第3章 土下座しただけなのに外交的勝利
魔王軍が俺の逃げ道から潰そうとしている頃。
俺は、自分から逃げ道へ入り込んでいた。
「この道、本当にリュネアへ続いているんですか?」
馬車の窓から外を見る。
左右には、背丈より高い岩壁。
頭上に見える空は細く、昼間なのに谷底は薄暗い。
馬車一台がぎりぎり通れる道幅しかなく、反対側から何か来ればすれ違うこともできない。
前方にはセレナ。
後方には騎士たち。
馬車の中にはミレイユ。
逃げようにも、前後を完全に塞がれている。
「地図では、この峡谷を抜けた先に獣人族の集落があります」
ミレイユが地図を指でなぞった。
「そこから西へ向かえば、主要街道を使わずにリュネアへ到着できます」
「獣人族は、人間に友好的なんですか?」
「部族によります」
「今回は?」
「分かりません」
「分からない場所を通っているんですか?」
「主要街道は敵に知られています」
「知らない人に襲われるか、知っている敵に襲われるかの二択……」
「その表現ですと、どちらも嫌になりますね」
「実際、どちらも嫌です」
丘陵地帯へ入ってから二日。
魔王軍の追撃はなかった。
その代わり、道はどんどん険しくなっていた。
最初はなだらかな草原だった。
次は林。
その次は岩山。
そして今は、出口の見えない峡谷である。
逃げるほど安全になるという、俺の人生の基本原則が崩れ始めていた。
「勇者様」
前方を進んでいたセレナが、右手を上げた。
全員が止まる。
「何かありますか」
「静かすぎます」
言われてみれば、鳥の声がしない。
風は吹いているのに、岩の隙間に生えた草もほとんど動いていない。
代わりに、どこかから香ばしい匂いが漂ってくる。
「煙です」
俺は鼻を押さえた。
焚き火。
それも一つではない。
肉や穀物を焼く匂いが混ざっている。
「集落が近いのでは?」
「その可能性もあります」
セレナは剣の柄へ手を置いた。
「ですが、風上は前方です。地図上の集落は、まだ半刻ほど先にあります」
「では、誰かがここで待っている?」
返事はなかった。
岩壁の上から、乾いた音が響いた。
小石が一つ、馬車の屋根へ落ちる。
次の瞬間。
岩壁の左右に、無数の影が現れた。
狼の耳。
猫のような目。
角を持つ者。
毛皮に覆われた腕。
弓や槍を構えた獣人たちが、谷の上から俺たちを見下ろしている。
前方の道にも、十数人が姿を現した。
後ろからも足音がする。
囲まれた。
完全に。
「武器を抜くな!」
セレナが叫んだ。
しかし、護衛騎士たちはすでに剣へ手をかけている。
獣人たちの弓が、一斉に引き絞られた。
「人間」
前方の集団から、大柄な男が進み出る。
灰色の毛並み。
獣のように尖った耳。
片目には古い傷。
背には長い槍を負っていた。
「ここは灰牙族の土地だ」
低い声が谷へ響く。
「王国の兵を通すつもりはない」
セレナが馬を一歩進める。
「我々はアルディア王国の使節です。争う意思はありません」
「使節が剣と杖を持つか」
「魔王軍から身を守るためです」
「人間はいつもそう言う」
大男は岩壁を見上げた。
獣人たちが弓をさらに引く。
「最初は身を守るため。次は道を守るため。その次は土地を守るため。最後には、我らの家が人間の領土になっている」
空気が張り詰める。
セレナの肩がわずかに動いた。
戦うつもりはない。
だが、矢が一本でも飛べば反撃するだろう。
ミレイユも杖を握っている。
この距離なら魔法で防げるかもしれない。
しかし、岩壁の上には子どもに近い体格の獣人まで混じっていた。
戦いになれば、誰かが死ぬ。
「ここを通してほしいだけです」
セレナが言った。
「対価が必要なら支払います」
「金はいらん」
「食料は?」
大男の目が、一瞬だけ動いた。
すぐに険しい表情へ戻る。
「人間の施しは受けぬ」
食料。
その言葉に反応した。
俺は改めて獣人たちを見る。
装備はばらばらだった。
槍の穂先が石の者もいる。
弓の弦は古く、革鎧には何度も補修した跡がある。
顔立ちは険しいが、頬がこけている者が多い。
岩壁の上にいる若者の一人は、弓を構えながら膝が震えていた。
恐怖ではない。
力が入っていない。
焚き火の匂いはする。
だが肉の匂いに対して、焼けた麦の匂いが少なすぎる。
大勢がいるのに、煮炊きの煙も細い。
「勇者様」
セレナが小声で呼ぶ。
「どうなさいますか」
「なぜ俺に聞くんですか」
「交渉の方針を」
「専門家はいないんですか」
「この中では、私が最も経験しています」
「ではお願いします」
「すでに失敗しかけています」
正直な人だった。
大男が槍を抜いた。
「話は終わりだ。来た道を戻れ」
戻る。
素晴らしい提案だ。
俺は即座に受け入れかけた。
だが後方を見ると、谷の入口にも獣人たちが並んでいる。
言葉どおり通してくれる保証はない。
こちらが反転した瞬間、背後から矢を射られる可能性もある。
馬車の向きを変える場所もない。
そもそも王都へ戻る道には、魔王軍が待ち伏せしているかもしれない。
前へ進めない。
後ろへ戻れない。
戦えば死ぬ。
なら。
「俺が話します」
自分でも驚くほど弱々しい声が出た。
セレナが振り返る。
「お任せします」
「任せないでください。一緒に来てください」
「私が横に立てば、威圧になります」
「俺一人だと殺されます」
「では、少し後ろに」
少しでは困る。
だが反論している時間はない。
俺は馬車から降りた。
膝が固い。
足元の小石がやけに滑る。
大男の前まで進む。
距離は十歩ほど。
相手の槍なら、数秒で届く。
「名を聞こう」
「佐倉透です」
「サクラ・トオル」
「トオルでいいです」
「王国の勇者か」
獣人たちの間にざわめきが走った。
空白の勇者という名前は、こんな場所にまで届いているらしい。
オラクル網を恨んだ。
「一応、そう呼ばれています」
「魔王軍の一隊を、指一本触れずに壊滅させたと聞く」
「誇張です」
「黒角獣を天から落とした鉄輪で封じたとも」
「事故です」
「我らへ何をしに来た」
「通りたいだけです」
「我らが拒めば?」
「困ります」
「力ずくで通るか」
「絶対にしません」
大男の目が細くなる。
「なぜだ」
「勝てると思えないからです」
谷が静かになった。
後ろで誰かが息を呑んだ。
セレナかもしれない。
大男は俺を睨みつけた。
「我らを侮辱しているのか」
「逆です」
「勇者が、我らに勝てぬと?」
「俺は剣も魔法も使えません。あの人数に囲まれて、勝てるわけがないでしょう」
「……何を企んでいる」
「何も」
「嘘だ」
「本当です」
「人間の勇者が、敵の前で自らの弱さを明かすはずがない」
またこの流れだ。
「では、どう言えば信じてもらえますか」
「武器を捨てろ」
「持っていません」
「鎧を脱げ」
「着ていません」
「魔力を消せ」
「最初からありません」
大男の眉間に深いしわが寄る。
こちらが条件を満たすほど、なぜか警戒が強まっていく。
「族長」
岩壁の上から、若い女性の声がした。
赤褐色の髪。
狐に似た耳。
弓を構えたまま、こちらを鋭く見ている。
「その男から、確かに魔力を感じない」
「隠している可能性は」
「近くで見なければ断定できない」
「近づけるか」
「危険です」
この世界では、魔力がないほうが危険物扱いされるらしい。
俺は両手を上げた。
「近くで調べてもらって構いません」
「勇者様」
セレナの声が飛ぶ。
「人質に取られる可能性があります」
「すでに全員人質みたいなものです」
上にも前にも後ろにも弓兵がいる。
ここで抵抗しても状況は良くならない。
狐耳の女性が岩壁から飛び降りた。
五メートル以上あったはずなのに、音もなく着地する。
腰には短剣が二本。
彼女は俺の正面へ立つと、顔を近づけた。
金色の目が俺の瞳を覗き込む。
「動くな」
「はい」
「息を止めろ」
「どれくらいですか」
「私がいいと言うまで」
長い可能性がある。
だが従うしかない。
息を止める。
女性の指が俺の首筋、胸、手首へ順番に触れる。
冷たい。
目の前に短剣があるせいで、心臓が異常な速度で動く。
「……妙だ」
彼女が呟いた。
「何もない」
「だから言いました」
「生命の気配はある。だが魔力回路が存在しない」
「ミレイユさんにも同じことを言われました」
後ろからミレイユの声がする。
「私はまだ、断定していません」
「今、断定してください」
「精密検査が必要です」
この人はどこまでも慎重だった。
狐耳の女性は族長へ向き直った。
「本当に無魔力だ」
獣人たちがざわめく。
族長は槍を握り直した。
「ならば、なぜ勇者と呼ばれている」
「それを俺が一番知りたいです」
「ふざけるな」
「ふざけていません」
槍の穂先が俺へ向く。
怖い。
俺は後ろへ下がろうとした。
だが足元の石を踏み、体勢を崩した。
倒れる。
とっさに両手をつく。
膝も地面へ落ちた。
額が、族長の足元すれすれまで下がる。
完全な土下座だった。
「申し訳ありません!」
ほとんど反射で叫んだ。
「通る場所を間違えました! 皆さんの土地を勝手に通ろうとしたことも謝ります! 争うつもりはないので、どうか殺さないでください!」
静寂。
谷の風が、俺の髪を揺らす。
誰も動かない。
さすがに勇者が土下座したら、王国側も獣人側も困るらしい。
俺は顔を上げられなかった。
恥ずかしいからではない。
槍がどこにあるか見たくなかった。
しばらくして、族長がかすれた声で言った。
「……頭を上げろ」
「殺さないと約束してもらえますか」
「まず上げろ」
「先に約束を」
「勇者様」
セレナが低い声で呼ぶ。
「その姿勢は……」
「今は体面より命です」
「いえ、そうではなく」
狐耳の女性が、呆然と俺を見ていた。
「族長。この礼は」
「分かっている」
「何ですか」
俺は地面へ手をついたまま尋ねた。
族長はゆっくりと槍を下ろした。
「我ら灰牙族に伝わる、古い降和の礼だ」
「降和」
「部族間の争いを終わらせる際、最も責任ある者が武器を置き、額を大地へつける」
嫌な予感がした。
「それは、降伏という意味ですか」
「違う」
族長は首を振る。
「己の命を大地へ預け、相手の命も同じ大地の上にあると認める礼だ。敵ではなく、同じ土地に生きる者として話すことを求める」
周囲の獣人たちが、少しずつ弓を下ろしている。
「近年は、我らの若者でも知る者は少ない」
狐耳の女性が俺を見る。
「人間が、なぜこの礼を知っている」
「知りませんでした」
「知らずにできる礼ではない」
「転んだだけです」
「転倒して、額をつけ、謝罪と不戦を同時に述べたのか」
「結果的には」
「やはり知っているではないか」
まただ。
訂正するほど深みに入る。
族長が俺の前へ片膝をついた。
「灰牙族族長、ヴァルガ」
大男は槍を地面へ置く。
「我らは、勇者トオルの大地の礼を受ける」
「大地の礼という名前なんですね」
「そなたが争いを望まぬなら、我らも矢を収めよう」
岩壁の上から、弓弦の緊張が一斉に解かれる音がした。
助かった。
俺は全身から力が抜けた。
「では、通っても?」
「それは別の話だ」
力が戻った。
「なぜですか」
「この先の土地は、今の灰牙族にとって命そのものだ」
ヴァルガが立ち上がる。
「事情を話す。集落へ来い」
「危険はありませんか」
「大地の礼を受けた相手を、背から襲うことはない」
「正面からは?」
「そなたは妙なところを気にするな」
「大事なところです」
俺たちは武器を収めた獣人たちに囲まれ、峡谷の奥へ進んだ。
半刻ほど歩くと、岩山の間に小さな集落が現れた。
石と木で作られた家々。
中央には大きな焚き火。
端には畑がある。
しかし、土は乾き、作物の多くが枯れていた。
集落には老人と子どもが多かった。
皆、俺たちを警戒しながら見ている。
小さな狼耳の子どもが、干からびた根菜を抱えて家へ走る。
焚き火の上では、大鍋に湯が沸いていた。
中に入っているのは、数枚の葉と骨だけだった。
「食料不足ですね」
俺が言うと、ヴァルガの背中が固くなった。
「同情はいらん」
「同情ではなく、確認です」
集会所らしい建物へ入る。
中には長い卓と、粗末な椅子。
壁には狩りの道具が並んでいるが、どれも古い。
ヴァルガ、狐耳の女性、セレナ、ミレイユ、俺が卓を囲む。
「彼女は娘のリィナだ」
ヴァルガが狐耳の女性を示す。
「斥候を束ねている」
リィナは腕を組み、俺を見た。
「勇者が本当に無能力とは思わなかった」
「ご期待に添えず申し訳ありません」
「謝ることではない」
「この人、すぐ謝るのです」
セレナが補足した。
「危険を避けるためです」
「ですが、結果として争いを止めます」
「今回だけです」
リィナの視線が少し柔らかくなる。
ヴァルガが卓上へ地図を広げた。
「三月前まで、我らは北の森で狩りをしていた」
地図には、峡谷の北側に広い森林が描かれている。
「だが魔王軍が補給路を築き、森を占領した。獣は逃げ、川はせき止められた」
「王国へ助けを求めなかったのですか」
セレナが尋ねる。
ヴァルガの目が険しくなる。
「求めた」
「返答は?」
「王国領ではない土地へ、兵は出せぬと」
セレナが口を閉じる。
「ならば魔王軍へ従えばよいと、使者は言った」
「王国の使者が?」
「そうだ」
「誰です」
「名は知らん。紋章は持っていた」
ミレイユが地図を見つめる。
「偽者の可能性もあります」
「我らには見分けがつかん。だが、以後王国から商人も来なくなった」
食料がない。
狩場もない。
交易も止まった。
灰牙族は峡谷を通る旅人から通行料を取って生き延びていた。
だが近頃は魔王軍の活動が激しくなり、旅人自体が減っている。
「我らがこの道を守るのは、領土のためではない」
ヴァルガが言う。
「この道を失えば、冬を越せぬ」
なるほど。
俺たちを通せば、王国軍がこの道を利用できると知られる。
魔王軍が報復に来るかもしれない。
逆に通行を拒み続ければ、王国との関係も悪化する。
灰牙族は、どちらにもつけない状態だった。
「必要な食料は、どれくらいですか」
俺が尋ねる。
「施しは受けぬと言った」
「仕事の対価なら?」
ヴァルガの眉が動く。
「仕事」
「この峡谷を通るには、皆さんの案内が必要です。魔王軍の監視を避けられる道も知っているでしょう」
リィナが俺を見た。
「知っていたとして、なぜ教える」
「代わりに食料を支払う」
「護衛を買うということか」
「それだけではありません」
俺は地図を見る。
リュネアまでは西。
灰牙族が狩りをしていた森は北。
その間には、細い川が流れている。
「魔王軍が川をせき止めた場所は、どこですか」
ヴァルガが指を置く。
森の北東。
「補給拠点の近くです」
「水を止める目的は?」
「奴らの荷車が谷を渡れるよう、流れを変えたと聞く」
「そのせいで、この畑の水も減った?」
「そうだ」
俺は集落の畑を思い出す。
土は乾いていた。
だが完全に不毛ではない。
水さえ戻れば作物は育つ。
「リュネアへ向かう途中で、この川の近くを通りますか」
ミレイユが地図を確認する。
「西回りの旧道を使えば、下流へ出ます」
「では、その道を案内してもらう。俺たちは川を調べる。せき止めを壊せるなら壊す」
セレナが驚いて俺を見る。
「魔王軍の補給路へ近づくのですか」
「近づきたくはありません」
「では、なぜ」
「水が戻れば、灰牙族は道を守るために旅人を脅す必要がなくなる。食料を送るだけより、後の問題が少ないでしょう」
前世の仕事でも、一時的な対応だけでは同じ苦情が繰り返された。
漏れた床を拭くだけではなく、配管を直す。
人を増やすだけではなく、作業手順を変える。
原因を放置したまま「支援しました」と報告すると、あとで必ずもっと大きな問題になる。
「さらに、灰牙族と正式に通行契約を結びます」
俺はセレナを見る。
「王国側から食料や道具を買う。その代わり、灰牙族は通行者を守り、魔王軍の動きを報告する」
「国王の許可が必要です」
「今は連絡できますか」
「オラクル網なら」
「では確認してください」
セレナは目を見開いたまま動かなかった。
「どうしました」
「いえ」
彼女はゆっくり息を吐く。
「勇者様は、最初からこの交渉を考えておられたのですか」
「今考えました」
「峡谷へ入った時点では?」
「帰りたかったです」
「包囲されたときは?」
「殺されたくないと思っていました」
「大地の礼は?」
「転びました」
「それでも、相手の事情を知った瞬間、食料を渡すのではなく、対等な契約へ変えた」
「施しは嫌だと言っていたので」
ヴァルガが黙って俺を見ている。
やがて、太い指を卓へ置いた。
「一つ聞く」
「はい」
「そなたが水を戻し、王国との道をつなげば、灰牙族を王国へ従わせられる」
「従わせません」
「なぜ」
「約束を守ってくれれば、それで十分です」
「裏切るとは考えぬのか」
「考えます」
ヴァルガの目が細くなる。
「信じていないのか」
「初対面なので」
リィナが吹き出した。
初めて見せる笑顔だった。
ヴァルガはむしろ感心したように腕を組む。
「では、なぜ契約する」
「お互いに裏切らないほうが得になる形にするからです」
無条件に信じる必要はない。
灰牙族は交易と水が欲しい。
王国は安全な道と情報が欲しい。
双方が契約を守ることで利益を得る。
それなら感情に頼るより長続きする。
「王国から食料が届かなければ、契約は無効」
「当然です」
「我らが旅人を襲えば、支援は止まる」
「そうなります」
「王国軍がこの地を占領しようとした場合は」
「灰牙族は契約を破棄できる」
セレナが俺を見る。
「そこまで約束する権限は、私たちにはありません」
「では、王国へその条件で確認してください」
「陛下が拒否なされたら?」
「別の道を探します」
ヴァルガはしばらく黙った。
やがて大きな手を差し出す。
「勇者トオル」
俺はその手を見る。
俺の手の倍近くある。
握られたら骨が折れそうだ。
「何ですか」
「契約の前に、仮の約束だ」
「手加減してください」
「握手で人間の骨を折るほど、我らは野蛮ではない」
俺は恐る恐る手を握った。
ヴァルガの手は大きく、硬かった。
「灰牙族は、そなたたちを旧道まで案内する」
「ありがとうございます」
「ただし、水を戻すという約束が果たされなければ、二度とこの地へ入れるな」
「俺個人をですか?」
「王国の者すべてだ」
責任が大きくなった。
また逃げられなくなった。
「……努力します」
俺は小さく答えた。
ヴァルガは力強く頷く。
「大地へ額をつけてまで交わした約束だ。そなたなら果たすと信じよう」
「土下座の評価が重すぎる」
その日の夕方。
王都への通信がつながった。
オラクル網の魔晶石に、国王とベルド宰相補佐の姿が浮かぶ。
セレナが交渉内容を説明した。
食料と農具の定期供給。
灰牙族による旅人の護衛。
魔王軍の情報共有。
互いの領地へ兵を置かないこと。
国王は驚いていた。
ベルドだけは、計算するような目で話を聞いている。
『勇者殿』
ベルドが俺へ向き直った。
『灰牙族との関係改善は、王国にとって大きな利となります。しかし、自治を認める条項は慎重に扱わねばなりません』
「では交渉はやめます」
『やめる?』
「こちらだけが得をする条件では、長続きしません。灰牙族が納得しないなら、別の道を探します」
『リュネアへの到着が遅れますぞ』
「遅れても死ぬよりましです」
『魔王軍が勢力を広げる中、一刻の遅れが――』
「だからこそ、ここで新しい敵を増やすべきではありません」
ベルドが黙る。
国王は隣で何度も頷いていた。
『うむ。トオル殿の申すとおりだ』
あっさり認められた。
『王国は灰牙族の自治を認めよう。交易条件については、リュネアの代官を通じて詳細を詰める』
ヴァルガが腕を組んだまま頭を下げる。
「感謝する、アルディア王」
『こちらこそ、我が勇者を迎え入れてくれたことに礼を申す』
「迎え入れたというより、囲まれました」
俺の言葉は誰にも拾われなかった。
通信が終わる。
集落に歓声が広がった。
食料が来る。
川の水が戻るかもしれない。
冬を越せる。
子どもたちが焚き火の周りを走る。
老人たちは泣いていた。
俺はその光景を見ながら、少しだけ安心した。
少なくとも今回は、誰も死ななかった。
「勇者様」
セレナが隣へ立つ。
「見事な外交でした」
「土下座から始まりましたけど」
「争いを避けるため、あえて相手の伝統的な礼を用いた」
「転んだんです」
「己を低くすることで、対等な関係を作った」
「怖かっただけです」
「食料不足を即座に見抜き、施しではなく契約を提案した」
「頬がこけていました」
「川の問題まで解決し、将来の衝突を防ごうとなさった」
「まだ解決していません」
「だから、これから解決するのですね」
何を言っても前向きに変換される。
俺は反論を諦めた。
ミレイユが魔晶石を見つめている。
「どうしました」
「通信が切れる直前、別の信号が入りました」
「王都から?」
「いいえ。発信元は不明です」
魔晶石の表面に、黒い光が走る。
空中へ短い文字列が浮かんだ。
ミレイユが読み上げる。
「『空白の勇者トオルへ。灰牙の地で示した知略、見事なり』」
集会所が静まり返る。
「続きがあります」
文字が切り替わる。
「『次は我が将、千眼のバルダスが、貴様の未来を暴く』」
「未来?」
「『北の石橋にて待つ。逃げるならば、逃げた先で会おう』」
最後に、黒い王冠の紋章が浮かんだ。
ヴァルガの顔が険しくなる。
「魔王軍の挑戦状だ」
セレナは剣の柄へ手を置いた。
「千眼のバルダス。敵の行動を先読みすると言われる魔王軍幹部です」
「断りましょう」
俺は即答した。
「指定された場所へ行く必要はありません」
「ですが、逃げた先で会うと」
「脅しです。相手の言うとおり動いたら危険です」
「では、別の道を?」
「できるだけ遠くへ」
リィナが地図を広げる。
「北の石橋を避けるなら、東の谷を抜ける道がある」
「それでお願いします」
俺は迷わず答えた。
ミレイユは黒い紋章が消えた魔晶石を見つめたまま、静かに言った。
「相手も、あなたがそう判断すると予測している可能性があります」
「では北へ?」
「北へ向かうと考えることまで、予測しているかもしれません」
「では東へ?」
「東を選ぶと見せて、南へ戻ると読む可能性も」
「もう動かないのが一番では?」
「それすら予測の内かもしれません」
逃げる方向を考えるほど、相手の思惑へ近づいていく。
俺は地図の前で頭を抱えた。
逃走に関してだけは、少し自信があった。
だが今度の敵は、俺が逃げることを前提に待っているらしい。




