第10章 魔王城で一番怖いのは自動扉
帰還作戦は、奇跡では成功しなかった。
西の森へ向かった工兵隊は、旧坑道の入口を見つけたものの、岩盤をすぐには崩せなかった。
北東の谷は、人が一列で通れる程度まで広げられたが、八千人と負傷者を夜明けまでに逃がすには狭すぎた。
南へ出たダリオス侯爵の部隊も、魔王軍を引きつけることはできたが、突破口を作るほどの兵力はなかった。
どの作戦も、それだけでは失敗だった。
だが、失敗した三つの作戦をつなげると、一本の道になった。
デルネ砦へ潜入したセレナたちは、地下の魔力導管を管理する整備通路を発見した。
通路は旧坑道へ続いていた。
工兵隊が外側から岩盤を崩し、セレナたちが内側から扉を壊したことで、坑道が開通した。
北東の谷は、敵の注意を引く脱出経路として利用された。
南ではダリオス隊が派手に動き、魔王軍本隊を平原へ縛りつけた。
その間に、中央に集めた負傷者と義勇兵から、地下坑道へ入った。
負傷者。
水。
食料。
徒歩兵。
弓兵。
槍兵。
最後に騎兵。
一度に全員は通れない。
だから順番を決め、名前を確認し、誰かが遅れれば前の者も止まった。
敵が異変へ気づいたころには、平原の中央に残っていたのは、俺の旗が立つ大量の空の天幕だけだった。
最後に戻ってきたのは、ダリオス侯爵だった。
「全員入りました!」
坑道の入口で俺が叫ぶと、侯爵は泥だらけの顔で馬から降りた。
「人数は」
「確認中です!」
「全員帰る作戦ではなかったのか!」
「八千人を一度に数えられません!」
「役に立たん勇者だ!」
「勇者ではないと言ったでしょう!」
言い争いながら坑道へ入った。
直後、魔王軍の魔導砲が平原へ撃ち込まれた。
轟音が地下まで響く。
天井から砂が落ちる。
俺は頭を抱えて伏せた。
ダリオスも伏せた。
目が合った。
「今のは作戦か」
「反射です」
「分かっている」
侯爵は初めて、少しだけ笑った。
帰還作戦で失った者は、ゼロではなかった。
平原で亡くなった者。
重傷が悪化した者。
最後尾で魔王軍を止め、坑道へ戻れなかった者。
俺たちは、全員で帰ることを目指した。
それでも、帰れなかった人はいた。
だから、誰一人失わなかった奇跡の撤退として、オラクル網へ流すことは許さなかった。
亡くなった人数も。
失敗した命令も。
俺が無能力であることも。
全て、そのまま記録させた。
王都へ戻った後、ベルド宰相補佐が編集させた映像と、魔王軍に奪われた中継塔の記録が発見された。
ベルドは職務を停止され、国王府の調査を受けることになった。
彼は最後まで言った。
戦時下の王国には英雄が必要だった。
自分は国をまとめようとしただけだ、と。
嘘ではないのだろう。
だからこそ、厄介だった。
善意や責任感があれば、事実を変えてもよいわけではない。
遠征軍は解散された。
全軍での魔王領侵攻も中止。
代わりに、王国と灰牙族、国境の都市が協力し、避難と防衛を優先することになった。
そして俺たちは、魔王を倒す方法を調べた。
デルネ砦の地下で見つかった記録。
灰牙族が保管していた古い地図。
魔王軍の捕虜から聞いた話。
ミレイユが王国の秘匿文書から発見した資料。
それらをつなげた結果、魔王グラウゼルの力は、魔王城の地下にある世界核から供給されていると判明した。
どれだけ傷つけても、供給路が生きている限り、魔王は回復する。
軍を率いて正面から攻めても、勝てない。
必要なのは、大軍ではなかった。
魔王城へ少人数で入り、世界核との接続を切ること。
俺は反対した。
もちろん反対した。
少人数で魔王城へ入るなど、大人数で入るより怖い。
だが、誰かを行かせれば、その誰かが危険になる。
そして接続装置の近くには、強い魔力へ反応する監視術式がある。
魔力を持つ者ほど発見されやすい。
つまり、魔力がまったくない俺が最も適していた。
無能力が最強なのではない。
今回は、敵の設備が特定の検知方法へ依存していたというだけだ。
普通の目で見られれば発見される。
普通の剣で刺されれば死ぬ。
普通に転べば痛い。
それでも、俺が行くしかなかった。
同行者は、セレナ、ミレイユ、ガルド。
そしてエルナ。
エルナは、加工されていない記録を王国へ届けるため、自ら同行を申し出た。
「戦えませんよね」
出発前、俺は確認した。
「はい」
「足は速いですか」
「普通です」
「危険を察知できますか」
「勇者様ほどでは」
「俺に察知能力はありません」
「では、私より少し得意です」
「帰りませんか」
「帰りません」
戦えない人間が二人に増えた。
不安も二倍になった。
俺たちは、デルネ砦の地下で見つけた整備通路を通り、世界核の導管に沿って北へ進んだ。
古い通路は魔王領の岩山の下まで続き、三日後、魔王城の地下へ到達した。
そして現在。
俺は魔王城の自動扉に挟まれていた。
「開けてください!」
「動かないでください!」
ミレイユが扉の横にある魔力盤へ手を当てる。
黒い石でできた二枚の扉が、俺の腰を左右から締めつけていた。
「どうして俺だけ!」
「魔力認証が、あなたを人間として認識していません!」
「人間です!」
「設備へ言ってください!」
「誰が作ったんですか、これ!」
魔王城へ入ってから、同じことの繰り返しだった。
セレナが扉へ近づく。
魔力盤が青く光る。
扉が開く。
セレナが通る。
ガルドが通る。
ミレイユが通る。
エルナが通る。
最後に俺が近づく。
扉が閉まる。
俺は存在しないものとして扱われていた。
一度目は、目の前で閉じた。
二度目は、鼻先をぶつけた。
三度目は、閉じる前に飛び込もうとして足を挟まれた。
そして今回は、腰だった。
「魔王城がトオルを拒絶している」
ガルドが言う。
「笑い事ではありません」
「笑っていない」
獣人の顔は分かりにくい。
だが耳が少し揺れていた。
絶対に笑っている。
「開きました」
ミレイユが術式を解除する。
扉が左右へ戻る。
俺は床へ転がった。
「もう全部、手動で開けませんか」
「そのたびに警報術式を解除する必要があります」
「俺が一人で先に進めば?」
「扉が開きません」
「では、誰かと一緒に」
「入るときは可能です。出るときに、あなたの存在を数えないまま閉じます」
「完全に荷物扱いですね」
「荷物には運搬用の認証があります」
「荷物以下ですか」
セレナが扉の間へ剣の鞘を挟んだ。
「これで閉じません」
「最初からそうしてください」
「設備を壊さず進めると思ったので」
「俺の腰より設備を優先しないでください」
魔王城の内部は、想像していたものと少し違った。
もっと暗く、血や骨が並び、怪物がうろついていると思っていた。
実際には、黒い石壁と銀色の柱で作られた、巨大な施設だった。
床には魔力を運ぶ線が走り、壁面には各階の地図。
扉は自動。
照明も自動。
昇降機まである。
ただし、全て魔力認証だった。
俺が一人になると、照明が消えた。
廊下を歩いても、足元すら光らない。
「待ってください!」
先を行く仲間へ声をかける。
「ここです」
ミレイユの光魔法が戻ってくる。
「見えません!」
「あなたの周囲だけ、照明が反応していません」
「分かっています!」
利点もあった。
魔力を感知する警報は、俺へ反応しない。
見張り用の魔導像も、俺を敵として認識しない。
通路の中央に立っても、警戒光が点灯しなかった。
だが利点だけではない。
床が動いて運ぶ設備は、俺を乗員として認識せず、勝手に停止した。
水を出す設備も動かない。
案内板へ触れても、文字が表示されない。
一番困ったのは、便所の扉だった。
「二度と魔王城には来ません」
俺は固く誓った。
「最初から二度来る予定はありません」
ミレイユが答える。
「今回も来たくありませんでした」
「知っています」
地下第三層へ入ると、警備が増えた。
ガルドが先行する。
角を曲がる前に止まり、床へ耳を当てる。
「六人」
「魔導人形ですか」
「魔族。足音が違う」
セレナが剣へ手を置く。
「私が引きつけます」
「戦わずに通れませんか」
「通路は一つです」
「別の道を探しましょう」
「時間がありません」
魔王軍は、俺たちの侵入にまだ気づいていない。
だが、デルネ砦の地下から入った痕跡はいずれ発見される。
その前に接続装置へ到達しなければならない。
「トオル」
ミレイユが壁の地図を示す。
「この先に、資材搬送路があります」
「俺には地図が見えません」
魔力表示なので、俺が触れると消える。
「ここから右へ二つ。下層へ続く昇降機です」
「昇降機は俺を認識しませんよね」
「一緒に乗れば動きます」
「また途中で止まりませんか」
「可能性はあります」
「階段は?」
「ありません」
「設計した人を呼んでください」
「魔王城の建設者は、百年以上前に亡くなっています」
「では文句も言えない」
ガルドが警備兵の位置を確認する。
セレナが廊下へ小石を投げた。
音に反応し、警備兵の一部が移動する。
残った兵の背後へ、ミレイユが眠りの霧を流した。
全員を眠らせるには魔力が足りない。
だが視界を奪うだけならできる。
「今です」
セレナが先へ出る。
剣の柄で一人を気絶させ、盾で別の兵を押し倒す。
ガルドが残りの武器を蹴り飛ばす。
俺とエルナは、その間を走る。
「右へ二つ!」
ミレイユの声。
一つ目の扉。
セレナが通る。
ガルド。
エルナ。
俺。
閉じかける扉をミレイユが杖で止める。
「次!」
二つ目。
同じように全員で通る。
後方で警報が鳴った。
「見つかりました!」
「昇降機へ!」
銀色の箱へ飛び込む。
壁に並ぶ魔力盤。
ミレイユが地下六層を選ぶ。
扉が閉じる。
箱が下へ動き始めた。
十秒後。
止まった。
「やっぱり!」
「重量と乗員数が一致しないと判断されています!」
「俺を数えていないからですか!」
「はい!」
「荷物として登録できませんか!」
「試します!」
ミレイユが操作盤を触る。
文字が次々と変わる。
「荷物の種類を選べと」
「人間で!」
「項目にありません!」
「何があります!」
「武器、食料、鉱石、魔獣素材、廃棄物」
「一番近いのは?」
全員が俺を見る。
「人間です!」
「項目にない」
ガルドが繰り返す。
「廃棄物へ登録します」
ミレイユが冷静に言った。
「待ってください!」
「時間がありません」
操作盤が光る。
昇降機が再び動き始めた。
表示板へ文字が浮かぶ。
俺には読めない。
「何と書いてあります?」
エルナが申し訳なさそうに答える。
「廃棄物一個、地下六層へ搬送中」
「帰ったら絶対に記録から消してください」
「無編集が条件です」
「そこだけ編集してください!」
昇降機の上から金属音が響いた。
追手が扉をこじ開けようとしている。
「急いで!」
「設備へ言ってください!」
箱が地下六層へ到着する。
扉が開く。
俺たちは飛び出した。
俺が最後に出た瞬間、昇降機の壁から赤い光が伸びる。
「廃棄物処理場は反対方向です」
エルナが表示を読む。
「案内しなくていい!」
地下六層は、これまでの階と違った。
空気が熱い。
床の下から、巨大な心臓の鼓動のような振動が伝わってくる。
壁を走る銀色の線は太くなり、すべて北側の大広間へ集まっていた。
「世界核が近い」
ミレイユが呟く。
額に汗が浮かんでいる。
「魔力が濃すぎます」
「俺には何も感じません」
「でしょうね」
「少しくらい感じたほうがいいですか」
「感じないほうが安全です」
セレナが前方を警戒する。
「ミレイユ、あとどれくらいです」
「接続装置まで、直線なら三百歩ほど」
「直線では?」
「壁があります」
「また扉ですか」
「複数」
「帰りたくなってきました」
「最初からでしょう」
大広間の手前には、記録管理室があった。
壁一面に魔晶板が並び、世界核から送られる魔力の量、各地域への配分、環境変化が記録されている。
ミレイユが一枚の板へ触れた。
顔色が変わる。
「どうしました」
「王国側への供給量です」
表示された図には、世界核を中心に無数の導管が伸びている。
南。
アルディア王国。
王都。
砦。
魔術学院。
貴族領。
街灯。
暖房。
工房。
巨大な量の魔力が、何十年も南へ吸い上げられていた。
一方、北の魔族領へ流れる魔力は、年々減っている。
「これほどとは」
ミレイユの声が震えた。
「王国の記録では、使用量は世界核の自然回復量を超えていないと」
「実際は?」
「計算方法が違う」
彼女は別の記録を開く。
「王国は、核そのものの魔力量だけを見ています。周辺の土地へ循環する分を、回復量として数えていない」
「つまり」
「王国が使うほど、世界核の周囲から魔力が失われる」
記録には、魔族領で起きた変化も残っていた。
森の枯死。
水源の縮小。
魔獣の凶暴化。
農地の砂漠化。
病気。
移住。
餓死者。
灰牙族の川が止められたのも、補給路のためだけではない。
魔王軍は、水を確保するため、流れを変え続けていた。
「王国は知っていたんですか」
「少なくとも、一部は」
ミレイユが古い命令書を開く。
魔力採取量の増加。
北方環境調査の非公開。
世界核を無主の資源として扱うための歴史記録修正。
王国にとって都合の悪い事実が、何十年も隠されていた。
エルナが記録用魔晶石を握る。
「これを、全て届けます」
「編集せずに」
「はい」
彼女の指が震えていた。
「私たちは、勇者様の言葉だけではなく、国の歴史まで、分かりやすい物語へ変えていたのですね」
「エルナさん一人の責任ではありません」
「ですが、知らなかったでは済みません」
「知らなかったことと、知ろうとしなかったことは違います」
自分に向けた言葉でもあった。
ミレイユは記録を次々と複製する。
「王国側に責任があります」
セレナが言う。
「はい」
ミレイユが答える。
「ですが、魔王が民間人を襲い、都市を焼いた事実も消えません」
「事情があれば、何をしても許されるわけではない」
俺は記録を見た。
「どちらか一方だけが、完全な悪ではないんですね」
「戦争は、そういうものかもしれません」
エルナが言う。
「だからこそ、英雄と魔王だけの物語へしてはいけなかった」
遠くで警報が鳴った。
今度は俺たちの侵入が完全に発見されたらしい。
「記録は取りました!」
「先へ進みます!」
接続装置の大広間へ向かう。
途中の廊下で、床が激しく揺れた。
天井の一部が崩れる。
「止まって!」
俺は声を上げた。
前方の床へ、細いひびが走っている。
ひびは壁際から中央へ向かい、不自然な四角形を描いていた。
「落とし穴です」
ガルドが石を投げる。
床が崩れ、深い縦穴が現れた。
底は見えない。
「魔力式ではありませんね」
ミレイユが言う。
「普通の罠です」
「俺にも反応しますね」
「喜ぶところではありません」
幅は五メートルほど。
セレナなら跳べる。
ガルドも。
ミレイユは風魔法で渡れる。
エルナは無理。
俺はもっと無理。
「残ってください」
セレナが言う。
「向こう側から橋を作ります」
「追手が来ます」
「私が残ります」
「誰も残さない約束です」
「では、どうします」
壁を見る。
銀色の魔力線が通っている。
天井には、資材を運ぶためのレール。
途中に吊り下げられた金属箱。
「ガルドさん、あの箱の固定具を外せますか」
「できる」
「ミレイユさんは、落ちる方向を変えられます?」
「少しなら」
「セレナさん、箱が落ちたら押してください」
「分かりました」
ガルドが壁を登る。
固定具を短剣で外す。
金属箱がレールから落ちる。
ミレイユの風が軌道を変える。
箱は穴の途中へ引っかかった。
セレナが剣の腹で押し、反対側へ橋のように渡す。
「行けます!」
全員が金属箱の上を渡る。
俺は中央で下を見た。
「見ないでください」
ミレイユが前から言う。
「もう見ました」
「では、落ちないでください」
「その助言は渡る前に欲しかったです」
背後から追手の足音が近づく。
最後にセレナが渡り、金属箱を蹴り落とした。
即席の橋が縦穴へ消える。
追手は穴の向こうで止まった。
「成功です」
セレナが言う。
「帰り道も消えましたけど」
「別の退路を探します」
「先に言ってください!」
だが、不思議と以前ほど不安ではなかった。
セレナが戦う。
ガルドが道を探す。
ミレイユが術式を読む。
エルナが記録を守る。
俺は危険を見つけ、止まる理由を口にする。
誰か一人が、全てを解決しようとしていない。
互いの仕事を信じ、できないことを任せている。
俺が勇者でなくても、この一行は動く。
その事実が、怖さを少しだけ軽くした。
接続装置の大広間へ続く最後の扉へ到着する。
これまでで最も巨大な扉だった。
左右の壁には、魔王グラウゼルの紋章。
中央には、手のひらを置く認証盤。
ミレイユが近づく。
盤が赤く光った。
「敵対者として認識されました」
警報が鳴る。
「触らなくてもよかったのでは?」
「内部構造を調べる必要がありました」
ガルドが認証盤を調べる。
「壊せる」
「壊したら扉は?」
「閉じたままになる」
「意味がないですね」
セレナが剣を構える。
「切ります」
「扉の厚さは?」
「分かりません」
「やめましょう」
俺は認証盤へ近づいた。
盤は反応しない。
赤くも青くもならない。
ただの黒い石のまま。
「俺が触っても?」
「何も起きないでしょう」
「扉も開かない?」
「おそらく」
手を置く。
何も起きない。
「ですよね」
手を離そうとしたとき。
石盤が僅かに沈んだ。
魔力ではなく、物理的な動き。
「待ってください」
もう一度押す。
盤が奥へ動く。
中から金属音。
壁の一部が開き、赤い取っ手が現れた。
「何ですか、これ」
ミレイユが記された文字を読む。
「緊急時手動開放装置」
「普通にあるんですか」
「魔力系統が停止した場合に備えたものです」
「最初から手動で開ければよかったのでは?」
「通常は認証盤の奥に隠されています」
「俺が魔力を流さず押したから?」
「設備が、魔力系統の停止と誤認したようです」
赤い取っ手を引く。
重い。
セレナとガルドが加わる。
三人で引く。
扉の奥から巨大な歯車の音が響く。
少しずつ開いていく。
「やっと、無能力が役立ちましたね」
エルナが言う。
「押しただけです」
「勇者様にしかできないことです」
「魔力を切れば誰でもできます」
「今ここで可能なのは勇者様だけです」
「限定条件を増やして特別扱いしないでください」
扉の隙間から、強い風が吹いた。
熱い。
魔力を感じない俺でも、皮膚が震えるほどの圧力。
大広間の中央には、巨大な光の柱が立っていた。
青と黒が混ざり合う光。
その周囲を、何十本もの金属管と魔力導管が取り囲んでいる。
世界核との接続装置。
そして光の前に、一人の男が立っていた。
黒い髪。
赤い目。
人間と変わらない姿。
だが、その背後に揺れる魔力は、部屋そのものを歪ませている。
魔王グラウゼル。
「遅かったな」
魔王は静かに言った。
セレナが俺の前へ出る。
ミレイユが杖を構える。
ガルドは退路を確認する。
エルナは記録用魔晶石を起動した。
「来ることは分かっていたんですか」
俺は尋ねた。
「貴様が来ることは」
魔王の赤い目が俺を捉える。
「だが、どのように来るかは読めなかった」
「では、帰っても?」
「帰すと思うか」
「一応、聞きました」
魔王は僅かに笑う。
「空白の勇者。いや、無能力者トオル」
俺が無能力であることを知っている。
驚くべきなのだろう。
だが、今さらだった。
「貴様へ提案がある」
「断ります」
「まだ何も言っていない」
「安全な提案ではなさそうなので」
「安全を与える提案だ」
魔王は手を広げる。
「王国を捨て、我が側へ来い」
大広間の光が揺れる。
「地位を与える。住む場所も、食料も、護衛も。誰も貴様へ戦いを求めぬ」
俺がずっと欲しかったもの。
安全な場所。
責任を負わない生活。
期待されない立場。
「王国は貴様を利用した」
魔王の声が静かに響く。
「嘘の英雄へ仕立て、名声で兵を動かし、真実を知れば責任だけを押しつける」
否定できない部分がある。
「それでも、王国を守るのか」
魔王は俺の仲間たちを見る。
「この者たちを捨てれば、貴様だけは確実に生かそう」
赤い目が、俺だけを見た。
「勇者である必要もない」
甘い言葉だった。
「何も背負わず、ここで生きろ」
かつての俺なら、迷わなかったかもしれない。
誰にも期待されず、安全に暮らす。
それこそ、異世界へ来てからずっと望んでいたことだった。




