第5章 魔王軍幹部が勝手に深読みする
何も持っていない人間の作戦は、日の出前から予定どおり崩れた。
「敵がいない?」
俺は声を潜めて聞き返した。
灰牙族の集落から北西へ半日。
魔王軍の補給拠点を見下ろす岩棚で、リィナが地面に伏せたまま頷く。
「見張りが少なすぎる」
眼下には、切り立った岩壁に囲まれた盆地があった。
中央を流れていた川は、木材と石で築かれた巨大な堰によって二つに分けられている。本来の川筋は泥の道となり、魔王軍の荷車が何台も並んでいた。
兵舎。
物資庫。
角笛台。
高い監視塔。
昨日の情報では、最低でも三十人はいるはずだった。
だが見える範囲にいる兵は、八人。
しかも全員が、こちらに背を向けている。
「罠ですね」
俺は即答した。
「断定が早い」
ミレイユが小声で言う。
「では、普通に見張りが全員休暇を取った可能性は?」
「ありません」
「なら罠です」
岩陰で待機していたヴァルガが鼻を鳴らす。
「匂いも妙だ。兵は少ないが、鉄と油の臭いが強い」
「武器が隠されている?」
「あるいは、罠の装置だ」
予定では、東側でセレナたちが偽の角笛を鳴らし、敵を誘導する。
見張りが減ったのを確認してから、俺たちが西側より侵入する。
だが、角笛はまだ鳴っていない。
敵は最初から少なかった。
「中止しましょう」
「勇者様」
隣にいた騎士が困った顔をする。
「撤退条件では、敵が十人以上残っていた場合に中止すると」
「少なすぎても中止です」
「その条件はありませんでした」
「今追加します」
現場での危険を全て事前に想定するのは無理だ。
むしろ予定と違うのに、計画へ固執するほうが危ない。
「伝令を出します」
ミレイユが小さな魔晶石を取り出した。
石へ指を当てる。
何も起きない。
「どうしました」
「通信が遮断されています」
「やっぱり罠では?」
「その可能性は高まりました」
「帰りましょう」
俺が身を引いた瞬間。
東の谷から、角笛が鳴った。
低い音が三回。
予定していた偽の警報だ。
セレナたちが陽動を開始した。
補給拠点にいた兵士が一斉に走り出す。
八人全員が東へ向かった。
盆地は無人になった。
「行けます」
騎士が言った。
「行けません。通信が通じないのに、作戦だけ進んでいます」
「セレナ様は予定どおり動いておられます」
「予定どおり動くと思われていたら?」
俺は眼下を見る。
無人の拠点。
開いた門。
堰まで真っすぐ続く道。
あまりに都合がいい。
「バルダスは、相手の行動を予測するんですよね」
「はい」
ミレイユが答える。
「では、俺たちが敵の少ない時間を狙うことも、角笛で東へ誘導することも、堰へ直行することも分かっている」
「その可能性はあります」
「だったら、堰へ行かないほうがいい」
ヴァルガが俺を見る。
「川を戻さぬのか」
「戻したいです。でも、相手が一番待っている場所へは行きたくない」
「ではどうする」
俺は補給拠点を観察した。
堰の周囲には人影がない。
だが、水面に浮かぶ木片が不自然に揺れている。
風は東から西。
なのに、堰の近くの波紋だけが反対方向へ広がっていた。
水中に何かある。
さらに、物資庫の扉が半分開いている。
中には布袋が積まれているが、床との間に細い隙間が見えた。
袋ではない。
何かを覆っている。
監視塔には人はいない。
しかし、塔の頂上から盆地全体へ細い銀色の線が何本も伸びていた。
「ミレイユさん。あの線は見えますか」
「魔力糸です」
「何に使うものですか」
「感知、通信、罠の遠隔作動。用途は術式次第です」
「どこへつながっています?」
ミレイユが眼鏡へ魔力を流し、目を細める。
「堰。門。物資庫。兵舎。それと……地面の下」
「全部ですね」
「ええ」
「触ったら?」
「何かが起きます」
「もう帰りましょう」
ヴァルガが低く唸った。
「だが、セレナたちは東で敵を引きつけている」
そうだった。
俺たちが引き返しても、セレナたちは作戦が成功していると思い、陽動を続ける。
通信は通じない。
角笛の合図で知らせる手もあるが、こちらの位置が敵に露見する。
「セレナさんたちは、敵が追ってこなかった場合どうしますか」
「第一合流地点へ移る」
ミレイユが答えた。
「敵が追ってきたら?」
「西の峡谷へ誘導し、第二合流地点へ」
「どちらも、この拠点から離れる方向ですね」
「はい」
なら、今すぐ助けに行く必要はない。
少なくとも、セレナは自分たちで撤退できる。
問題は川だ。
今日を逃せば、魔王軍は警戒を強める。
灰牙族の食料も、いつまで持つか分からない。
俺は堰ではなく、上流を見る。
水は岩壁の奥から流れ込み、盆地の中央でせき止められている。
堰の横には、大きな水門。
それを開けば、本来の川へ水が戻る。
だから敵もそこへ罠を集中させた。
「水門を触らずに、水を戻す方法はありますか」
「堰を破壊する」
ヴァルガが答えた。
「できるんですか」
「この人数では無理だ」
「魔法なら?」
ミレイユが首を振る。
「堰の表面には魔力防壁があります。大術式を使えば破壊できますが、敵に位置を知らせます」
「防壁はどこから力を得ています?」
「おそらく監視塔の術式核です」
俺は監視塔を見る。
盆地の中央近く。
そこから銀色の魔力糸が各施設へ伸びている。
「監視塔を止めれば、堰の防壁も消える?」
「可能性は高いです」
「塔にも罠がありますよね」
「当然でしょう」
「では、塔も触らない」
「何も触らずに、どうするのだ」
ヴァルガが苛立つ。
俺だって知りたい。
敵は、俺たちが堰へ向かうと予測して罠を仕掛けた。
監視塔を止めることも予測しているだろう。
魔力を感知し、移動経路を読み、合理的な標的へ罠を置く。
なら。
「合理的ではない場所へ行きます」
「どこです」
俺は盆地の端を指した。
「厩舎です」
全員が黙った。
「馬を盗むのですか」
「盗みません」
「では、なぜ」
「一番どうでもよさそうだからです」
監視塔。
物資庫。
水門。
兵舎。
どれも作戦上重要だ。
だから罠がある。
厩舎は盆地の外れにあり、魔力糸もつながっていない。
馬や荷運び獣を管理するだけの場所。
「そこから何をする」
ヴァルガが尋ねる。
「近くで考えます」
「作戦は」
「ありません」
騎士たちが顔を見合わせる。
ミレイユだけは、眼鏡を押し上げて頷いた。
「少なくとも、バルダスが重要地点へ置いた罠は避けられます」
「本気ですか」
「何もせず帰るよりは、情報を得られる」
結局、俺たちは盆地へ下りた。
西側の岩壁には、リィナが以前見つけた獣道がある。
荷車は通れないが、人なら一列で降りられた。
俺。
ミレイユ。
ヴァルガ。
騎士三名。
人数が多いと見つかるため、残りは岩棚で待機している。
地面へ下りた瞬間、俺は腰を低くした。
「誰もいませんね」
「声を抑えてください」
ミレイユに叱られた。
俺たちは岩陰を移動する。
拠点内は静かだった。
東からは、ときどき角笛と戦闘音が聞こえる。
セレナたちは追われている。
だが音は遠ざかっている。
予定どおり、敵を拠点から引き離しているらしい。
物資庫の横を通る。
開いた扉の奥で、布袋に見せかけた金属の筒が並んでいる。
俺たちが近づくと、筒の表面に赤い光が浮かんだ。
「走って!」
ミレイユが杖を振る。
透明な壁が俺たちと物資庫の間に生まれる。
直後、金属筒から炎が噴き出した。
爆音。
熱風。
防壁が激しく揺れる。
「近づいていませんよね!」
「周辺の魔力変化で作動したようです!」
「やっぱり全部罠だ!」
爆発に反応し、監視塔の銀色の糸が一斉に光った。
地面から鉄格子が飛び出す。
だが俺たちは主要道路を外れ、厩舎側のぬかるんだ通路にいた。
鉄格子は誰もいない石畳を遮断した。
「勇者様は、この罠の位置まで読んで……」
「偶然です!」
騎士の感心を振り切って走る。
厩舎へ飛び込む。
中には、馬ではなく、大きな角を持つ四足の獣が十頭ほどつながれていた。
牛と鹿を足したような姿。
どの個体も怯え、鎖を引いている。
「荷角獣だ」
ヴァルガが言う。
「魔王軍が荷車を引かせている」
厩舎の壁には飼料袋。
水桶。
道具棚。
そして、大量の木製の楔と太い縄。
「ここには罠がない」
ミレイユが周囲を調べる。
「魔力反応もありません」
「動物がいるから、危険な術式を置けないのでは?」
「おそらく」
外から金属音が響いた。
爆発で、拠点内の何かが作動している。
兵舎の扉が開き、空だったはずの建物から人影が現れた。
人間ではない。
全身を黒い甲冑で覆った兵士。
動きが一定で、声も上げない。
「魔導人形です」
ミレイユが顔を曇らせる。
「隠されていた守備兵か」
「何体ですか」
ヴァルガが厩舎の隙間から覗く。
「二十。さらに物資庫の地下からも出てくる」
「撤退条件を超えました」
「だが退路に鉄格子が下りている」
騎士の一人が言った。
俺たちが通ってきた道は、地面から伸びた鉄柵で塞がれていた。
魔導人形が厩舎へ向かってくる。
「裏口は?」
「ない」
「窓は?」
「荷角獣しか通れない大きさです」
「それは窓ではなく扉では?」
厩舎の奥には、大きな木戸があった。
外側から太い横木で固定されている。
荷角獣を放牧地へ出す扉らしい。
「開けられますか」
ヴァルガが横木を持ち上げる。
動かない。
「外側で固定されている」
「壊せます?」
「時間がかかる」
魔導人形の足音が近づく。
ミレイユが入口へ防壁を張る。
黒い剣が透明な膜へ叩きつけられた。
一撃ごとに空気が震える。
「長くは持ちません!」
厩舎を見回す。
縄。
楔。
荷角獣。
外へ出る大扉。
壁の上部には、空気を通すための細長い隙間がある。
その外側に、滑車の一部が見えた。
「この扉、横木だけで止まっていますか」
「鎖もある」
ヴァルガが壁際を指した。
太い鎖が扉から天井の滑車を通り、厩舎中央の柱へつながっている。
「開閉するときは、荷角獣に引かせるのかもしれません」
俺は鎖をたどる。
中央の柱。
柱の根元には、大きな鉄輪。
その近くに、荷角獣をつなぐための綱がまとめてある。
「ヴァルガさん、外の横木を壊せますか」
「扉へ体当たりさせれば」
「荷角獣に?」
「できるが、怯えて動かぬ」
「火を怖がりますか」
「当然だ」
物資庫の炎が、厩舎の入口から見える。
荷角獣たちはそれを見て、奥へ逃げようとしている。
つまり、大扉の方向へ。
「綱を外してください」
「放すのか」
「ここにいたら焼け死ぬか、魔導人形に殺されます」
騎士たちが荷角獣の鎖を外す。
十頭の獣が厩舎の奥へ集まる。
俺は飼料袋から布を取り、入口近くの水桶へ浸した。
「何を」
「煙を出します」
「勇者様、火を使うのは危険です」
「燃やしません。あの爆発の煙を中へ入れます」
俺は入口横の換気板を外した。
外から黒煙が流れ込む。
荷角獣が激しく鳴く。
大扉へ向かって押し合い始める。
「今です! 鎖を柱から外して、扉側へ緩めて!」
ヴァルガと騎士が鉄輪を外す。
扉を押さえていた鎖の緊張が解ける。
荷角獣たちが一斉に大扉へ体当たりした。
一度。
二度。
外側の横木が軋む。
魔導人形の剣が、入口の防壁へ亀裂を入れる。
「もう一度!」
三度目の体当たり。
横木が折れた。
大扉が外側へ弾け飛ぶ。
荷角獣が盆地の外へ走り出した。
俺たちもその後を追う。
「どこへ向かっています?」
走りながら尋ねる。
「放牧地だ!」
ヴァルガが答える。
「拠点の北側!」
北。
堰とは反対側。
だが魔導人形も追ってくる。
俺たちは荷角獣の群れに挟まれる形で、拠点の裏手へ出た。
そこには細い坂道があり、岩壁の上へ続いている。
「逃げ道がありました!」
俺は喜んだ。
「待ってください」
ミレイユが坂の途中を指す。
岩の隙間に、銀色の魔力糸。
道の両側には、不自然に積まれた石。
「崩落の罠です」
「別の道は?」
「ありません」
後ろから魔導人形が迫る。
荷角獣たちは坂へ進もうとしない。
罠の気配を感じているのかもしれない。
「魔力糸を切れますか」
「切った瞬間、作動します」
「なら、切らずに通る?」
「糸へ触れれば同じです」
「下をくぐる?」
「複数あります」
俺は坂を見る。
一本目は膝の高さ。
二本目は腰。
三本目は頭上。
細い道を、網のように横切っている。
人間が通るのは難しい。
だが荷角獣なら。
「この動物、魔力はありますか」
「微量だ」
「罠は魔力に反応します?」
ミレイユが糸を観察する。
「接触と魔力変化の両方です」
「では、動物が触れても作動する」
「そうなります」
「それを敵は困らないんですか。ここは放牧路ですよね」
ミレイユが目を細めた。
銀色の糸へ近づき、杖先から小さな光を飛ばす。
光が糸の直前で曲がった。
「これは本物ではありません」
「え?」
「見せかけです。荷角獣を逃がさないための幻影」
「崩落は?」
「罠の術式はありますが、作動条件は別の場所です」
どこだ。
俺は周囲を見る。
坂の手前。
石柱。
足元の板。
荷角獣の進路を止めるため、罠は人間が管理する必要がある。
遠隔操作。
監視塔から伸びていた銀色の糸。
厩舎にはつながっていなかった。
だが放牧路の上には。
「監視塔から操作するんですね」
「おそらく」
「今、監視塔に誰かいますか」
「魔力反応はありません」
「なら、罠は動かない?」
「魔導人形が塔へ戻れば、作動させられる可能性があります」
振り返る。
追ってきた魔導人形は十八体。
そのうち二体が、拠点中央へ戻ろうとしていた。
「止めてください!」
騎士二人が反転し、戻る人形へ斬りかかる。
黒い剣と銀の剣がぶつかる。
ミレイユは坂の幻影を消した。
「通れます!」
荷角獣が一斉に坂を駆け上がる。
俺たちも続く。
坂を半分ほど上ったところで、盆地全体が見渡せた。
魔導人形。
燃える物資庫。
監視塔。
堰。
東へ続く道。
そして、荷角獣が逃げたことで動き出した荷車。
厩舎の横に並んでいた空の荷車が、傾斜に沿ってゆっくり坂を下っていた。
車輪止めが外れている。
荷角獣の突進で外れたのだろう。
一台目が二台目へぶつかる。
二台目が三台目へ。
連なった荷車が、盆地の中央へ向かって進む。
その先には監視塔。
「まずい!」
俺は叫んだ。
荷車が監視塔の支柱へ激突した。
一本では止まらない。
後続の荷車が次々に押し込む。
古い木製の支柱が折れた。
監視塔が傾く。
銀色の魔力糸が張り詰める。
塔の頂上にある術式核が、空中へ投げ出された。
青白い光を放ちながら落下する。
落ちた先は。
堰だった。
「伏せて!」
ミレイユが俺を押し倒す。
術式核が堰の魔力防壁へ接触した。
激しい光。
空気が裂けるような音。
監視塔の核と、堰の防壁が互いに干渉する。
術式が暴走し、堰の表面に亀裂が走った。
「崩れるぞ!」
ヴァルガが叫ぶ。
堰の中央が内側へ折れた。
せき止められていた水が、白い壁となって噴き出す。
濁流が盆地を横切る。
物資庫の炎を消し、石畳を洗い、泥の道となっていた本来の川筋へ流れ込む。
空の荷車が浮き上がる。
魔導人形は水に足を取られ、次々に倒れた。
水は川下へ向かい、灰牙族の土地へ戻っていく。
俺たちは坂の上で、その光景を見下ろした。
「……開きましたね」
俺が言う。
「水門には触れずに」
ミレイユが答える。
「偶然です」
「厩舎を選んだのは?」
「罠がなさそうだったから」
「荷角獣を放したのは?」
「逃げ道を作るため」
「監視塔へ荷車がぶつかると予測したのですか」
「していません」
「術式核が堰へ落ちることも」
「していません」
「それでも、罠を避け、動物を救い、監視塔を破壊し、堰を開放した」
「最後の二つは事故です」
「事故を引き起こした原因は、勇者様の判断です」
騎士が感動したように言った。
「敵の予測が、重要地点を守ることへ集中すると読み、あえて無価値に見える厩舎へ向かう。そこから拠点全体を連鎖崩壊させるとは」
「そんな危険なことを考えていたら、絶対に実行していません」
後方から、角笛が鳴った。
今度は三回ではない。
長く一回。
短く二回。
聞いたことのない合図。
ヴァルガが耳を立てる。
「敵が戻る」
東の道から土煙が上がっている。
セレナたちを追っていた魔王軍が、拠点の異変へ気づいたのだ。
「逃げましょう」
「第二合流地点へ」
俺たちは坂を上り切り、北西の岩道へ入った。
荷角獣の群れも前を走っている。
魔王軍から逃げているはずなのに、妙な行列になっていた。
岩道を抜けた先で、リィナたちと合流する。
「川が戻った」
彼女は遠くを流れる水音へ耳を向けた。
「成功したのか」
「事故です」
「聞く相手を間違えた」
リィナはミレイユを見る。
「成功しました」
「簡潔で助かる」
俺たちは第二合流地点へ向かった。
峡谷の出口近くにある、二本の石柱。
予定では、セレナたちもそこへ来る。
だが、敵が先に待っていた。
石柱の間に、一人の男が立っている。
長い紫色の外套。
額から伸びる、六本の細い角。
両目は閉じられている。
その代わり、外套の表面に埋め込まれた無数の宝石が、眼球のように動いていた。
「千眼のバルダス」
ミレイユが杖を構える。
男は静かに拍手した。
「見事」
拍手の音が峡谷へ響く。
「石橋へ来ず、東の谷へも向かわず、補給拠点を攻めながら、水門にも監視塔にも触れぬ」
バルダスの外套にある宝石の目が、一斉に俺を向く。
「さすがは空白の勇者」
「帰ってもいいですか」
「その言葉まで予測どおりだ」
「では、帰らせてください」
「拒絶されることを理解したうえで、あえて要求する。交渉ではなく、こちらの反応速度を測っているのだな」
違う。
本当に帰りたい。
「セレナさんたちは?」
俺は周囲を見る。
「無事だ」
バルダスが答える。
「私の兵を引きつけ、予定された道を逃走中だ。三十七息後、この峡谷へ入る」
「それを知っているなら、なぜここに」
「貴様を待つためだ」
バルダスは両手を広げる。
「私は、敵の魔力、呼吸、視線、地形、過去の判断から、次の行動を読む」
外套の目が光る。
頭の中を覗かれているようで気持ちが悪い。
「騎士は味方を守るため前へ出る。魔術師は術式を完成させる距離を取る。獣人は側面へ回る。指揮官は退路を確保する」
バルダスの指が一人ずつを示す。
「全て見える」
セレナのいない今、こちらの戦力は少ない。
ミレイユ。
ヴァルガ。
騎士三名。
リィナと斥候たち。
相手は一人。
だが周囲の岩壁には、魔王軍の兵が隠れているかもしれない。
「どうして補給拠点にいなかったんです」
「貴様が私の不在を罠と判断することを予測した」
「では、なぜ本当に不在に?」
「私がいれば、貴様は近づかぬ」
「正しいです」
「ゆえに、貴様が侵入するための余白を残した」
「拠点を壊されましたよ」
「どの罠を選び、どう破るかを見るための代価だ」
「高すぎませんか」
バルダスの頬が、わずかに動く。
「価値はあった」
本当にそうだろうか。
物資庫は燃え、魔導人形は水没し、川も元へ戻った。
魔王軍側の損害はかなり大きい。
もしかすると、この人も引くに引けなくなっているだけでは。
「俺たちをどうするつもりですか」
「貴様だけを連れていく」
「断ります」
「知っている」
「では、全員で帰ります」
「それも拒絶する」
「知っていました」
俺が言うと、バルダスの外套の目が一斉に瞬いた。
「……何?」
「あなたが断るのは分かっていました」
実際、誰でも分かる。
だがバルダスは、こちらが自分と同じように予測していると受け取ったらしい。
「私を試すか」
「試していません」
「ならば次に、私が何をすると思う」
「兵を呼ぶ?」
「呼ばぬ」
「攻撃する?」
「まだだ」
「話を続ける?」
「そう見せて、貴様の退路を閉じる」
岩壁の上で音がした。
魔王軍の兵が姿を現す。
十人。
二十人。
弓を構えている。
「ほら」
俺は小さく言った。
予測ではなく、普通に囲まれただけだ。
「勇者様」
ミレイユが俺の横へ立つ。
「先ほどの取り決めでは、バルダス本人がいた場合は撤退です」
「撤退できますか」
「難しいです」
「では降伏は?」
「武器を捨てた瞬間、射殺される可能性があります」
バルダスが笑う。
「降伏を口にし、こちらの警戒を緩めるつもりか」
「本気です」
「その本気を装う呼吸の乱れまで、読めている」
怖くて呼吸が乱れているだけだ。
「後ろへ走れば?」
俺は小声で尋ねる。
「峡谷の入口を兵が塞いでいます」
リィナが答える。
「前は?」
「バルダス」
「横は?」
「岩壁」
「上は?」
「弓兵」
「完璧ですね」
逃げ道がない。
バルダスは、そこまで計算して待っていた。
「さて、空白の勇者」
男は片手を上げる。
「次に貴様が選ぶ行動は三つ」
外套の目が、青、赤、緑の三色に光る。
「第一。魔術師へ防壁を命じ、騎士を前進させる」
ミレイユと騎士がわずかに身構える。
「第二。獣人を岩壁へ登らせ、弓兵を排除する」
リィナの足が止まる。
「第三。自ら囮となり、仲間を退かせる」
全員の視線が俺へ集まった。
「どれを選んでも、対処は済んでいる」
困った。
どれも俺が選びたくない行動だった。
防壁を張ればミレイユが消耗する。
騎士を前へ出せば怪我をする。
リィナたちを登らせれば、上から狙われる。
囮には絶対なりたくない。
「四つ目は?」
俺は尋ねた。
「存在しない」
「何もしない」
「時間を稼ぐつもりか」
「いえ」
俺はその場へ座った。
足が震えて立っていられなかっただけだ。
バルダスの表情が固まる。
「……何をしている」
「休んでいます」
「戦場で?」
「疲れたので」
「何を狙っている」
「何も」
「嘘だ」
外套の目が激しく動く。
俺の魔力を探しているのだろう。
だが何もない。
「魔力反応なし。術式の準備なし。武器なし」
バルダスが呟く。
「にもかかわらず、包囲の中央で座る?」
「立っていても状況が変わらないので」
「私の攻撃を待っているのか」
「できれば攻撃しないでください」
「反撃の起点を測っている?」
「反撃できません」
バルダスの額に汗が浮かぶ。
こちらを読もうとするほど、分からなくなっているらしい。
俺が合理的に動いていないからだ。
そもそも、俺には戦闘の知識がない。
最善手を選べと言われても、何が最善か分からない。
「勇者様」
ミレイユが小さく呼ぶ。
「何ですか」
「このまま動かないのですか」
「何をすればいいか分かりません」
「……承知しました」
ミレイユが一歩下がった。
騎士たちも、彼女を見て位置を変える。
ヴァルガが荷角獣の群れへ近づく。
リィナは弓を下げたまま、岩壁の影へ半歩移動した。
俺は何も指示していない。
だが皆が、俺を中心に少しずつ配置を変えていく。
バルダスの外套の目が、一人ずつを追う。
「防壁ではない。突撃でもない。側面攻撃でもない」
彼の声に焦りが混じる。
「散開しているようで、全員が射線から外れていく……」
俺も周囲を見る。
ミレイユは、岩壁が張り出した場所へ。
騎士は荷角獣の影へ。
リィナは弓兵から見えにくい岩陰へ。
ヴァルガは群れの鎖を握っている。
全員、バルダスの予測した三つの行動を避けながら、身を守る位置へ動いていた。
「これは何の陣形だ」
「知りません」
「名すら与えぬと?」
「本当に知りません」
遠くから角笛が鳴る。
セレナたちが近づいている。
バルダスが指を動かす。
岩壁上の弓兵が一斉に弦を引く。
その瞬間。
荷角獣の一頭が、大きく鳴いた。
厩舎から逃げた群れは、まだ怯えている。
弓を引く音。
魔力の緊張。
大勢の殺気。
それに反応し、群れが暴れ始めた。
「離せ!」
俺は叫んだ。
ヴァルガが鎖を放す。
十頭の荷角獣が一斉に峡谷の中央へ走り出した。
バルダスへ向かって。
「獣を突撃させると読んでいた!」
男が手を振る。
岩壁上の弓兵が矢を放つ。
だが、荷角獣は直前で左右へ散った。
バルダスを狙っていたのではない。
逃げ道を探していただけだ。
矢は群れの間を抜け、向かい側の岩壁へ刺さる。
「軌道が不規則……!」
バルダスが後退する。
そこへ、峡谷の奥からセレナが現れた。
「勇者様!」
彼女の後ろには騎士三名。
さらに、その後ろから魔王軍の追撃部隊が迫っている。
前にはバルダス。
後ろには追撃兵。
荷角獣が左右へ散り、峡谷は大混乱になった。
「セレナさん、止まって!」
俺が叫ぶ。
セレナは即座に馬の手綱を引く。
追撃兵は止まれない。
勢いのまま峡谷へ入り、散った荷角獣と衝突する。
隊列が崩れる。
「ミレイユ!」
セレナが叫ぶ。
「もう準備しています!」
ミレイユは、俺が座っている間に岩壁へ小さな術式を刻んでいた。
杖を振る。
岩の表面に亀裂が走る。
崩落ではない。
細かな砂と石が、岩壁の上から降り注ぐ。
弓兵たちが視界を失う。
リィナと灰牙族の斥候が、砂煙に紛れて岩壁を駆け上がった。
弓兵の射線を奪う。
騎士たちは荷角獣の影を利用し、バルダスへは向かわず、追撃部隊の側面へ回った。
ヴァルガが巨体で敵兵を押し返す。
「誰も私を狙わない?」
バルダスが周囲を見る。
「指揮官である私を無視するはずがない」
「あなたを倒すのが目的ではありません」
俺は座ったまま答えた。
「全員で逃げるのが目的です」
「指揮官を討たずに撤退すれば、再び追われる!」
「今は生き残れます」
「その場しのぎの選択を、この局面で?」
「いつもそうしています」
バルダスの顔から、初めて余裕が消えた。
「あり得ない」
彼は俺へ手を向ける。
外套の目が赤く光る。
「ならば、私が貴様を討つ!」
黒い光の槍が、空中へ生まれた。
俺は立ち上がろうとした。
足がしびれて動かない。
槍が放たれる。
「トオル!」
ミレイユの防壁が割り込む。
黒い槍と透明な壁が衝突した。
ミレイユが地面へ膝をつく。
防壁に亀裂が走る。
「二撃目は防げません!」
逃げなければ。
右。
左。
後ろ。
どこへ。
バルダスは、俺の視線を追っている。
逃げる方向を読んで、次の槍を置くつもりだ。
俺は右を見た。
バルダスの目が右へ動く。
左を見る。
左へ動く。
後ろを見る。
後ろへ。
何をしても読まれる。
怖い。
頭が真っ白になる。
俺は目を閉じた。
「視線を消した?」
バルダスの声がする。
どちらへ逃げるか、自分でも決めていない。
足だけを動かす。
前へ出た。
なぜ前へ出たのか、自分でも分からない。
たぶん、しびれた足が後ろへ曲がらなかっただけだ。
「接近だと!」
バルダスの声が裏返る。
俺は二歩進み、足がもつれて転んだ。
前へ。
バルダスの足元へ。
男が反射的に飛び退く。
その瞬間、彼が立っていた地面へ、セレナの剣が突き刺さった。
セレナは最初から、俺ではなくバルダスの背後を狙っていた。
「遅れました!」
彼女の剣から銀色の鎖が伸びる。
バルダスの外套へ絡みつく。
ミレイユが杖を振り、外套の宝石へ光を当てる。
無数の目が一斉に閉じた。
「視覚術式を遮断!」
リィナの矢が、バルダスの足元へ三本刺さる。
矢には細い縄が結ばれている。
ヴァルガが縄を引き、男の体勢を崩す。
騎士たちが追撃部隊を押さえる。
バルダスは地面へ片膝をついた。
「私の回避先へ攻撃を置いた……?」
違う。
俺が転んだせいで、バルダスが勝手に避けただけだ。
「最初から、私を後退させるために接近したのか」
「足がしびれました」
「視線を消し、自分にも選択を意識させず、無意識で動くことで予測を外した」
「目を閉じて転びました」
「己の思考すら罠として捨てたというのか」
「話を聞いてください!」
バルダスが外套の鎖を引きちぎる。
宝石の目が再び開く。
だが、その半分は光を失っていた。
「撤退します!」
俺は叫んだ。
「全員、峡谷の西へ!」
今度は誰も理由を尋ねなかった。
セレナが煙幕用の魔晶石を地面へ投げる。
白煙が広がる。
ミレイユが風を起こし、煙を峡谷全体へ流す。
リィナたちが岩壁から下りる。
ヴァルガが最後尾で敵を牽制する。
俺はセレナに腕をつかまれ、引きずられるように走った。
「自分で走れます!」
「足がしびれているのでしょう!」
「もう治りました!」
「転ばれては困ります!」
実際、二度転んだ。
峡谷を抜け、森へ入る。
魔王軍は追ってこなかった。
バルダスの予測術式が傷つき、部隊の混乱も収まっていないのだろう。
日が傾くころ、俺たちは灰牙族の避難洞窟へ到着した。
全員いた。
怪我人は数名。
だが、命に関わる傷はない。
川も戻った。
補給拠点も機能を失った。
目的は達成している。
俺は洞窟の入口へ座り込んだ。
「二度とやりたくない」
「見事な勝利でした」
セレナが横へ立つ。
「撤退です」
「敵将を退け、任務を達成し、味方を全員生還させた撤退です」
「それを勝利と呼ぶと、次も期待されます」
「すでに期待されています」
セレナが見せたのは、記録用の魔晶石だった。
「誰が撮ったんですか」
「エルナ神官が派遣した記録鳥が、上空に」
「今回もいたんですか」
石の中に、映像が残っている。
俺が補給拠点へ入る場面。
荷角獣が大扉を破る場面。
監視塔が倒れ、堰が崩壊する場面。
そしてバルダスの前で座り込む俺。
「最後の映像だけは使わないでください」
「なぜです?」
「何もしていないからです」
「敵将を前に微動だにせず、全ての選択肢を捨てて予測を破った場面です」
「足がしびれていただけです」
「さらに、敵の攻撃へ自ら接近し――」
「転びました」
「バルダスを仲間の連携地点へ誘導した」
「偶然です」
セレナは真剣な顔で映像を見ている。
「これを王都で見れば、誰も偶然とは思わないでしょう」
「では見せないでください」
彼女は視線を逸らした。
「もう送られています」
「止めてください!」
「オラクル網は、記録鳥が中継拠点へ戻った時点で自動送信されます」
手遅れだった。
その夜。
王都の広場に、俺の戦いが映し出された。
無人の補給拠点を見下ろす俺。
重要地点を避け、厩舎へ向かう俺。
荷角獣が走り、監視塔が倒れ、川が戻る。
千眼のバルダスと向き合う俺。
座り込む場面には、低く重い音楽がつけられた。
『全てを見通す敵を前に、勇者は動かなかった』
エルナの声が流れる。
『見るべき未来が存在しなければ、未来を読むことはできない』
誰の解説だ。
『魔力を持たず、定められた戦術にも従わず、敵の予測の外へ立つ者』
映像の中で、俺が立ち上がる。
実際は足のしびれでよろけている。
『魔王軍は、その勇者をこう呼び始めました』
画面へ大きな文字が浮かんだ。
『虚無の勇者』
空白から虚無へ悪化していた。
民衆は歓声を上げる。
兵士は剣を掲げる。
子どもたちは目を閉じて前へ転ぶ遊びを始める。
エルナは最後に、俺が言った言葉として一文を紹介した。
『いつも、己の思考すら捨てている』
「言ってない!」
避難洞窟で映像を見ていた俺の声が、虚しく反響した。
同じ頃。
魔王城の一室で、千眼のバルダスは一人、膝をついていた。
外套に埋め込まれた目の半分は砕けている。
玉座の前。
魔王グラウゼルは、オラクル網から奪った映像を無言で見ていた。
「敗因を述べよ」
「奴には、予測すべき魔力がありません」
バルダスは顔を上げない。
「魔力だけではない。視線、呼吸、過去の選択、仲間との関係。全てを読みました」
「それでも外した」
「奴は、合理的な勝利を求めていない」
バルダスの声が震える。
「目的は常に生存と撤退。だが、自らだけではなく、周囲の全員を生かそうとする。そのためなら、作戦の価値も、名誉も、敵将を討つ機会すら捨てる」
映像の中。
トオルは敵将を前に座っている。
恐怖に固まっているようにも見える。
全てを理解し、敵が動くまで待っているようにも見える。
「奴は、自分が次に何をするかすら、最後まで決めていません」
「無策か」
「違います」
バルダスは、初めて顔を上げた。
「選択を固定しないことそのものが、奴の策です」
魔王グラウゼルの赤い目が細くなる。
「私の予測術式は、戦う意思と魔力を持つ者を読むために作られた。奴はどちらも持たぬ。それでいて、戦場の全員を動かす」
「なるほど」
「陛下。空白の勇者を、ただの人間と考えてはなりません」
「すでにそう考えてはいない」
魔王は玉座の肘掛けを指で叩く。
「バルダス」
「は」
「お前は退け」
「処罰を」
「必要ない。お前の敗北は、有益な情報となった」
魔王は映像の中のトオルへ手を伸ばす。
魔力がない。
殺意もない。
野心もない。
だからこそ、読めない。
「勇者を討つ計画を改める」
「では」
「奴を戦場で殺そうとすれば、また周囲が奴の空白を埋める」
セレナの剣。
ミレイユの術式。
獣人たちの連携。
兵士たちの信頼。
一人では何もできない男の周囲で、全てが機能している。
「先に、奴を勇者たらしめているものを壊す」
魔王の手の中で、映像が歪む。
「信頼を奪え」
王国軍。
民衆。
仲間。
そして、勇者自身。
「虚無の勇者が、自ら何も持たぬと認めたとき」
魔王グラウゼルは静かに笑った。
「その空白を、絶望で満たしてやろう」




