第11章 勇者ではない男の選択
魔王の提案は、あまりにも魅力的だった。
王国を捨てる。
仲間を置いていく。
その代わり、安全な場所で、誰にも期待されずに暮らす。
俺が異世界へ来てから望み続けてきたものが、目の前に差し出されている。
「働かなくてもいいんですか」
口から出た。
セレナが振り返る。
「トオル?」
「確認です」
魔王グラウゼルは、僅かに目を細めた。
「望むなら、何もせず暮らせる」
「食事は」
「望むものを用意しよう」
「住居は」
「城内の一角を与える」
「魔力認証の扉ではない部屋でお願いします」
魔王が初めて困惑した顔をした。
「……善処する」
「善処では不安です」
「今、確認する部分ですか」
ミレイユが低い声で言う。
「大事です。ここへ来てから扉に四回挟まれています」
「三回です」
「腰を挟まれた分を軽く数えないでください」
魔王の眉間に皺が寄る。
こちらの意図を読もうとしているのだろう。
だが、俺は本当に住居条件を確認していただけだ。
「他には」
魔王が尋ねた。
「戦わなくてもいいんですよね」
「約束しよう」
「責任ある役職にも就かない」
「望まぬ限りは」
「俺の言葉を勝手に編集しない」
「王国のような真似はせぬ」
「最後に」
俺は魔王の後ろにある世界核接続装置を見た。
「仲間はどうなりますか」
「殺す」
即答だった。
「王国軍は」
「降伏するなら生かす。抵抗すれば滅ぼす」
「民間人は」
「世界核を返し、我が支配を受け入れるならば、無用な殺戮はしない」
「受け入れなければ」
「王国が選んだ結果だ」
魔王は何の迷いもなく答える。
その言葉を聞いて、不思議なくらい気持ちが冷めた。
安全な部屋。
食事。
仕事なし。
ずっと欲しかった。
だが、その部屋の外で、俺をここまで連れてきた仲間が殺される。
王国の民が、魔王の命令へ従うか死ぬかを選ばされる。
そんな場所を、安全とは呼べない。
「お断りします」
俺は言った。
魔王の赤い目が細くなる。
「理由を聞こう」
「条件が悪いです」
「貴様一人の安全は保証した」
「俺一人しか安全ではない」
「それで十分ではないのか」
「少し前までなら、十分だったかもしれません」
逃げたい。
責任を負いたくない。
誰にも期待されたくない。
今も、その気持ちは消えていない。
「でも、一人で安全な場所にいても、外で誰かが死ぬと知っていたら落ち着けません」
「弱者が、全てを救えるとでも?」
「思っていません」
「ならば、何人かを捨てることは避けられぬ」
「そうかもしれません」
今日までに、実際に多くの人が死んだ。
全員を救うと言いながら、救えなかった。
「それでも、最初から捨てる人間を決めるのは嫌です」
「感情論だ」
「はい」
魔王の魔力が、大広間の空気を震わせる。
「王国は世界核を奪った」
「記録を見ました」
「我が民は土地を失い、飢え、病に倒れた」
「それも」
「それでも王国を選ぶか」
「王国が正しいとは言っていません」
魔王の顔から、僅かに余裕が消えた。
「世界核の使い方は間違っていた。記録を隠したことも。あなたたちの土地を枯らした責任もあります」
「ならば」
「でも、あなたが王国の町を焼き、関係のない人を殺したことも間違いです」
背後で、エルナの記録用魔晶石が淡く光っている。
この会話は、王国へ送られている。
魔王城の厚い壁と妨害術式のため、届くまで時間がかかるかもしれない。
それでも、加工されていない言葉として残る。
「双方に責任があると」
「はい」
「どちらにも与しないつもりか」
「今は、あなたを止めます」
魔王が笑った。
「力もない貴様が?」
「俺は止める方法を考えるだけです」
「誰が戦う」
「仲間です」
セレナが剣を抜く。
ミレイユが杖を構える。
ガルドが短剣を逆手に持つ。
「平然と他人へ戦わせるのだな」
「はい」
以前なら、後ろめたくて否定したかもしれない。
だが、今は違う。
「セレナさんは、俺より強い。ミレイユさんは、俺より魔法に詳しい。ガルドさんは、俺より敵の動きを読める」
「自らは何もせぬと」
「できないことを、できるふりはしません」
俺は魔王を見た。
「でも、何を頼むかは決めます」
セレナが僅かに笑った。
「命令を」
「魔王を倒す必要はありません。接続装置から離してください」
「承知しました」
「ミレイユさんは、装置の停止方法を」
「すでに調べています」
「ガルドさんは」
「退路と増援」
「お願いします」
「エルナさん」
「はい」
「何が起きても、記録を止めないでください」
エルナは魔晶石を強く握る。
「加工せず、全て届けます」
「俺は」
自分の役割を口にする。
「手動停止装置を探します」
「そこへ近づけると思うか」
魔王が片手を上げた。
床を走る魔力線が、一斉に赤く染まる。
光の柱から、黒い炎が噴き出した。
セレナが俺の前へ盾を構える。
「散開!」
黒炎が大広間を横切る。
盾へ当たった瞬間、銀色の表面が赤く焼けた。
セレナは歯を食いしばり、炎の軌道を逸らす。
「トオル、右へ!」
ミレイユの声。
俺は走った。
足元の床が隆起する。
黒い石の槍が飛び出した。
避けきれない。
ガルドが俺の襟をつかみ、横へ投げる。
床を転がった。
「ありがとうございます!」
「立て!」
立つ。
走る。
接続装置は大広間の中央。
魔王はその前。
手動停止装置がどこにあるかは分からない。
だが、魔王城の設備には共通点があった。
魔力が止まった場合に備え、物理的な操作系統が隠されている。
自動扉の認証盤。
昇降機の緊急停止。
大広間の扉。
全て、通常の魔力盤の奥に手動装置があった。
接続装置にもあるはずだ。
「ミレイユさん! 魔力盤は!」
「光柱の周囲に八つ!」
「全部ですか!」
「制御を分散しています!」
「一つずつ押す時間は?」
「ありません!」
魔王が腕を振る。
大広間の上空に、何十本もの黒い槍が現れた。
セレナが魔王へ走る。
銀の剣が閃く。
魔王は片手で受け止めた。
魔力の壁と剣がぶつかり、衝撃が床を走る。
ガルドが側面から飛び込む。
短剣が魔王の肩へ触れる直前、黒い鎖が床から伸びた。
ガルドは空中で体をひねる。
鎖を一本避ける。
二本目が足へ絡む。
「ガルド!」
セレナが鎖を切る。
その隙に、魔王の拳が盾へ当たった。
セレナの体が吹き飛ぶ。
床を滑り、柱へ激突した。
「セレナさん!」
「行ってください!」
彼女はすぐに立ち上がった。
口元から血が流れている。
「私の役目は、魔王を離すことです!」
怖い。
このまま戦わせれば、死ぬかもしれない。
止めたい。
逃げろと言いたい。
だが、俺が止まれば、全てが無駄になる。
「死なないでください!」
「努力します!」
セレナは再び前へ出る。
以前なら、それ以上言えなかった。
今は続ける。
「危なくなったら退いてください! 魔王を倒す必要はありません!」
「はい!」
「俺が装置へ着くまででいい!」
「任せてください!」
任せる。
怖いまま。
信じる。
俺は接続装置の外周へ走った。
一つ目の制御盤。
手を置く。
反応しない。
強く押す。
沈まない。
「開きません!」
「魔力が流れているためです!」
ミレイユが装置の魔力線へ杖を向ける。
青い光が走る。
一本目の制御盤につながる線が凍結した。
「今です!」
押す。
盤が沈む。
奥から赤い取っ手。
「ありました!」
「同じものが八つです!」
「八つ!」
「接続装置を同時に停止する構造です!」
「一人では無理です!」
「順番に固定してください!」
取っ手を引く。
途中で手を離せば戻る。
固定具が必要だ。
周囲を見る。
何もない。
俺は首から空白大勲章を外した。
重い銀板を取っ手の隙間へ差し込む。
取っ手が戻らなくなる。
「王国最高位の勲章が!」
エルナが叫ぶ。
「初めて役立ちました!」
二つ目へ走る。
ミレイユが魔力線を止める。
盤を押す。
取っ手を引く。
「固定するものがありません!」
「これを!」
エルナが記録官の杖を投げた。
「記録は!」
「魔晶石だけで続けられます!」
杖を挟む。
二つ目。
三つ目は、ガルドの予備の短剣。
四つ目は、セレナの鞘。
「剣は」
「手にあります!」
五つ目へ向かう。
魔王がこちらへ顔を向けた。
「止めさせるか!」
黒い光が飛ぶ。
ミレイユが防壁を張る。
光が防壁を貫き、彼女の左肩をかすめた。
「ミレイユさん!」
「止まらないで!」
彼女は倒れない。
血が外套を染める。
それでも魔力線を凍らせ続ける。
「あと四つです!」
「分かっています!」
五つ目。
固定具がない。
俺は上着の革帯を外し、取っ手と柱を結ぶ。
六つ目。
靴紐を使う。
片方の靴が脱げそうになる。
「こんなことで世界を救うんですか!」
「手段を選んでいる場合ですか!」
ミレイユに怒鳴られる。
七つ目。
固定できる物が本当にない。
俺は周囲を見る。
床に、セレナの盾の破片。
拾い上げ、取っ手へ挟む。
残り一つ。
最後の制御盤は、魔王の背後だった。
最も光柱に近い。
魔王の魔力が集中している。
セレナとガルドは、すでに何度も吹き飛ばされている。
ミレイユの防壁も薄い。
俺が近づける距離ではない。
「ここまでだ」
魔王がセレナの剣を弾く。
黒い衝撃波。
セレナとガルドが同時に倒れる。
魔王は振り返り、俺を見る。
「七つを止めても、最後の一つが残れば供給は続く」
光柱は弱くなっている。
だが消えていない。
魔王の背後で、最後の制御盤が赤く光っている。
「貴様は、必ず一つ足りぬ」
魔王が歩み寄る。
「力も」
一歩。
「覚悟も」
一歩。
「犠牲を選ぶ冷酷さも」
俺は後退する。
足元に、脱げかけた靴。
背後は壁。
逃げ道はない。
「誰も捨てぬと言いながら、仲間を戦わせ、自らは装置を触るだけ」
「はい」
「それを勇者と呼ぶのか」
「呼びません」
「ならば、何者だ」
「危機管理担当です」
魔王が止まった。
「……何だと」
「危険を見つけて、担当できる人へ仕事を分けて、失敗したときの退路を考える仕事です」
「くだらぬ」
「俺もそう思っていました」
前世では、誰かが事故を防いでも評価されなかった。
何も起きなければ、何もしていないと思われる。
問題を指摘すれば、臆病だと言われる。
逃げ道を作れば、弱気だと言われる。
「でも、今は必要です」
「最後の装置へは、私を越えねば届かぬ」
「分かっています」
「貴様に戦う力はない」
「知っています」
「では、どうする」
俺にも分からない。
魔王の背後へ行く方法。
セレナたちは倒れている。
ミレイユは負傷。
ガルドは立ち上がろうとしているが、足が動いていない。
エルナは記録を続けている。
俺一人では何もできない。
だが、俺一人である必要はない。
「エルナさん」
「はい!」
「記録は、今どこまで届いていますか」
「王国側の中継へ接続しました! 不安定ですが、音声は送れています!」
「王国軍にも?」
「はい!」
「魔王軍の通信系統には」
エルナが理解した。
「接続できます」
「何をするつもりだ」
魔王が初めて警戒する。
「全員に話します」
「何を」
「本当のことを」
俺はエルナの魔晶石へ向き直る。
「つないでください」
「今ですか」
「今です」
エルナが魔晶石へ祈りを込める。
光が大広間を満たす。
王国の紋章。
灰牙族の中継印。
国境軍の通信。
魔王軍の魔力網。
複数の信号が混ざり合う。
『接続しました』
エルナの声が震える。
『王国全土、および魔王軍の一部通信網へ、中継されています』
魔王が手を上げる。
黒い光がエルナへ向く。
「セレナさん!」
俺が叫ぶ。
倒れていたセレナが、最後の力で盾を投げた。
盾が黒い光を受け、砕ける。
エルナは倒れなかった。
中継も切れない。
「俺は、佐倉透です」
自分の声が、大広間へ響く。
王国へ。
魔王領へ。
戦場へ。
自分の名前を掲げた全ての場所へ。
「異世界から召喚され、勇者と呼ばれてきました」
魔王がこちらへ迫る。
「ですが、俺には何の能力もありません」
今度は誰にも止めさせない。
編集もさせない。
「魔力はない。剣も使えない。神の加護もない。鑑定晶は最初から壊れていました」
魔王の足が止まらない。
俺は続ける。
「これまでの勝利は、仲間の力です。俺一人が成し遂げたものではありません」
『勇者様』
どこかの通信から声が入る。
兵士の声。
民衆の声。
雑音が混ざる。
「俺を信じて戦った人が死にました」
平原で倒れた兵士を思い出す。
「俺は何度も否定しました。でも、伝わらないことを理由に諦めた。勇者として守られる立場へ逃げた。その責任があります」
魔王が腕を振る。
ガルドが床から飛びつき、その腕へしがみつく。
「離せ!」
「今だ、トオル!」
「まだです!」
今、走っても最後の制御盤へは届かない。
魔王はすぐにガルドを振りほどく。
もう一つ必要だ。
「王国は世界核の魔力を奪い、魔族領の土地を枯らしていました」
王国側の通信がざわめく。
「その記録も隠していました。王国に責任があります」
セレナが顔を上げる。
ミレイユも。
「ですが、魔王軍が民間人を襲い、町を焼いたことも事実です。魔族の被害は、王国の人々を殺す理由にはなりません」
今度は魔王軍側の通信が揺れる。
『陛下』
誰かの声。
『世界核の記録は、本当なのですか』
魔王の顔が変わる。
「通信を切れ!」
大広間の制御盤が反応する。
だが七つが止まっているため、妨害術式が動かない。
「俺は勇者ではありません」
俺は言った。
「だから、俺の言葉を信じろとは言いません」
通信の向こうが静かになる。
「自分で見てください。記録を確認してください。命令を出した人へ質問してください」
魔王がこちらへ手を伸ばす。
「どちらの国が正しいか、英雄や魔王に決めさせないでください」
魔王の指先に黒い光が集まる。
「そして今、魔王グラウゼルは世界核の力を使い、戦争を続けようとしています」
「黙れ!」
魔王の魔力が爆発する。
床が割れる。
俺の体が吹き飛ぶ。
背中から壁へぶつかった。
息ができない。
視界が白くなる。
「トオル!」
誰かの声。
床へ落ちる。
腕を動かす。
動く。
足も。
痛い。
だが、生きている。
「最後の接続を止めます」
俺は立ち上がった。
「王国軍も、魔王軍も」
声が震える。
「戦うのを止めてください」
通信の向こうで、最初に応えたのは誰か分からなかった。
『北方第二軍、攻撃を停止する』
王国軍。
『灰牙族、両軍の負傷者を受け入れる』
ヴァルガの声。
『デルネ砦守備隊、魔導砲を停止』
魔王軍側の声も続く。
『第七補給隊、命令の確認を要求する』
『王都防衛軍、世界核関連記録の公開を求める』
『西部魔族軍、民間区への攻撃命令を拒否する』
命令が崩れ始める。
全員が俺を信じたのではない。
俺の言葉をきっかけに、自分で確かめ始めた。
「貴様が!」
魔王の魔力が揺らぐ。
予測できない声が、各地から入ってくる。
兵士。
将校。
神官。
魔族。
獣人。
一人の命令へ従うだけだった者たちが、それぞれ違う判断を始める。
魔王グラウゼルの予測は、合理的な軍隊を読む。
明確な命令。
統一された意図。
魔力の流れ。
殺意の方向。
だが今、戦場の全員が、自分で考えている。
予測すべき未来が、一つではなくなった。
魔王の視線が、通信光へ向いた。
その一瞬。
「セレナさん!」
セレナが立ち上がる。
剣を両手で握り、魔王の横から切り込む。
魔王が防ぐ。
「ミレイユさん!」
ミレイユが残った魔力を全て放つ。
光の鎖が魔王の両腕へ絡む。
「ガルドさん!」
ガルドが足元へ滑り込み、魔王の体勢を崩す。
三人が魔王を接続装置から引き離す。
「行け!」
俺は走った。
最後の制御盤。
魔力線はまだ生きている。
ミレイユに凍らせる力は残っていない。
魔力が流れている限り、盤は押し込めない。
「どうする!」
セレナが叫ぶ。
どうする。
魔力を止められない。
盤を開けない。
最後の取っ手へ届かない。
周囲を見る。
七つの制御盤は、全て物理的に固定されている。
接続装置の魔力は、残った一つへ集中している。
銀色の導管が赤熱していた。
集中しすぎている。
負荷が高い。
「ミレイユさん! 他の七つを、一つだけ戻してください!」
「戻せば供給が増えます!」
「一瞬だけです!」
彼女は迷わなかった。
最も近い制御盤から、靴紐を外す。
一つの取っ手が戻る。
魔力が二つの系統へ分かれる。
最後の盤の赤い光が弱くなる。
「今です!」
俺は盤へ両手を当てる。
押す。
動かない。
もう一度。
全体重をかける。
僅かに沈む。
魔王がこちらを見る。
「やめろ!」
黒い光が飛ぶ。
エルナが俺の前へ出ようとする。
「来ないで!」
セレナが魔王の腕を逸らす。
光は俺の横を通り、壁を砕いた。
盤を押す。
指が痛い。
肩が震える。
最後まで沈んだ。
奥から赤い取っ手が出る。
引く。
動かない。
「重い!」
魔王の魔力が、取っ手を押し戻している。
両手で握る。
足を壁へつける。
引く。
動かない。
セレナたちの力が限界に近づいている。
魔王の黒い炎が膨らむ。
「俺には、力がないんですけど!」
声が出る。
「最後まで、力仕事をさせないでください!」
「トオル!」
ミレイユが走る。
負傷した腕を押さえながら、取っ手へ手をかける。
ガルドも魔王から離れ、加わる。
セレナは一人で魔王を止める。
エルナも魔晶石を片手で抱え、もう片方の手を伸ばす。
「全員で!」
四人で引く。
取っ手が僅かに動く。
魔王がセレナを振り払う。
「止めろ!」
セレナが最後に魔王の足へしがみつく。
「今です!」
「引いています!」
腕がちぎれそうだ。
取っ手が半分。
魔力の光が乱れる。
「あと少し!」
誰の声か分からない。
全員の手が重なる。
一人では動かない。
四人でも足りない。
そこへ、セレナが魔王の足を放し、走ってきた。
「来ないでください! 魔王が!」
「もう予測できていません!」
魔王は立ち上がる。
だが各地から流れ込む通信と、崩れた魔力供給で動きが鈍っている。
セレナが俺たちの後ろへ入り、全員ごと抱えるように取っ手を引いた。
「せーの!」
エルナが叫ぶ。
誰も合わせる余裕はない。
それでも同時に力を込める。
取っ手が最後まで引かれた。
大広間から、音が消えた。
光柱が一瞬だけ細くなる。
次の瞬間。
全ての導管が、暗くなった。
世界核との接続が切れる。
魔王グラウゼルの背後から、黒い魔力が消えた。
大広間の照明も消える。
真っ暗になった。
「見えません!」
俺だけではない。
今回は全員、見えない。
暗闇の中で、魔王の息遣いがする。
「貴様ら……」
魔力を失っても、魔王は強い。
足音が近づく。
「ミレイユさん、光を!」
「魔力が残っていません!」
「エルナさん!」
「記録石の光だけなら!」
小さな白い光が灯る。
その中に、魔王の姿。
先ほどまでの圧倒的な気配はない。
だが、赤い目には怒りが残っている。
「人間一人に」
魔王が剣を抜く。
「私は――」
「一人ではありません」
俺は答えた。
セレナが前へ出る。
折れかけた剣を構える。
ガルドが右へ回る。
ミレイユは床に落ちていた短剣を拾う。
エルナは記録を続ける。
魔王がセレナへ斬りかかる。
剣と剣がぶつかる。
今度は、セレナが押し負けない。
ガルドが魔王の背後へ入り、膝裏を切る。
魔王の体勢が崩れる。
ミレイユが短剣で剣を持つ手を狙う。
魔王は避ける。
セレナの盾がない。
魔法もない。
それでも三人は、互いの動きを見て戦う。
魔王の予測より速く。
一人が攻撃すれば、別の一人が退路を塞ぐ。
一人が下がれば、別の一人が前へ出る。
魔王は強い。
だが、もう無限には回復しない。
剣が肩を裂く。
短剣が脚を傷つける。
拳がセレナへ当たる。
ガルドが代わりに受ける。
「ガルドさん!」
「見るな!」
俺にできること。
周囲を見る。
接続装置が停止したことで、床の圧力が変わっている。
天井の金属枠が軋む。
光柱があった場所から、冷たい風が吹き上がっている。
世界核の空洞。
装置が止まったことで、大広間が崩れ始めている。
「全員、出口へ近づいてください!」
「まだ魔王が!」
「この部屋が崩れます!」
天井から石片が落ちる。
魔王も気づいた。
「貴様らごと、ここで終わらせる!」
魔王がセレナを押し退け、俺へ向かってくる。
俺には剣がない。
逃げる。
大広間の扉へ。
だが扉は、魔力供給が切れて閉じ始めていた。
「また扉!」
最後までこれか。
俺は走る。
魔王が追う。
セレナたちも追う。
扉の隙間が狭くなる。
「先に!」
俺はエルナを押し込む。
次にミレイユ。
ガルド。
セレナ。
俺が最後。
隙間へ体を入れる。
背後から魔王の手が伸びる。
肩をつかまれた。
「トオル!」
セレナが俺の腕を引く。
魔王は反対側から引く。
「痛い! 腕が取れます!」
扉がさらに閉じる。
魔王の腕が挟まれる。
握力が緩む。
セレナたちが一斉に引いた。
俺の体が扉の外へ抜ける。
黒い扉が閉じた。
向こう側で、魔王が扉を叩く。
一度。
二度。
大広間全体が崩れる音。
扉の隙間から、青い光が溢れた。
そして、何も聞こえなくなった。
俺たちは廊下へ倒れ込んだ。
誰も動かない。
息をしている。
全員。
「終わったんですか」
エルナが呟く。
「分かりません」
俺は答えた。
「確認へ戻りますか」
「絶対に嫌です」
ガルドが床へ寝転がったまま言う。
「珍しく、同意する」
セレナが笑う。
ミレイユも、僅かに口元を緩めた。
魔王グラウゼルが完全に死んだかは、まだ分からない。
世界核との接続は切れた。
魔王軍の各地の術式も停止し始めている。
少なくとも、無限の力を持つ魔王ではなくなった。
そして世界核を巡る真実は、王国と魔族領の両方へ届いた。
エルナが魔晶石を確認する。
「中継は続いています」
「全部?」
「最初から最後まで」
「廃棄物として昇降機へ登録された場面も?」
「もちろんです」
「そこは消してください」
「無編集です」
「理念が強くなりすぎています」
俺は床へ仰向けになった。
体中が痛い。
怖かった。
今も、城が崩れる音がするたび、心臓が跳ねる。
それでも、もう一度大広間へ戻ろうとは思わない。
やるべきことは終わった。
「トオル」
ミレイユが隣へ座る。
「あなたは、最後まで能力を得ませんでしたね」
「当然です」
「世界核へ触れれば、何か起きる可能性も考えていました」
「恐ろしいことを黙っていないでください」
「結果として、何も起きなかった」
「設備へ廃棄物扱いされたくらいです」
「それでも、接続を切った」
「皆で引きました」
「はい」
ミレイユは俺の手を見る。
取っ手を引いたせいで、掌の皮が破れている。
「一人ではなかった」
「最初から、そう言っています」
「今度は、それを誇っていいと思います」
俺は答えなかった。
王国へ戻れば、また何か言われる。
無能力で魔王城へ向かった勇者。
仲間の力で魔王を倒した英雄。
伝説は、きっと新しい形へ変わる。
だが今度は、少なくとも隠さない。
俺には力がない。
一人では何もできない。
怖い。
逃げたい。
それでも、誰かを置いて逃げるのが嫌だったから残った。
それだけだ。
遠くで、最後の大きな崩落音が響いた。
魔王城の天井から光が差し込む。
夜明けだった。
エルナの魔晶石から、王都の声が聞こえる。
『魔王軍、各地で停戦を開始』
『王国軍も攻撃を停止』
『世界核の利用について、緊急協議を――』
続けて、別の声。
『勇者トオル、応答を』
国王だった。
俺は魔晶石を受け取る。
「聞こえます」
『無事か』
「一応」
『魔王は』
「接続を切りました。大広間が崩れたので、たぶん」
『たぶん?』
「確認はしていません」
『世界を救ったのだぞ!』
国王の声が震えている。
『そなたこそ、真の勇者だ!』
やはり、そうなる。
俺は目を閉じた。
「陛下」
『何だ』
「俺は勇者ではありません」
少し間が空く。
『……まだ申すか』
「魔王を止めたのは、セレナさんたちです。俺は装置を見つけて、皆と一緒に取っ手を引いただけです」
『それでも』
「勇者という肩書きが必要なら、皆につけてください」
通信の向こうが静かになる。
「兵士にも。記録を届けた人にも。間違った命令を止めた人にも。隣の人を連れて帰った人にも」
平原で、互いの名前を確認しながら坑道へ入った兵士たちを思い出す。
「誰か一人を勇者にすると、また、その人だけを信じる人が出ます」
『では、そなたを何と呼べばよい』
少し考えた。
「佐倉透でお願いします」
『国民は納得せぬぞ』
「そこは国王の仕事です」
『最後に責任を押しつけたな』
「適切な人へ任せました」
通信の向こうで、国王が笑った。
『帰ってこい、トオル殿』
「安全な道を用意してください」
『最初にそれを言うのか』
「最も重要なので」
通信が切れる。
俺たちは立ち上がった。
魔王城から出る。
帰る。
今度こそ全員で。
出口へ向かう途中、また自動扉があった。
魔力供給が切れたため、完全に閉じている。
「手動装置を探します」
俺が認証盤へ近づく。
セレナが笑った。
「お願いします、トオル」
「勇者ではなく?」
「扉係です」
「急に役職が下がりすぎでは?」
「適切な人へ任せました」
自分の言葉を返された。
反論できない。
俺は認証盤を押し込み、奥の赤い取っ手を引いた。




