違う」


 ガルドの指が、遠征軍の後方を示した。


「南西の丘で、大部隊を見た」


 全員の表情が変わる。


「どれくらいです」


「分からん。少なくとも、こちらより多い」


「なぜ後方に」


「森の地下道を使った」


 ミレイユが地図を見る。


「地下道?」


「魔族の旧採掘路だ。出口が平原南側にある」


「敵は、俺たちが通過するまで隠れていた?」


 ガルドが頷く。


「今、街道を塞いでいる」


 侯爵が馬上で凍りつく。


「補給隊は」


「分断された」


「王都への道は?」


「敵が押さえた」


 遠征軍の後方から、角笛が聞こえた。


 低く、長い音。


 王国軍のものではない。


 平原の南に、黒い旗が次々と立ち上がる。


 魔王軍。


 その数は、遠くからでも数えきれない。


 さらに東西の森からも、煙が上がる。


 退路を塞ぐため、火を放ったのだ。


 兵士たちの間に動揺が広がる。


「侯爵」


 俺は地図を見た。


「デルネ砦は?」


「前方だ」


「守備兵は?」


「いるはずだ」


「連絡は?」


「ない」


「斥候も戻っていない」


 嫌な予感が、確信に変わる。


「砦も、罠かもしれません」


 前へ進めば、無人の砦か、敵の待ち伏せ。


 後ろは魔王軍。


 左右は燃え始めた森。


 八千人の遠征軍は、ラグナ平原の北端で完全に退路を断たれていた。


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