第12章 魔王討伐後も誤解は終わらない
魔王を倒した英雄が、魔王城から帰還する姿として、俺たちの光景はあまりにも地味だった。
「右、段差があります」
「見えています」
「その先、天井が崩れています」
「見えています」
「では、なぜそちらへ行くんですか」
「左の床にも亀裂があるからです!」
世界核との接続を失った魔王城は、各所で崩壊が始まっていた。
照明は消えた。
自動扉は動かない。
昇降機も止まった。
来たときに使った道の半分は、瓦礫で塞がれている。
俺たちは、エルナの記録用魔晶石が放つ弱い光を頼りに、地下通路を歩いていた。
先頭はガルド。
その後ろにセレナ。
中央に俺とエルナ。
最後尾は、負傷したミレイユ。
「少し休みませんか」
俺は振り返った。
「必要ありません」
「肩から血が出ています」
「止血は済んでいます」
「顔色も悪いです」
「魔力切れです」
「休む理由が三つあります」
「城が崩れているという、休まない理由が一つあります」
「数では勝っています」
「重要度が違います」
正論だった。
俺たちは歩き続けた。
しばらくすると、前方でガルドが止まった。
「出口だ」
岩壁の裂け目から、朝日が差し込んでいる。
外へ出ると、冷たい風が顔へ当たった。
魔王城を囲む黒い山々。
その向こうに、朝焼け。
山道の下には、魔王軍の兵士たちが集まっていた。
数百人。
武器を持っている。
「囲まれていますね」
「そうだな」
ガルドが短剣へ手を置く。
セレナも剣を構えた。
俺は来た道を振り返る。
崩れかけた魔王城。
戻る選択肢はない。
「話し合えませんか」
「相手次第です」
ミレイユが杖を持ち上げる。
魔力は残っていない。
構えだけだ。
兵士たちの中から、一人の魔族が進み出た。
年老いた女性。
片方の角が折れている。
鎧ではなく、灰色の外套を着ていた。
「魔王グラウゼルは」
女性が尋ねる。
「接続装置の大広間に残りました」
俺は答えた。
「大広間は崩れました」
「死んだのか」
「確認はしていません」
魔族たちがざわめく。
「では、生きている可能性がある」
「あります」
「戻って確かめよ」
「嫌です」
即答した。
女性の眉が上がる。
「我らの王を討った者が、最期すら確認せぬと?」
「討ったのは俺ではありません。それに、城が崩れています」
「恐れているのか」
「はい」
兵士たちが再びざわめく。
女性は俺をじっと見た。
「貴様が、空白の勇者か」
「その呼び方は廃止する予定です」
「魔力を持たぬというのは本当か」
「本当です」
「それで、魔王城の最深部へ入り、陛下と世界核の接続を断った」
「皆でやりました」
「我らに、何を要求する」
「道を空けてください」
「それだけか」
「できれば水と、傷薬も」
女性は黙った。
俺は要求を増やしすぎたかもしれない。
「王国へ降伏しろとは言わぬのか」
「俺に決める権限はありません」
「では、世界核を人間へ返せと」
「世界核は誰か一国だけのものではないと思います」
ミレイユが僅かにこちらを見る。
俺は続けた。
「王国が勝手に使い続ければ、また魔族領が枯れます。魔族だけが管理すれば、王国側が困る。灰牙族や、周辺の土地にも影響がある」
「ゆえに」
「関係する人たちで使用量を決めるべきです」
「戦争の勝者が権利を得るのではないのか」
「勝った側が全部取った結果、今の戦争になったんでしょう」
女性の折れた角へ朝日が当たる。
「貴様は、王国の代表ではないのか」
「違います」
「勇者でもない」
「違います」
「将軍でも、外交官でもない」
「はい」
「何者だ」
「帰宅途中の一般人です」
後ろで、エルナが小さく吹き出した。
女性は笑わなかった。
だが、構えていた兵士たちへ手を下ろす。
「武器を収めよ」
魔族たちが戸惑いながら従う。
「なぜです」
俺は尋ねた。
「我らは昨夜、全軍へ届いた記録を聞いた」
女性が答える。
「陛下が世界核を戦争へ利用したことも。人間の王国が、長年魔力を奪っていたことも」
兵士たちの顔には、怒りと疲労があった。
「どちらか一方の物語だけを信じるなと、貴様は言った」
「俺の言葉も信じろとは言っていません」
「だから、自分たちで確認した」
女性は山道の下を示す。
魔族の兵士たちの間に、魔晶板や古い記録書が積まれている。
「城の記録管理室から持ち出した。王国側へ送られたものと同じ内容だ」
「では」
「我らは停戦する」
女性は、魔王城へ一度だけ視線を向けた。
「魔王グラウゼルの命令ではない。我ら自身の判断として」
エルナが記録石を強く握る。
その声を、加工せずに残すために。
「ただし、降伏ではない」
「必要ないと思います」
セレナが剣を収める。
「王国側にも、停戦を守らせます」
「聖騎士の名にかけてか」
「いいえ」
セレナは俺を見た。
「停戦を破れば、自国の誤りを認めず、再び同じ戦争を起こすことになる。王国のためにも、守らせます」
年老いた魔族は頷いた。
「私は魔王軍南部軍団長、ザリナ」
「佐倉透です」
「知っている」
「そうですよね」
「トオル」
ザリナは俺の名前を確かめるように呼んだ。
「我らの陛下を倒しながら、我らを支配せぬ者」
「また妙な呼び名を作るのはやめてください」
「何も名づけておらぬ」
「その言い方は前兆です」
ザリナは初めて、僅かに笑った。
魔王グラウゼルの生死が確認されたのは、その三日後だった。
魔王軍と王国軍から選ばれた合同調査隊が、崩れた大広間へ入った。
グラウゼルは生きていた。
世界核との接続を失い、瓦礫の下で気絶していたらしい。
魔力はほとんど残っておらず、一人で立つこともできなかった。
最初に報告を聞いたとき、俺は言った。
「では、討伐していないのでは?」
エルナは首を横へ振った。
「戦う力を奪い、軍を停戦させ、支配体制を終わらせました。十分に討伐です」
「言葉を広く解釈しないでください」
グラウゼルは王国へ引き渡されなかった。
魔族側の臨時評議会が身柄を拘束し、戦争中の民間人への攻撃命令について裁くことになった。
王国側も、世界核の過剰利用と記録改ざんについて調査を受ける。
互いに、自分たちの罪を自分たちだけで裁けば隠す。
そのため王国、魔族領、灰牙族、国境都市の代表者が参加する合同会議が設けられた。
会議の名前は「世界核共同管理評議会」。
初回の会議だけで十二時間かかった。
俺も出席させられた。
「なぜ俺が」
「接続を止めた当事者だからです」
ミレイユが資料を並べる。
「設備の専門家ではありません」
「手動停止装置を実際に操作した者は、あなたたちだけです」
「全員で引いただけです」
「その説明をするために出席してください」
会議では、魔力の配分量。
土地へ戻す量。
王国の都市が依存している設備。
魔族領の復旧。
灰牙族の水源。
何十年分もの問題が並べられた。
一度に全てを止めれば、王国の病院や水道まで動かなくなる。
使い続ければ、北の土地が回復しない。
誰も満足する答えはなかった。
「使用量を段階的に減らすしかありません」
ミレイユが言う。
「その間、王国は別の動力へ移行する」
「費用は誰が負担する」
王国の貴族が尋ねる。
「これまで利益を得ていた地域です」
「我が領だけではない!」
「では、使用量に応じて負担を分ける」
魔族側の代表者が口を挟む。
「その金で、我らの土地が戻るのか」
「金だけでは戻りません」
灰牙族のヴァルガが答える。
「だが、何もせぬ理由にもならん」
議論は何度も止まった。
怒鳴り声も上がった。
席を立つ者もいた。
そのたびに、俺は言った。
「休憩しませんか」
最初は呆れられた。
だが休憩後は、少しだけ話が進んだ。
二度目から、会議規則へ正式な休憩時間が追加された。
後にエルナは、この出来事をこう記録した。
――勇者トオルは、最も激しい対立の中で、沈黙の時間を与えた。
俺は単に、長時間座って腰が痛かっただけだ。
訂正を求めたところ、彼女は文章を修正した。
――トオルの腰痛を契機として、評議会に定期休憩制度が導入された。
「正確ですが、後世へ残したくないです」
「無編集です」
「少しは編集してください」
「もう騙されません」
エルナは強くなっていた。
方向が極端だった。
魔王討伐から一か月後。
王都で、戦争終結の式典が開かれた。
広場には王国の民だけではなく、魔族や獣人の代表も集まっている。
以前立っていた巨大な俺の木像は、撤去されていた。
俺が頼んだ。
代わりに、別の記念碑が置かれている。
帰還作戦で亡くなった兵士。
魔王軍の攻撃で亡くなった民間人。
世界核の枯渇によって命を失った魔族。
戦争に関わった全ての死者の名前を刻むための碑だ。
俺の名前はない。
生きているから当然だ。
「本当に、勲章を受け取らぬのか」
式典前、国王レオルドが尋ねた。
「以前の勲章は、接続装置に挟んで曲がりました」
「新しいものを用意した」
「要りません」
「今度は軽量だ」
「重さの問題だけではありません」
国王は困った顔をした。
「国民は、そなたへの感謝を形にしたいのだ」
「では、魔王城へ同行した全員に」
「すでに用意している」
「帰還作戦に参加した兵士にも」
「それもだ」
「灰牙族にも」
「交易支援と自治協定がある」
「魔族領の復旧にも」
「王国から資材を送る」
逃げ道が塞がれていく。
「それでも、そなた個人へのものが必要だ」
「なぜです」
「そなたが受け取らなければ、民が落ち着かぬ」
また民意だった。
俺がため息をつくと、国王が小さな箱を開けた。
中に入っていたのは、銀色の鍵。
「何の鍵ですか」
「王都にある家だ」
「家?」
「褒賞として与える」
「仕事はしなくていいんですか」
「まずそこを聞くのか」
「重要です」
「維持費は国が負担する」
「安全な地域ですか」
「王城の西。騎士団詰所と魔術学院の間だ」
安全そうだった。
「扉は自動ですか」
「普通の鍵だ」
「受け取ります」
国王が呆然とする。
「勲章より簡単に受け取ったな」
「家は役に立ちます」
後で知った。
その家は、王国の英雄へ与えられる最高級の邸宅だった。
庭がある。
使用人用の部屋がある。
会議室まである。
俺は一人暮らし用の小さな家を想像していた。
「返却できますか」
「民の感謝です」
また重かった。
式典が始まる。
国王が戦争の終結を宣言する。
王国の責任を認め、世界核の使用を段階的に減らすこと。
魔族領の復旧へ協力すること。
魔族側も、王国への攻撃を停止し、民間人への加害を調査すること。
どちらか一方が勝者として立つ式典ではない。
双方が、自分たちの過ちを公にする式典だった。
ベルド・ラウゼンも、広場の端にいた。
彼は裁判の結果、国王府の職を失った。
個人的な利益のためではなく、王国の士気を守る目的だったことは認められた。
だが、記録改ざんと無許可の軍事宣伝によって、多くの命を危険へさらした責任は免れなかった。
「勇者殿」
式典後、ベルドが俺へ近づいてきた。
「その呼び方は」
「トオル殿」
彼は言い直した。
「私は、今でも王国には象徴が必要だったと考えております」
「そうですか」
「民は複雑な真実に耐えられぬ。敵と味方。正義と悪。勝利と敗北。分かりやすい形がなければ、不安に飲まれる」
「そうかもしれません」
ベルドは少し驚いた顔をした。
「否定なさらぬのか」
「分かりやすい話が必要なときもあります」
「ならば」
「でも、分かりやすくするために、反対の意味へ変えてはいけません」
俺は記念碑を見る。
「不安に耐えられないから嘘を見せる。その嘘を信じて人が死んだら、もっと大きな不安が残ります」
「正しい情報だけで、国をまとめられると?」
「分かりません」
「では」
「分からないことを、分かったことにしない。それだけです」
ベルドは黙った。
「私は、そなたを英雄にした」
「皆が勝手に作りました」
「私が形を与えた」
「迷惑でした」
「だが、その英雄像がなければ、王国は魔王軍へ耐えられなかったかもしれぬ」
「英雄像があったから、八千人が罠へ進みました」
ベルドは記念碑から目を逸らさなかった。
「……その責任は、負う」
「生きて?」
「そなたと同じだ」
彼は自嘲するように笑う。
「死ぬほうが簡単だと、魔術師殿に言われた」
ミレイユらしい。
ベルドは辺境の復旧事業へ送られることになっている。
権限も地位もない立場で、自分が利用した人々の暮らしを立て直す仕事をするらしい。
「今度は、現場を見てください」
「命令か」
「お願いです」
「そなたのお願いは、命令より重い」
「また誤解です」
ベルドは頭を下げ、去っていった。
戦争が終わっても、俺の仕事は終わらなかった。
国王から、新しい役職を提示された。
「王国危機管理顧問?」
書類に書かれた名称を読む。
「そなたの異界での経験を生かしてほしい」
「断ります」
「即答か」
「仕事をしたくありません」
「週に三日」
「多いです」
「二日」
「責任が重いです」
「事故や災害を防ぐため、問題点を指摘するだけでよい」
「指摘しても、誰も聞かなかった経験があります」
「今は聞く」
「本当に?」
「少なくとも、私は聞く」
国王の横で、セレナとミレイユが頷いている。
逃げられそうにない。
「危険だと思ったら、中止を提案していいですか」
「許可する」
「身分に関係なく?」
「許可する」
「俺の意見が絶対になるのは困ります」
「最終判断は担当者が行う」
「記録を残します」
「構わぬ」
「何か起きなかった場合も、仕事をしていないとは言わないでください」
「約束しよう」
条件は悪くなかった。
前世よりずっと。
「一か月だけ試します」
俺は書類へ署名した。
国王は満足そうに頷いた。
翌日の新聞には、こう書かれた。
――魔王を退けた英雄、国の未来を陰から守る永久職へ就任。
「一か月です!」
新聞社へ訂正を求めた。
翌日。
――勇者トオル、一か月で王国の全危機を消すと宣言。
「言ってない!」
エルナが新聞社へ乗り込み、原稿と取材記録を全て確認した。
三日後、正式な訂正記事が出た。
――危機管理顧問トオル氏、試用期間一か月で就任。全危機を消すとの発言は事実ではない。
完璧だった。
だが記事の末尾に、編集部の感想がついていた。
――すでに危機を消す必要すらないほど、先を読んでいる可能性もある。
「感想を載せないでください!」
誤解は、制度だけでは止まらなかった。
新しい家での生活は、思ったより静かだった。
セレナは聖騎士団の再編へ戻った。
今後は、撤退判断と民間人保護を正式な訓練へ加えるらしい。
ガルドは灰牙族と王国の間を行き来している。
時々、何の連絡もなく俺の家へ現れ、食料だけ置いて帰る。
「これは何ですか」
「干し肉」
「何の肉です」
「聞かないほうがいい」
怖くて食べられなかった。
後日、セレナが普通の鹿肉だと確認してくれた。
エルナは独立した記録監査官になった。
王国の公式発表には、元の映像と編集履歴を残す制度が導入された。
彼女は毎日のように俺の発言を確認しに来る。
「昨日、『もう全部終わってほしい』と発言されました」
「仕事が多かったので」
「国家制度の解体を望んだわけではない」
「当然です」
「記録しました」
「それを記録する必要はありますか」
「誤解を防ぐためです」
誤解防止のため、発言量が増えていた。
ミレイユは魔術学院で、無魔力者と世界核の研究を続けている。
俺の体も、定期的に調べられた。
「今日も採血ですか」
「少量です」
「あなたの少量は信用していません」
「魔王討伐後も、魔力回路が生じていないことを確認します」
「生じません」
「世界核へ接近した影響が、遅れて出る可能性は」
「ありません」
「なぜ断言できるのです」
「何も起きない人生だからです」
検査結果は毎回同じ。
魔力なし。
加護なし。
異常なし。
健康状態は、少し腰痛。
「本当に何もありませんね」
ミレイユが測定器を見ながら言う。
「満足しましたか」
「はい」
「そんなにうれしそうに言わないでください」
「あなたが、あなたの言ったとおりだったので」
彼女は測定器を片づける。
「皆に話しても、信じてもらえませんでしたけど」
「今は信じる者が増えています」
「まだ、最強勇者だと思っている人もいます」
「時間が必要です」
「いつか全員に伝わりますか」
「無理でしょう」
正直だった。
「人は、事実だけで物語を作るわけではありません。信じたい形へ変えます」
「では、誤解は終わらない?」
「おそらく」
「困ります」
「全てを制御しようとしないことです」
「俺の名前でまた軍が動いたら?」
「そのときは止めます」
「誰が」
「私が」
ミレイユは迷いなく答えた。
「一人で?」
「あなたも一緒です」
「俺も?」
「あなたの名前でしょう」
「責任が戻ってきた」
「逃げますか」
少し考えた。
「危険なら」
「では、私も一緒に逃げます」
「魔術師なのに?」
「撤退を恥じないのが、あなたの教えでしょう」
「教えた覚えはありません」
「私が学びました」
ミレイユが僅かに笑う。
以前より、笑う回数が増えていた。
「ところで」
彼女は机の上に、二枚の紙を置いた。
「これは?」
「世界核評議会からの招待状です」
「断ります」
「私のものもあります」
「二人で断りましょう」
「会議後に、北の復旧地域を見学する予定です」
「危険では?」
「灰牙族と魔族側の護衛がつきます」
「移動時間は」
「二日」
「宿は」
「温泉地です」
俺は招待状を手に取った。
「行きます」
「判断が早いですね」
「現地確認は重要です」
「温泉ではなく?」
「両方です」
ミレイユは何も言わず、二枚の招待状をまとめた。
その頬が、少しだけ赤く見えた。
夕日のせいかもしれない。
深読みはしないことにした。
魔王討伐から半年後。
俺は王都近郊の学校で、避難訓練を視察していた。
危機管理顧問としての仕事だ。
生徒たちが校庭へ集まる。
教師が人数を確認する。
建物の中に残った者がいないか、班ごとに報告する。
以前なら、こうした訓練は「臆病者の練習」と笑われていたらしい。
今は、王国中の学校や施設で行われている。
「トオル先生!」
子どもが手を上げた。
「先生ではありません」
「魔物が来たら、どうやって倒せばいいですか!」
「倒そうとしないでください」
「でも、勇者様は魔王を倒した!」
「皆で接続装置を止めました」
「じゃあ、魔物の接続装置を探す!」
「普通の魔物にはありません」
「では、どうする!」
「先生の指示を聞いて、安全な場所へ逃げる」
「格好悪い!」
「格好悪くていいです」
子どもたちが笑う。
「逃げた人が、一番早く家へ帰れます」
一人の少女が首を傾げた。
「勇者様も逃げるの?」
「もちろんです」
「一番に?」
「できれば」
「ずるい!」
「危険を知らせてから逃げます」
「では二番!」
「それでお願いします」
訓練は無事に終わった。
生徒も教師も、全員確認。
怪我人なし。
何も起きなかった。
それでよかった。
帰ろうとしたとき、空が暗くなった。
巨大な影が校庭を横切る。
見上げる。
翼。
長い尾。
黒い鱗。
竜だった。
「魔物だ!」
教師が叫ぶ。
子どもたちが騒ぐ。
竜が校舎の屋根へ降りようとしている。
「全員、建物から離れて!」
俺は叫んだ。
「訓練どおり、南門へ! 走らない! 小さい子を先に!」
教師たちが動く。
子どもたちは驚きながらも、さっきと同じ順番で避難する。
人数確認。
校舎内の捜索。
怪我人なし。
俺も逃げようとした。
だが竜は、校庭へ降りた。
目の前。
距離は二十メートル。
「なぜ俺だけ残っているんですか」
避難を誘導している間に、最後になっていた。
竜が口を開く。
炎が来る。
俺は地面へ伏せた。
何も起きない。
恐る恐る顔を上げる。
竜の口から落ちたのは、炎ではなかった。
大きな革袋。
袋の表面には、魔族領の紋章がある。
竜の背中から、配達員らしい魔族が顔を出した。
「世界核評議会から、緊急書類を届けに来た!」
「学校へ竜で降りないでください!」
「着陸場所を間違えた!」
「校庭を目印にしないで!」
避難先から、子どもたちが歓声を上げる。
「勇者様が竜を伏せさせた!」
「地面へ頭を下げただけで!」
「竜が贈り物を置いた!」
「違います!」
竜は俺の声に驚き、翼を広げた。
強い風が起きる。
校庭に立ててあった訓練用の旗が飛ぶ。
旗の棒が、偶然、竜の足元へ転がった。
竜はそれを避けようとして体勢を崩し、腹ばいになった。
子どもたちの歓声がさらに大きくなる。
「ひれ伏した!」
「勇者様に降伏した!」
「違う!」
エルナの記録鳥が、どこからともなく飛んでくる。
「なぜいるんですか!」
鳥は校庭の上空を一周し、今の光景を記録した。
俺が伏せる。
竜も伏せる。
その間に、子どもたちは全員避難している。
嫌な予感がした。
翌日。
王国中のオラクル網に、無編集の映像が流れた。
俺が「全員、建物から離れて」と叫ぶ。
子どもたちが避難する。
俺が地面へ伏せる。
竜も伏せる。
魔族の配達員が書類を差し出す。
映像そのものは正確だった。
字幕も、俺の実際の言葉だけ。
編集による嘘はない。
だが、視聴者がつけた題名は止められなかった。
――無能力の勇者、身を伏せるだけで古竜を服従させる。
「誤解です!」
俺はエルナへ抗議した。
「映像は無編集です」
「題名を変えてください!」
「これは視聴者投票で決まりました」
「その制度を廃止してください!」
「表現の自由があります」
「俺の人生にも自由をください!」
新聞には、さらに大きく書かれた。
――魔王討伐後、勇者は竜族との外交にも成功。
国王から、竜族との交渉役を頼む書類が届いた。
俺は即座に断った。
翌日、国王から返事が来た。
――焦らず時機を待てとの意思、承知した。
「承知していない!」
王城へ直接抗議しに行こうと、家を出る。
門の前には、ミレイユが立っていた。
旅用の外套。
手には、世界核評議会への招待状。
「北の温泉へ行く予定では?」
「今日でしたか」
「忘れていたのですか」
「竜の件で」
「王城へ行けば、交渉役を押しつけられますよ」
俺は王城の方向を見る。
次に、北へ続く街道。
「逃げましょう」
「どちらへ」
「温泉へ」
「合理的です」
「国王には?」
「私から、現地調査を優先すると伝えます」
「竜から逃げたとは」
「書きません」
「ありがとうございます」
俺たちは北門へ向かった。
ガルドが護衛として待っている。
セレナも、評議会の代表として同行するらしい。
エルナの記録鳥まで飛んでいる。
「なぜ全員いるんですか」
「危険な旅になるかもしれない」
セレナが言う。
「温泉ですよね」
「世界核周辺の復旧状況も確認します」
「聞いていません」
「今伝えました」
「帰っていいですか」
「もう王都の門を出ました」
後ろを見る。
城門はまだ近い。
走れば戻れる。
そのとき、王城の方向から騎兵が近づいてきた。
手には、竜族交渉の任命書。
「出発してください!」
俺は叫んだ。
馬車が動く。
騎兵が追う。
「トオル殿! 陛下からの正式な任命です!」
「受け取りません!」
「竜族は、空白の勇者との会談を希望しています!」
「誤解だと伝えてください!」
「地へ伏せ、敵意がないことを示す古代竜族の礼を用いたと!」
「また礼ですか!」
灰牙族の土下座に続き、今度は竜族まで。
「転んだだけです!」
「映像では、自ら伏せておられます!」
「怖かったからです!」
「恐れを隠さず、相手にも武器を捨てさせた!」
「竜は荷物を置いただけです!」
騎兵の声が遠ざかる。
馬車は街道を北へ進む。
ミレイユが隣で、窓の外を見ている。
「笑っていますか」
「いいえ」
「口元が動いています」
「気のせいです」
「ガルドさんも耳が揺れています」
「風だ」
「セレナさんまで」
「私は、竜族との新しい友好を喜んでいます」
「成立していません!」
エルナは記録石へ、俺たちの会話を一字一句残している。
訂正はされる。
事実も公開される。
それでも人々は、見たい物語を見るのだろう。
無能力なのに、最強勇者。
逃げているのに、敵の先を読む策士。
転んだだけなのに、古い礼を使う外交官。
何もないはずの俺へ、周囲が意味を足していく。
誤解は、たぶん終わらない。
だが以前とは違う。
誤解されたら、訂正する。
利用されたら、止める。
一人で無理なら、仲間へ頼む。
それでも危険なら。
「御者さん、もう少し速くできますか」
「追手は来ていませんよ」
「今後来る可能性があります」
ミレイユが尋ねる。
「逃げるのですか」
「はい」
「どこまで」
北の山々を見る。
その向こうには、復旧中の魔族領。
灰牙族の川。
世界核。
温泉。
まだ解決していない問題が、いくつもある。
「危険がなくなるまで」
「それは、かなり先ですね」
「では、皆で逃げ続けましょう」
セレナが笑う。
ガルドが呆れたように息を吐く。
エルナは、その言葉を正確に記録した。
ミレイユは少し考え、俺の隣へ座り直す。
「分かりました」
「何がです」
「最後まで、お付き合いします」
馬車が揺れる。
彼女の肩が、僅かに俺の肩へ触れた。
離れない。
俺も動かなかった。
前方の街道は、遠くまで続いている。
どんな危険があるかは分からない。
だからこそ、退路を確認しながら進む。
俺は最強ではない。
勇者でもない。
ただ、怖いものから逃げたいだけの、何の能力もない人間だ。
それでも。
逃げる途中で、誰かが取り残されていたら。
きっと俺は、また立ち止まってしまうのだろう。
そして皆は、その姿を見て、勝手にこう呼ぶ。
世界を救った、最強の勇者と。




