第4章 作戦がないのに全員が理解している
作戦会議というものは、作戦を持っている人が参加するべきだと思う。
「勇者様。ご意見を」
「ありません」
俺は即答した。
灰牙族の集会所に、重たい沈黙が落ちる。
長卓の上には、この一帯を描いた地図が広げられていた。
北には、魔王軍幹部・千眼のバルダスが待つという石橋。
東には、灰牙族が提案した細い谷道。
西には、目的地である城塞都市リュネア。
南には、俺が全力で戻りたい王都。
地図の端には、魔王軍によって流れを変えられた川と、その上流にある補給拠点も記されている。
どこを見ても危険しかなかった。
「ご謙遜を」
セレナが言う。
「していません」
「敵から挑戦状を受けた直後です。慎重に言葉を選んでおられるのでしょう」
「何も思いついていないだけです」
ヴァルガ族長が腕を組む。
リィナは壁へ背を預け、獣の耳をこちらへ向けていた。
護衛騎士たちも、ミレイユも、全員が俺の次の言葉を待っている。
待たないでほしい。
前世の会議では、意見がない人間は黙っていればよかった。
資料をめくりながら、深刻そうな顔で頷いていれば、一時間くらいは存在を消せた。
だが、この世界の人々は俺の沈黙を深謀遠慮と解釈する。
黙れば期待が高まる。
話せば誤解が増える。
会議に参加しているだけで逃げ道が減っていく。
「まず、状況を整理しましょう」
ミレイユが助け船を出した。
珍しくありがたい。
「千眼のバルダスは、敵の行動を予測することで知られる魔王軍幹部です。北の石橋を指定しましたが、挑戦に応じる義務はありません」
「当然です」
俺は頷いた。
「ただし、彼が勇者様の動きを追っている以上、どの経路を選んでも接触する可能性があります」
「では、しばらくここに隠れるのは?」
ヴァルガの眉が上がった。
「我らは構わん。ただ、魔王軍がここへ来る」
「駄目ですね」
灰牙族を巻き込む。
それだけは避けたい。
「魔王軍の目的は、勇者様の排除でしょう」
セレナが地図上の石橋を指した。
「我々がリュネアへ向かう限り、敵は必ず進路を妨害します。ならば、こちらからバルダスを討つべきです」
「討たない方法は?」
「放置すれば、次はより大きな兵力を投入されます」
「話し合いは?」
「挑戦状と同時に、灰牙族の狩人が一人襲われています」
リィナが低く言った。
「命は助かった。だが『次は外さない』と伝えろと言われた」
「話し合いは無理ですね」
確認するまでもなかった。
俺は地図を見る。
正面から石橋へ行けば、敵の思うつぼ。
東の谷へ行けば、相手はそれも予測しているかもしれない。
南へ戻っても追われる。
ここに留まれば灰牙族が襲われる。
なら西へ直進――したいところだが、その道には魔王軍の補給拠点がある。
「全員で同じ場所に行くのは、危険ではないですか」
俺は何気なく言った。
全員で一つの道を進めば、待ち伏せされたとき一網打尽になる。
前回がまさにそうだった。
ただそれだけの意味だった。
セレナが地図へ身を乗り出す。
「なるほど」
「何がですか」
「兵力の分散ですね」
「いや、そういう立派なものでは」
「本隊を複数に分け、バルダスの予測対象を増やす。敵の注意が分散したところで、本命を別方向から進める」
護衛騎士の一人が頷く。
「しかし、敵は未来を読むのでしょう?」
俺が言うと、ミレイユがすぐに答えた。
「正確には、未来そのものを見ているわけではありません」
「違うんですか」
「バルダスは、魔力の流れ、部隊の速度、地形、心理、過去の行動記録から、次の行動を高精度で予測します」
「では、ものすごく頭のいい人ということですか」
「魔術による補助はありますが、大きく外れてはいません」
「最悪ですね」
超能力なら、何か弱点がありそうだった。
頭がよくて情報も多い相手のほうが、よほど厄介だ。
「しかし勇者様の行動は、奴の予測を外せる可能性があります」
セレナが言う。
「なぜです」
「勇者様の真意を、我々でさえ完全には理解できないからです」
「俺が何も考えていないだけでは?」
セレナは答えなかった。
否定してほしかった。
「分散する場合、目的を決める必要がある」
ヴァルガが地図を指で叩く。
「一隊は石橋。もう一隊は東の谷。勇者はどちらへ行く」
「俺だけ、ここに残る案は?」
「ない」
即答された。
「では、石橋以外で」
「敵はそれを読む」
「読むなら、石橋へ?」
「それも読む」
「では、くじ引きにしませんか」
集会所が静かになる。
「くじ引き」
ミレイユが繰り返した。
「はい。誰がどの道へ行くか、直前まで誰にも分からなくするんです」
「指揮系統が崩れます」
「ですよね」
自分でも名案とは思っていない。
だがミレイユは、すぐに否定しきらなかった。
「いえ……発想そのものは利用できます」
「利用しなくていいです」
「バルダスは、合理的な選択を積み重ねて予測します。決定を遅らせ、現場判断を増やせば、予測精度を落とせる可能性がある」
セレナが目を輝かせる。
「各隊へ最終目的だけを伝え、経路や時刻は隊長の判断に任せる」
「ちょっと待ってください」
「さらに、途中で役割を入れ替えることもできます」
リィナが地図の上へ小石を三つ置く。
「灰牙族なら、岩山の細道を使える。人間の兵には通れない道だ」
「では三隊に分けましょう」
セレナが小石を動かす。
「第一隊は石橋へ姿を見せ、バルダスを引きつける。第二隊は東の谷を通って側面へ。第三隊は――」
「待ってください」
俺は地図へ手を置いた。
「一番危険な石橋へ、誰が行くんですか」
「私が」
セレナが答えた。
「駄目です」
口から先に出た。
セレナが瞬きをする。
「なぜでしょう」
「敵が待っている場所ですよ。少人数で行けば殺されます」
「囮には危険が伴います」
「囮が死んだら作戦成功とは言えません」
俺は地図の小石をどけた。
「そもそも、敵を引きつけるためだけに誰かを危険な場所へ送る必要がありますか」
「では、石橋を無視しますか」
「無視して、何が困るんです?」
「敵が自由に動けます」
「どこへ?」
セレナが答えようとして止まる。
俺は地図を見る。
石橋は北。
魔王軍の補給拠点は北西。
リュネアは西。
敵が石橋に戦力を集めているなら、別の場所は薄くなっているかもしれない。
「バルダスは、俺たちが自分を倒しに来ると思っているんですよね」
「おそらく」
「なぜ、倒しに行かなければならないんですか」
誰も答えない。
「相手が石橋で待っているなら、待たせておけばいいでしょう」
セレナが地図を見つめる。
「その間に、補給拠点を叩く」
俺は顔をしかめた。
「叩くというより、川を元に戻したいだけです」
「結果として敵の補給線を断てます」
「戦う前提にしないでください」
「ですが、補給拠点には守備兵がいます」
「では、守備兵が少ない時間を探す」
俺は地図上の補給拠点を指した。
「そもそも、ここには何人いるんですか」
「正確な数は不明だ」
リィナが答える。
「狩人が見た限り、常時三十から五十。荷車が来る日は百を超える」
「荷車が来る日は?」
「三日に一度。次は明日の夕刻だ」
「では、荷車が来る前は?」
「空の荷車を送り出した後なら、一時的に人が減る」
「見張りの交代は?」
「日の出と日没」
「武器庫は?」
「中央の岩倉」
「川をせき止めている場所と、兵士の宿舎は近いですか」
「離れている。水音がうるさいからだ」
「警報は?」
「角笛が三か所」
「一つ鳴ったら、全員集まりますか」
「敵襲なら」
「では、別の場所で鳴らせば?」
俺が言うと、全員が黙った。
また何か変なことを言ったらしい。
「勇者様」
セレナの声が慎重になる。
「つまり、灰牙族の斥候が離れた地点で警報を鳴らし、敵を誘導する。その間に少数で堰へ侵入する、と」
「角笛が同じ音なら、使えるかと思っただけです」
リィナが口元を上げた。
「奪ったものが一つある」
「使えますか」
「音は出せる。合図の意味までは知らない」
「知らない音を鳴らすのは危険では?」
「だから調べる」
リィナは立ち上がった。
「今夜、補給拠点の近くまで行く。角笛の合図と、見張りの交代を確認する」
「一人で?」
「斥候だからな」
「危なくなったら戻ってください」
「命令か」
「お願いです」
「同じことだろう」
「かなり違います」
リィナは小さく笑い、再び壁へもたれた。
ミレイユが地図へ新しい印を書き込む。
「敵を補給拠点の東側へ誘導できれば、西側の堰は手薄になります。ただし、バルダスがこの動きを予測する可能性は残ります」
「バルダス本人は石橋にいるんですよね」
「挑戦状を信じるなら」
「嘘かもしれません」
「そのとおりです」
「では、本人が補給拠点にいる可能性も?」
「あります」
「石橋にも補給拠点にもいない可能性は?」
「あります」
「もう何でもありですね」
俺は頭を抱えた。
「敵がどこにいるか分からない。こちらの行動は読まれているかもしれない。味方の数は少ない。目的は川を戻すこと。失敗したら、灰牙族が報復される」
口に出して並べると、ますます無理に思える。
だが、ミレイユは俺の言葉を一つずつ地図の横へ書き始めた。
「何をしているんですか」
「失敗条件を整理しています」
「今のは弱音です」
「有用な弱音です」
そんな種類があるのか。
「敵の所在が不明。行動を予測される可能性。兵力差。作戦目的の逸脱。灰牙族への報復」
ミレイユが書いた内容を読み上げる。
「これらを一つずつ潰します」
「潰せるんですか」
「少なくとも、何を警戒すべきかは分かります」
セレナも地図の横へ立つ。
「敵の所在は、リィナ殿の斥候隊が確認する。行動予測への対策は、各隊の経路を直前まで固定しない。兵力差は戦闘を避け、誘導によって補う」
ヴァルガが続ける。
「目的は堰の解放。敵の全滅ではない。水が流れれば、すぐ退く」
「報復については」
俺は集落の外を見た。
「俺たちが去った後、魔王軍がここへ来る可能性があります」
「戦う」
ヴァルガが言う。
「だから駄目です」
「では、集落を移すか」
「すぐに移せるんですか」
「老人と子どもがいる。簡単ではない」
「なら、補給拠点を攻撃したのが灰牙族だと分からないようにする必要があります」
全員が考え込む。
俺も考える。
魔王軍にとって、最大の敵は誰か。
少なくとも今、彼らは俺を過大評価している。
「俺がやったことにできませんか」
自分で言ってから後悔した。
セレナの目が大きくなる。
「勇者様が、全ての責任を負うと?」
「違います。魔王軍は俺を狙っているんでしょう。なら、堰を壊したのも俺だと思わせれば、灰牙族より俺を追うはずです」
「その場合、勇者様への追撃はさらに激しくなります」
「今も十分追われています」
「しかし」
「灰牙族は、俺たちを通しただけです。作戦に参加した証拠を残さない。角笛も、魔王軍同士の誤報に見せる。俺たちは川が流れた直後に西へ向かう」
話しているうちに、少しずつ形になってきた。
「敵が追うなら、リュネアの方向へ連れていく。城塞都市なら、ここより守りやすいですよね」
「確かに」
セレナが頷く。
「ですが、勇者様のお名前で敵を引き受けることになります」
「俺が始めたというより、向こうが勝手に追ってきているので」
「それでも」
「誰か一人を囮にするよりはましです」
沈黙が落ちた。
さっきまでの重さとは違う。
全員が地図を見て、何かを確かめている。
俺は自分が何を言ったのか振り返った。
戦いたくない。
誰も死なせたくない。
灰牙族へ責任を押しつけたくない。
その結果、なぜか俺が敵を引きつける話になっている。
おかしい。
どこで間違えた。
「作戦の骨格ができました」
ミレイユが言った。
「できたんですか?」
「はい」
彼女は地図へ三本の線を引く。
「第一隊。リィナ率いる斥候隊が補給拠点を監視し、見張り交代と角笛の合図を確認する。ただし、戦闘は禁止。発見された場合は即時撤退」
リィナが頷く。
「第二隊。セレナ様と騎士三名が、東側で魔王軍の角笛を使用。敵が移動した場合のみ陽動を継続する。追いつかれる前に経路を変え、西へ離脱」
「承知しました」
「第三隊。勇者様、私、ヴァルガ族長、騎士三名で西側から堰へ侵入。水門機構を解放し、川を本来の流れへ戻す」
「俺も行くんですか」
「勇者様の作戦ですので」
「会議室から応援する役は?」
「ありません」
またなかった。
「作戦成功後、灰牙族は集落へ戻らず、峡谷北側の洞窟へ一時避難。魔王軍が報復へ来た場合、無人の集落だけを発見させます」
ヴァルガが地図の洞窟を指す。
「三日なら隠れられる。王国から食料が届けば、さらに延ばせる」
「その手配は、すぐにオラクル網で行います」
セレナが言う。
「勇者様が補給拠点を攻撃したという情報は、どう流す」
リィナが尋ねる。
全員の視線が俺へ集まる。
「わざわざ流さなくても、現場に俺がいれば分かるのでは?」
「遠くからでは顔までは見えません」
嫌なことを思いついた。
「勇者の旗とか、ありませんよね」
セレナが静かに荷物袋を開いた。
白地に、青い円。
中心には大きく『空白』を意味する王国文字が刺繍されている。
「いつ作ったんですか」
「王都出発の前夜です」
「仕事が早すぎる」
「王都の職人が、夜通しで」
「俺のために無理をさせないでください」
「皆、喜んでいたそうです」
知りたくなかった。
結局、補給拠点には俺の旗を立て、魔王軍へ存在を示すことになった。
自分で自分の犯行声明を出すようなものだ。
「最後に、撤退条件を決めましょう」
俺は言った。
「水門が開かなかったら?」
「五分で撤退」
ミレイユが答える。
「敵が十人以上残っていたら?」
「侵入を中止」
「誰かが怪我をしたら?」
「程度によります」
「動けない人が一人でも出たら中止です」
セレナが何か言いかけたが、俺は続けた。
「バルダス本人がいたら?」
「戦います」
「中止です」
「勇者様」
「未来を読む幹部と、準備もなく戦うんですか」
「ですが、逃げれば追われます」
「追われても、全員で生きて逃げるほうがいい」
「では、戦闘回避を優先します」
「堰を壊したせいで集落へ濁流が行く可能性は?」
「旧水路を調査します」
ヴァルガが言う。
「崩れていれば、先に直す」
「川下に人はいませんか」
「二つの農村がある。水が戻ることを事前に知らせる」
「魔王軍の荷車が川底を通っている途中なら?」
「そこまで確認するのですか」
セレナが驚く。
「流されたら死ぬでしょう」
「敵兵です」
「御者や荷運び人まで兵士とは限りません」
ミレイユが新たな項目を書き足す。
「解放前に河床を確認。非戦闘員がいる場合は延期」
作戦会議が続く。
俺が不安を口にするたび、誰かが対策へ変換する。
退路。
連絡方法。
合流地点。
予定より敵が多かった場合。
誰かが遅れた場合。
角笛が使えなかった場合。
雨が降った場合。
怪我人を運ぶ場合。
予備の水と食料。
俺は作戦を考えているつもりはなかった。
ただ、起きてほしくないことを並べていただけだ。
だが気づけば、地図の周囲は細かな注意書きで埋まっていた。
「これで十分でしょう」
ミレイユが筆を置いた。
「十分なんですか」
「少なくとも、先ほどよりは」
「成功しますか」
「分かりません」
正直だった。
「ですが、失敗した場合に何が起きるかは、かなり見えるようになりました」
「それはいいことですか」
「見えない失敗よりは」
俺は地図を眺める。
全てうまくいけば、灰牙族の川が戻る。
魔王軍の補給が一時的に止まる。
俺たちはリュネアへ近づく。
誰も死なない。
全てうまくいけば、だ。
「怖いですか」
隣にいたミレイユが、小声で尋ねた。
「当然です」
「勇者様は、その言葉を人前でよく口にしますね」
「怖くないふりをしても、怖いものは怖いので」
「普通の指揮官は、部下の前で不安を隠します」
「俺は指揮官ではありません」
「少なくとも今は、全員があなたの質問を基準に動いています」
集会所を見る。
セレナは騎士たちへ役割を伝えている。
ヴァルガは避難の準備を指示している。
リィナは斥候を集めている。
俺の言葉が、実際の行動へ変わっていた。
背筋が冷える。
失敗すれば、この人たちが傷つく。
俺の判断で。
「やっぱり中止にしませんか」
「その結論に戻るのですね」
「責任が重いので」
「では、他の者へ全て任せますか」
ミレイユの声は責めるものではなかった。
だからこそ答えにくい。
任せたい。
本当は全部、誰かに決めてほしい。
失敗したとき、自分のせいではないと言えるように。
だが今回、俺が何も言わなければ、セレナは石橋へ囮として向かっていた。
灰牙族は集落に残り、報復を受けていたかもしれない。
「……撤退条件だけは、変えないでください」
俺は言った。
「誰か一人を置いていく案も禁止です」
「承知しました」
「危なくなったら、川より命を優先する」
「はい」
「俺が逃げろと言ったら?」
「理由を確認します」
「すぐ逃げてください」
「状況によります」
「そこは従ってください」
「勇者様の言葉を、そのまま受け取るのは危険ですので」
「一番信頼されたい部分が信頼されていない」
ミレイユの口元がわずかに緩んだ。
笑ったのかもしれない。
夜。
灰牙族の集落では、翌日の作戦に備えて皆が早く休んでいた。
俺に与えられた部屋は、集会所の隣にある小さな石造りの家だった。
寝台に横たわる。
目を閉じる。
眠れない。
天井の染みが人の顔に見える。
外で枝が鳴るたび、魔王軍が来たのではないかと思う。
何度寝返りを打ったか分からない。
やがて、扉が小さく鳴った。
「誰ですか」
「私です」
ミレイユの声だった。
「どうしました」
「少し確認したいことがあります」
扉を開ける。
ミレイユは外套の下に、小さな革鞄を抱えていた。
眼鏡の奥の目が、いつも以上に真剣だ。
「作戦のことですか」
「いいえ」
彼女は部屋へ入り、机の上へ鞄を置いた。
中から取り出したのは、手のひらほどの黒い石盤と、細い銀色の針。
嫌な形をしている。
「何ですか、それ」
「高精度の魔力回路測定器です」
「痛いですか」
「少し」
「帰ってください」
「王城では周囲の目がありました。今なら、正式な記録を残さず測れます」
「なぜ正式な記録を残さないんです」
「結果によっては、あなたの立場が変わるからです」
俺は扉を見る。
逃げても、たぶん捕まる。
「本当に必要ですか」
「必要です」
「断ったら?」
「疑いが深まります」
「受けても疑われるのでは」
「結果次第です」
逃げ道がない。
俺は椅子へ座り、右手を差し出した。
ミレイユは銀の針を俺の指先へ当てる。
「少しと言いましたよね」
「はい」
「少しの基準は人間基準ですか」
「動かないで」
針が刺さった。
「痛い!」
「静かに」
「少しではないです!」
「血を一滴採るだけです」
ミレイユは俺の血を黒い石盤へ落とした。
石盤の表面に、薄い銀色の線が広がる。
彼女は次に、透明な粉を振りかけた。
銀の線が光り、円を描き、やがて中央へ集まっていく。
通常なら、ここに魔力回路の形が現れるらしい。
一秒。
五秒。
十秒。
何も出ない。
石盤の光は、ただ俺の血の周囲を弱く照らしている。
ミレイユは別の粉を使った。
次に小さな魔晶石を置いた。
測定器の裏を開け、中の部品まで確認した。
「壊れていますか」
「壊れていません」
「では」
「もう一度」
二度目。
三度目。
結果は同じだった。
ミレイユは無言で石盤を見つめる。
「だから言ったでしょう」
俺は刺された指を布で押さえた。
「俺には何もないんです」
彼女は答えない。
「魔力を隠しているわけでもない。特殊な回路があるわけでもない。測定不能の力もない」
「はい」
「普通の人間です」
「いいえ」
「なぜですか」
「普通の人間には、微量でも魔力回路があります」
ミレイユは石盤を机へ置いた。
「あなたには、本当に存在しない」
「それは普通以下ということでは?」
「この世界では、そうなります」
はっきり言われた。
「剣術もありません」
「見れば分かります」
「身体能力も」
「平均的です」
「特別な知識もありません」
「異界の知識は持っています」
「魔王を倒せるようなものではないです」
「そうでしょうね」
ミレイユは俺の目を見る。
最初に神殿で会ったときと同じ、疑い深い目。
だが、今はその奥に別の感情があった。
困惑。
あるいは恐れ。
「では、明日の作戦を考えたのは誰です」
「皆さんです」
「最初に分散を口にしたのは」
「俺ですけど」
「石橋を無視する提案は」
「俺です」
「灰牙族へ責任を負わせない方法を考えたのは」
「成り行きです」
「撤退条件を決めたのは」
「危ないからです」
「それを、能力とは呼ばないのですか」
「呼びません」
俺は即答した。
「怖いから、失敗しそうなところを探しているだけです」
「誰にでもできると?」
「少なくとも、魔法ではありません」
「それは認めます」
ミレイユは測定器を鞄へ戻した。
「あなたには、本当に何の力もない」
初めて、誰かが正しく言ってくれた。
安心するはずだった。
なのに、彼女の声があまりにも静かで、胸の奥が重くなった。
「皆に話しますか」
「まだ話しません」
「なぜ」
「今話せば、セレナ様は信じないでしょう。王国は結果を隠す可能性があります。そして明日の作戦前に、部隊を混乱させます」
「では、いつ」
「あなたが話すと決めたときです」
「俺に任せるんですか」
「あなたの秘密です」
ミレイユは鞄を閉じる。
「ただし、一つだけ約束してください」
「何を」
「何もないからといって、何をしても責任がないとは考えないでください」
言葉が刺さった。
針より深く。
「あなたの命令で、人が動きます。あなたの名前で、戦おうとする者がいます。力がないことと、影響がないことは別です」
反論できなかった。
明日、皆は俺の言葉を基準に動く。
俺が作戦を考えたつもりがなくても。
勇者であるつもりがなくても。
「分かりました」
ようやく、それだけ答えた。
ミレイユは扉へ向かう。
「眠れそうですか」
「今の話を聞いた後で?」
「無理でしょうね」
「聞かないでください」
彼女は扉を開け、外へ出た。
月明かりの中で一度だけ振り返る。
「トオル」
勇者様ではなく、初めて名前だけで呼ばれた。
「明日は、何もないあなたの作戦です」
「皆さんの作戦です」
「ええ」
ミレイユは僅かに頷いた。
「だから失敗しないよう、全員で完成させます」
扉が閉まる。
俺は一人になった部屋で、刺された指先を見つめた。
魔力はない。
能力もない。
逃げたい気持ちは、今も変わらない。
それでも翌朝、俺の合図で全員が動き出す。
何も持っていないという事実が証明された夜に、俺は初めて、何も決めずにいることだけはできないのだと知った。




