第2章 逃走経路が必勝陣形になる
勇者に任命された翌朝、俺は王城から逃げ出した。
正確には、逃げ出そうとした。
夜明け前。
王城の客室を抜け、使用人用の階段を下り、厨房の裏口から外へ出るところまでは完璧だった。
前世で避難経路図を作っていた経験が、まさか異世界からの夜逃げに役立つとは思わなかった。
問題は、厨房の裏口を開けた先に、完全武装したセレナが立っていたことだ。
「おはようございます、勇者様」
「おはようございます」
反射的に挨拶を返してしまった。
社会人の悲しい習性だった。
セレナは銀色の鎧ではなく、動きやすそうな革鎧を身につけている。腰には剣。背中には盾。足元には旅装を詰めた鞄。
「ずいぶん早いですね」
「勇者様こそ」
「散歩です」
「荷物をまとめて?」
「長めの散歩です」
「窓からシーツを結んだ縄を垂らして?」
「階段が混んでいた場合の予備です」
セレナは俺の背後を見た。
誰もいない。
夜明け前の厨房に、混雑の気配はなかった。
「なるほど」
納得しないでほしい。
「非常時には複数の退路を用意する。昨日の戦いでもそうでしたが、勇者様は常に最悪の事態を想定しておられるのですね」
「最悪の事態を避けたいだけです」
「だからこそ、敵より先に動ける」
もう訂正する気力もなかった。
王城へ連れ戻された俺は、その日の朝、国王から正式に旅立ちを命じられた。
目的地は王都から北へ二日の場所にある、城塞都市リュネア。
魔王軍の侵攻に備えるため、国境付近の防衛状況を確認するらしい。
確認だけなら専門家に任せるべきだ。
だが王国側は、勇者が姿を見せることに意味があると言った。
俺が歩くだけで兵士の士気が上がる。
俺が食べるだけで民衆が安心する。
俺が眠るだけで「決戦に備えて精神を研ぎ澄ませている」と解釈される。
昨日、緊張で夕食を半分残したところ、
「魔王討伐を前に、あえて飽食を戒めておられる」
と料理長が泣いた。
俺はただ、見たことのない紫色の魚を食べる勇気がなかっただけだ。
リュネアへの旅には、セレナのほか、ミレイユ、護衛騎士六名、荷馬車の御者二名が同行することになった。
国王は百名の兵をつけようとしたが、俺が断った。
目立つし、食費もかかるし、襲われたときの被害も増えるからだ。
するとベルド宰相補佐が、
「大軍はかえって民を不安にさせる。少数で十分と示すことで、勇者様は王国の勝利を確信させようとしている」
と発表した。
結果、出発前の王城前広場には、一万人近い民衆が集まった。
「虚無の先に、勝利はある!」
「空白の勇者、万歳!」
「魔王に死を!」
いつの間にか、俺には「空白の勇者」という呼び名がついていた。
能力鑑定で何も出なかったためらしい。
何もなかった事実だけは正しい。
意味は正反対だが。
「勇者様、民へお言葉を」
セレナに促され、俺は馬車の乗降台へ立った。
無数の視線が集まる。
何か立派なことを言うまで、出発させてもらえそうにない。
「……危険な場所には近づかず、何かあればすぐ逃げてください」
群衆が静まった。
失敗したと思った。
だが次の瞬間、歓声が爆発した。
「民の命を第一に!」
「自らは戦場へ向かいながら、我らには逃げろと!」
「なんという自己犠牲だ!」
「絶対に戻ってきてください、勇者様!」
俺は馬車へ逃げ込んだ。
ミレイユが向かいの席から、冷たい目でこちらを見ていた。
「何ですか」
「いえ。非常に効率よく誤解を生む方だと思いまして」
「俺のせいですか?」
「少なくとも、言葉選びは改善できます」
「何を言っても勝手に英雄的な意味に変換されるんです」
「では黙っていれば?」
「昨日、黙っていたら『揺るがぬ威厳』と言われました」
「……厄介ですね」
ミレイユは少しだけ同情してくれた。
王都の北門を抜けると、景色はすぐに穏やかな農村へ変わった。
青い麦畑。
低い石垣。
緩やかな丘。
遠くには、雪をかぶった山脈が見える。
空は青く、風は涼しい。
魔王が攻めてきている世界とは思えないほど平和だった。
俺は馬車の窓から、何度も後方を確認した。
「追っ手を警戒しておられるのですか?」
セレナが馬上から尋ねた。
「王都へ戻れる道を覚えています」
「進軍前から退路を確認する。さすがです」
「戻ることしか考えていません」
街道はよく整備されていた。
途中には旅人向けの宿場町もあり、王都へ戻る乗合馬車も出ている。
同行者さえいなくなれば、引き返すのは難しくない。
問題は、セレナがほとんど眠らず俺を見守っていることだ。
ミレイユも、俺が本当に無能力なのか調べるため、隙があれば妙な質問をしてくる。
「勇者様」
「はい」
「魔力を持たずに術式へ干渉する方法をご存じですか?」
「知りません」
「異界では魔法を何と呼びます?」
「創作物の中では魔法です」
「創作物?」
「物語です。空を飛んだり、火を出したり」
「異界人は、実在しない術式を体系的に想像している……」
「そこを深読みしないでください」
王都を出て三時間ほど経ったころ、先頭を走っていた騎士が速度を落とした。
前方の街道に、一台の馬車が停まっている。
荷台には樽が積まれ、車輪が泥へ深く沈んでいた。
中年の商人らしい男が、こちらへ両手を振る。
「申し訳ありません! 車輪が外れかけてしまって!」
セレナが馬を進めようとする。
「待ってください」
俺は馬車の窓から顔を出した。
「どうかしましたか?」
「いや、その……」
説明できるほど確信はない。
ただ、何となく気になった。
街道は乾いている。
昨夜、雨は降っていない。
なのに、商人の馬車の車輪だけが泥へ沈んでいる。
道の端から泥を運んで、車輪の周囲へ塗ったようにも見えた。
積まれた樽には商会の印がない。
荷台は重そうなのに、引いている馬は汗をかいていない。
何より、御者台にいる男は助けを求めながら、こちらの人数と武器を数えている。
「近づかないほうがいい気がします」
「根拠は?」
ミレイユが尋ねる。
「車輪の泥が不自然です。それと、馬が疲れていない」
セレナは男へ視線を向けた。
男の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「勇者様。どのように動きますか」
「引き返しましょう」
「引き返す?」
「この道は狭いです。あの馬車を避けて通るより、さっきの分かれ道まで戻って別の道へ行ったほうが安全です」
俺は単純に、怪しいものへ近づきたくなかった。
セレナは後方の騎士へ手を上げた。
「全隊、反転! 第二経路へ移る!」
護衛騎士たちが素早く馬車を囲む。
御者が馬の向きを変えた。
すると、道端の林から鳥が一斉に飛び立った。
いや。
一斉ではない。
右側の林からだけだ。
「伏せて!」
俺が叫ぶのと、矢が飛んできたのはほぼ同時だった。
木々の間から放たれた十数本の矢が、街道へ降り注ぐ。
騎士たちが盾を掲げる。
セレナが俺たちの馬車の横へ入り、剣で二本の矢を弾いた。
「敵襲!」
停まっていた商人の馬車から、武装した男たちが飛び出してくる。
樽の蓋が外れ、中から弓兵が姿を現した。
「本当に待ち伏せだった……」
ミレイユが杖を構えた。
「予測したのでは?」
「怪しいから帰ろうとしただけです!」
林の奥で角笛が鳴った。
前方と右側から敵が現れる。
革鎧を着た人間もいるが、その中には灰色の肌や獣の角を持つ者も混じっていた。
「魔王軍の工作兵です!」
セレナが叫ぶ。
「勇者様、指示を!」
「逃げてください!」
「どちらへ!」
どちらへ。
前は偽装馬車と敵兵。
右は林から弓兵。
後ろは来た道だが、遠くで土煙が上がっている。
別働隊が回り込んでいるのかもしれない。
左側には、低い石垣に囲まれた麦畑。
さらに先には、小さな水路と古い風車小屋が見える。
身を隠せる場所はある。
だが馬車で畑へ入れば、土に車輪を取られる。
「全員で同じ方向へ逃げると狙われます!」
俺は思いついたまま叫んだ。
「馬車は左へ! 騎士は……いや、近づきすぎないでください! 弓が飛んできます!」
セレナの目が鋭くなる。
「護衛二名は馬車に密着! 残りは左右に展開し、射線を分散! ミレイユ殿は風車を遮蔽に魔術支援を!」
俺の曖昧な言葉が、一瞬で作戦へ変換された。
御者が馬を左へ向ける。
馬車が石垣へ近づく。
「止めて!」
「なぜです!」
「石垣をそのまま越えたら車軸が壊れます!」
御者が手綱を引く。
馬車は石垣の直前で急停止した。
後ろから矢が飛んできて、荷台へ突き刺さる。
「では、どうします!」
知らない。
俺は周囲を見回した。
石垣の一部だけ、色が違う。
新しい石で積み直されている。
その先の畑には、車輪の跡が残っていた。
「向こうです! あそこだけ後から直してあります! たぶん農具を運び込む出入り口です!」
セレナが馬を走らせ、色の違う石垣へ剣の腹を叩きつける。
積み直された石が崩れ、荷車一台分の隙間が開いた。
「突破口を確保! 馬車を畑へ!」
御者が馬を走らせた。
馬車は石垣の切れ目を抜け、麦畑へ入る。
護衛騎士が左右へ散り、敵の弓兵を引きつける。
ミレイユが風車小屋の前で杖を掲げた。
「風よ、麦の海を駆けよ!」
突風が畑を横切った。
麦の穂が大きく倒れ、舞い上がった土と葉が敵の視界を塞ぐ。
「勇者様!」
セレナが馬車へ並走する。
「次は!」
「次と言われても!」
目の前には水路がある。
幅は三メートルほど。
古い木橋が架かっているが、馬車が通れば壊れそうだ。
橋の横には、水をせき止める木製の板と、錆びた巻き上げ機がある。
右手から、敵兵が畑へ入ってきた。
後方からも角笛が聞こえる。
このまま橋へ進めば、水路の前で追いつかれる。
「馬車を止めてください!」
御者が驚きながら手綱を引く。
「橋を渡らないのですか?」
「壊れそうです!」
実際、橋板の中央が黒く腐っている。
そこへ敵の工作兵が矢を放った。
矢は橋ではなく、巻き上げ機の縄へ刺さる。
「橋を落とすつもりです!」
セレナが叫ぶ。
敵は俺たちが橋を渡ると予想し、途中で破壊するつもりだったのだ。
危なかった。
「上流か下流へ!」
俺は水路の左右を見る。
上流側は林へ続いている。
下流側には、石造りの小さな水門がある。
水面には枯れ枝が集まっていた。
流れがほとんどない。
「下です! 下流へ!」
「理由は?」
「上流は敵が隠れられます! 下流なら見通せます!」
実際には、それだけではない。
林の上空を飛ぶ鳥が、さっきから一定の場所を避けている。
まだ敵が潜んでいる可能性が高かった。
馬車が水路に沿って下流へ走る。
敵兵も進路を変えた。
セレナたちが後方で戦いながら退く。
俺は馬車の後ろから顔を出した。
敵の一部が橋を渡り、こちら側へ来ている。
残りは対岸を並走していた。
このままでは水門まで追いつかれる。
「何かないのですか!」
御者が叫ぶ。
「俺に聞かないでください!」
だが全員が俺を見ている。
ミレイユまで、杖を構えながら指示を待っていた。
責任が重い。
胃が痛い。
俺は水路の構造を見る。
水門は木と石でできている。
巻き上げ用の大きな歯車。
側面には、赤い警告札のようなものが打ちつけられていた。
文字は読めない。
「ミレイユさん! あの札には何と?」
「『洪水期以外、主水門の開放を禁ず』です!」
「開けたらどうなります?」
「上流の貯水池から水が流れます!」
「どれくらい?」
「この水路が満ちる程度です!」
敵を流せるかもしれない。
だが味方も水路のそばにいる。
「セレナさんたちは?」
「騎士なら退避できます!」
「本当に?」
「訓練しています!」
俺はセレナへ向かって叫んだ。
「水門を開けます! 水路から離れてください!」
セレナは即座に剣を上げた。
「総員、右岸へ退避! 勇者様が地形を利用なさる!」
いや、まだ開ける方法も分からない。
馬車が水門の脇で止まる。
俺は飛び降り、巻き上げ機へ駆け寄った。
大きな鉄の取っ手を握る。
重い。
まったく動かない。
「固い!」
御者の一人が加わる。
二人で押す。
動かない。
敵兵が迫る。
対岸の弓兵がこちらへ矢をつがえた。
ミレイユが防壁を張るが、透明な膜へ矢が刺さるたび、彼女の顔が苦しそうに歪む。
「錆びついています!」
御者が叫んだ。
巻き上げ機の歯車には、茶色い錆が厚くついている。
その根元には、油差し用の小さな穴。
近くに作業小屋がある。
「油を探してください!」
もう一人の御者が小屋へ走る。
俺は取っ手へ体重をかけ続けた。
動かない。
矢が防壁を突き抜け、俺の足元へ刺さる。
「ひっ」
思わず手を離した。
その瞬間、取っ手がわずかに逆回転した。
「今、動きました」
巻き上げ機を見る。
俺たちは開ける方向を間違えていた。
「反対です! こっちへ回す!」
御者と二人で取っ手を引く。
歯車が軋みながら回り始める。
そのとき、作業小屋へ向かった御者が戻ってきた。
手には油壺ではなく、大きな木槌を持っている。
「油はありません!」
「なぜ木槌を?」
「これしか!」
「歯車の錆を叩いてください!」
御者が木槌を振り下ろす。
錆が剝がれ、歯車が一気に回った。
重い水門が持ち上がる。
地面の下から、轟音が響いた。
「離れて!」
全員が水路から飛び退く。
次の瞬間、上流から濁流が押し寄せた。
水路の中にいた敵兵が足を取られ、次々に流される。
対岸を走っていた弓兵も、突然増した水に驚いて隊列を崩した。
だが、それだけではなかった。
古い木橋の支柱が濁流に耐えきれず折れた。
橋の上を渡ろうとしていた敵の増援が、水路へ落ちる。
さらに、最初の街道に停められていた偽装馬車の車輪止めが水に流され、傾斜をゆっくりと下り始めた。
樽を積んだ無人の馬車が、敵の後方部隊へ突っ込んでいく。
敵兵たちが慌てて避ける。
その混乱へ、セレナ率いる騎士たちが側面から突撃した。
「今です! 敵の指揮役を狙え!」
セレナの剣が朝日を反射する。
護衛騎士たちが敵の中央を切り裂いた。
ミレイユの魔法が林の入口を塞ぎ、退路を限定する。
敵は完全に統率を失った。
数分後、残った兵は武器を捨てて逃げていった。
畑に静けさが戻る。
俺は巻き上げ機の横へ座り込んだ。
足が震えている。
「生きてる……」
自分の手足を確認する。
傷はない。
矢も刺さっていない。
知らない間に魔法の才能が目覚めた様子もない。
ただ怖かった。
心臓が喉から出そうだった。
「勇者様!」
セレナが駆け寄ってきた。
鎧には泥と血がついているが、本人に大きな怪我はなさそうだ。
「敵の偽装を一目で見抜き、あえて撤退を選ぶことで伏兵を暴き、部隊を分散させて射線を乱し、最後には水門を利用して敵の陣形そのものを崩す……」
「まとめると俺が全部考えたように聞こえますね」
「違うのですか?」
「怪しい馬車に近づきたくなかった。矢が怖いから散らばってほしかった。橋が壊れそうだから渡らなかった。敵に追いつかれそうだったから水を流した。それだけです」
セレナはしばらく黙っていた。
今度こそ、俺の本質を理解したかもしれない。
「つまり、勇者様は最初から一貫して、味方の被害を避ける判断をなさっていたのですね」
「自分も含めてです」
「ご自身を含めるのは当然です」
セレナはまっすぐ言った。
「指揮官が生き残ることを、恥じる必要はありません」
予想外の答えだった。
彼女なら、勇者は最後まで戦場に残るべきだと言うと思っていた。
「退却は敗北ではありません。死者を増やすだけの突撃より、はるかに価値がある。今日、私たちが一人も欠けなかったのは、勇者様が最初に立ち止まったからです」
俺は返事に困った。
確かに、無理に進んでいたら、偽装馬車のそばで包囲されていた。
橋を渡っていれば、途中で落とされていた。
だが、それは俺が優れた指揮官だったからではない。
ただ怖かったからだ。
「セレナさんが俺の言葉を作戦に変えたんです」
「勇者様が危険を示してくださったからです」
「ミレイユさんが魔法で敵の視界を奪った」
「勇者様が分散を命じたからです」
「水門を開けたのは御者さんたちと一緒です」
「勇者様が使用を決断された」
何を言っても戻ってくる。
「少なくとも」
ミレイユがこちらへ歩いてきた。
彼女の外套は土で汚れ、眼鏡の端には小さな傷が入っていた。
「戦術を組み立てたのはセレナ様です。敵の進路を限定したのは私。水門を動かしたのは御者たち。そして最初に異常を発見したのは、あなたです」
「普通に見れば分かります」
「騎士も魔術師も気づきませんでした」
「たまたまです」
「たまたま気づけるよう、普段から周囲を見ているのでしょう」
ミレイユは街道の方向へ目を向けた。
「鳥の動きも見ていましたね」
「右の林からだけ飛んだので」
「水路で下流を選んだ理由は?」
「上流の鳥が、一か所を避けて飛んでいました。誰か隠れているのかと思って」
ミレイユの表情が変わる。
「セレナ様。林を調べさせてください」
騎士二人が上流側の林へ向かった。
しばらくして、縛られた男を一人連れて戻ってくる。
男の足元には、隠していた弓と角笛。
こちらが上流へ逃げた場合、合図を送って挟撃する役目だったらしい。
セレナが俺を見た。
「そこまで見抜いておられたのですか」
「可能性を考えただけです」
「可能性の段階で動くから、敵の計画を崩せるのですね」
「危なそうなら避けるのは普通では?」
「多くの指揮官は、確証が得られるまで進みます」
ミレイユが静かに言った。
「そして確証を得たときには、手遅れになっている」
前世でも、似たようなことはあった。
異音がする機械を止めようとすると、生産が遅れると言われる。
床が滑りやすいと報告すると、事故が起きていないから問題ないと言われる。
危険を避ければ、何も起きない。
何も起きなければ、避ける必要はなかったと言われる。
だから俺は、問題が起きそうな場所から静かに離れるのが得意になった。
まさか、その臆病さを評価される日が来るとは思わなかった。
「ところで」
俺は周囲を見回した。
「さっきの敵、どうして俺たちがこの道を通ると知っていたんですか?」
空気が変わった。
セレナが捕虜へ目を向ける。
男は口を閉ざしたままだ。
「王都からの出発は、民衆の前で発表されました」
ミレイユが答える。
「目的地も?」
「……勇者様がリュネアへ向かうことは、士気を高めるため公表されました」
「経路は?」
「通常なら、この街道を使います」
「では、待ち伏せされて当然では?」
セレナとミレイユが黙った。
どうやら誰も、その可能性を重く考えていなかったらしい。
「帰りませんか?」
「なぜです」
「敵に行き先が知られているんですよ。次はもっと大勢で来るかもしれません」
「だからこそ、予定外の経路を選ぶ必要があります」
セレナが地図を広げる。
「勇者様は先ほど、第二経路へ移るようお考えでした。あのまま北西の丘陵を抜ければ、主要街道を避けてリュネアへ向かえます」
「俺は王都に戻るつもりでした」
「敵にそう思わせる偽装撤退だったのですね」
「本物の撤退です」
「次の待ち伏せ地点を外すため、あえて南へ向かうと見せた」
「人の帰宅希望を戦術へ変換しないでください」
結局、王都には戻れなかった。
捕虜の尋問と負傷者の確認を終えた一行は、街道を外れ、北西の丘陵地帯へ進んだ。
俺は馬車の中で何度もため息をついた。
しかし、悪いことばかりではない。
敵の待ち伏せがあった以上、リュネアまでの道中は慎重になる。
もしかすると、危険を理由に任務そのものが中止されるかもしれない。
その希望は、昼過ぎに完全に消えた。
丘の上で休憩していると、空から白い鳥が降りてきた。
鳥の首には、透明な小石が結びつけられている。
エルナという若い神官が王都から送った、記録用の魔晶石らしい。
セレナが石へ触れると、空中に半透明の映像が浮かび上がった。
王都の広場。
朝、俺たちを見送った民衆。
中央には、俺の姿が大きく映っている。
『危険な場所には近づかず、何かあればすぐ逃げてください』
俺が実際に言った言葉だった。
だが映像は、そこで不自然に切り替わった。
俺が馬車へ乗り込む場面が映る。
その上へ、荘厳な音楽と文字が重なる。
『民には安息を。我はただ一人、危地へ赴く』
「言ってない!」
俺は立ち上がった。
頭を馬車の天井へぶつけた。
「痛っ!」
映像は続く。
神殿で黒角獣が倒れる瞬間。
今日、セレナたちが敵へ突撃する場面。
水門が開き、濁流が工作兵を押し流す光景。
誰が、いつ撮った。
映像の中で、俺は水門の横に立っていた。
実際には腰が抜けかけていただけなのに、角度のせいで濁流を従えているように見える。
『王都を発った空白の勇者は、魔王軍による卑劣な待ち伏せを事前に看破』
落ち着いた女性の声が説明する。
『敵の退路、地形、伏兵の位置を瞬時に読み切り、一人の犠牲も出すことなく敵部隊を壊滅させました』
「壊滅はさせていません! 逃げた敵もいます!」
「希望を与えるため、分かりやすく編集したのでしょう」
セレナが言う。
「分かりやすさと事実を交換しないでください」
『勇者トオルは、戦いの後、こう語ったと伝えられています』
映像の中の俺が、捕虜を連れて戻る騎士を見つめている。
『確証を得たときには、手遅れになっている』
「それ、ミレイユさんの言葉です!」
ミレイユが眼鏡を押し上げた。
「私の発言が奪われていますね」
「冷静ですね」
「怒っています」
まったくそう見えない。
映像の最後に、王国各地の様子が映った。
酒場で歓声を上げる人々。
勇者の名を叫ぶ兵士たち。
木の棒を剣に見立てて遊ぶ子どもたち。
そして、神殿の塔に立つ若い神官が笑顔で告げる。
『オラクル網により、勇者様のご活躍は王国全土へ届けられます。皆様、次なる勝利をお待ちください!』
映像が消えた。
俺は顔を覆った。
「次がある前提になっている……」
「民の士気は上がるでしょう」
「俺の逃げ場はなくなりました」
セレナは何か言いかけたが、今度は黙った。
少しは申し訳ないと思ってくれたらしい。
一方そのころ。
王都から遥か北。
黒い岩山の奥に築かれた城で、同じ映像を見ている者たちがいた。
長い卓を囲むのは、魔王軍の将たち。
空中に浮かぶ魔晶石の映像には、水門の横に立つトオルの姿が映っている。
「こやつが、異界の勇者か」
牛の角を持つ巨漢が低く唸った。
「魔力反応は?」
卓の最奥から声が響く。
闇の中に座る男の輪郭は、人に近い。
だが、その背後には濃密な魔力が揺らめき、黒い炎のように天井まで昇っていた。
「ありません」
軍師役の魔族が答える。
「王都の召喚直後から監視していましたが、探知晶には一度も映っておりません」
「魔力を持たぬ?」
「それならば、ただの人間です。しかし、我らの待ち伏せを看破し、伏兵を避け、地形を変えて部隊を崩壊させた」
別の将が映像を止める。
トオルが馬車から顔を出し、後方を見ている場面だった。
「出発の時点で、追跡を警戒している」
映像が進む。
トオルが偽装馬車の前で停止を命じる。
「罠へ入る前に反転」
麦畑へ移る。
「射線を分散」
橋の前で停止する。
「破壊工作を予測」
水門が開く。
「我らの進路を利用し、増援ごと排除」
卓を囲む者たちが沈黙した。
「感知できぬのではない」
軍師が囁く。
「奴は、我らに感知させていないのだ」
最奥の男が、ゆっくりと目を開いた。
赤い光が闇の中に浮かぶ。
「名は」
「トオル。王国では、空白の勇者と」
「空白か」
魔王グラウゼルは、映像の中で怯えた顔をしている男を見つめた。
それすらも、敵を油断させるための仮面に見えた。
「監視の優先順位を変更せよ」
「第一王子より上に?」
「国王よりも上だ」
魔王は指先で卓を叩いた。
「次は、奴の逃げ道から潰せ」




