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第2章 逃走経路が必勝陣形になる

 勇者に任命された翌朝、俺は王城から逃げ出した。


 正確には、逃げ出そうとした。


 夜明け前。


 王城の客室を抜け、使用人用の階段を下り、厨房の裏口から外へ出るところまでは完璧だった。


 前世で避難経路図を作っていた経験が、まさか異世界からの夜逃げに役立つとは思わなかった。


 問題は、厨房の裏口を開けた先に、完全武装したセレナが立っていたことだ。


「おはようございます、勇者様」


「おはようございます」


 反射的に挨拶を返してしまった。


 社会人の悲しい習性だった。


 セレナは銀色の鎧ではなく、動きやすそうな革鎧を身につけている。腰には剣。背中には盾。足元には旅装を詰めた鞄。


「ずいぶん早いですね」


「勇者様こそ」


「散歩です」


「荷物をまとめて?」


「長めの散歩です」


「窓からシーツを結んだ縄を垂らして?」


「階段が混んでいた場合の予備です」


 セレナは俺の背後を見た。


 誰もいない。


 夜明け前の厨房に、混雑の気配はなかった。


「なるほど」


 納得しないでほしい。


「非常時には複数の退路を用意する。昨日の戦いでもそうでしたが、勇者様は常に最悪の事態を想定しておられるのですね」


「最悪の事態を避けたいだけです」


「だからこそ、敵より先に動ける」


 もう訂正する気力もなかった。


 王城へ連れ戻された俺は、その日の朝、国王から正式に旅立ちを命じられた。


 目的地は王都から北へ二日の場所にある、城塞都市リュネア。


 魔王軍の侵攻に備えるため、国境付近の防衛状況を確認するらしい。


 確認だけなら専門家に任せるべきだ。


 だが王国側は、勇者が姿を見せることに意味があると言った。


 俺が歩くだけで兵士の士気が上がる。


 俺が食べるだけで民衆が安心する。


 俺が眠るだけで「決戦に備えて精神を研ぎ澄ませている」と解釈される。


 昨日、緊張で夕食を半分残したところ、


「魔王討伐を前に、あえて飽食を戒めておられる」


 と料理長が泣いた。


 俺はただ、見たことのない紫色の魚を食べる勇気がなかっただけだ。


 リュネアへの旅には、セレナのほか、ミレイユ、護衛騎士六名、荷馬車の御者二名が同行することになった。


 国王は百名の兵をつけようとしたが、俺が断った。


 目立つし、食費もかかるし、襲われたときの被害も増えるからだ。


 するとベルド宰相補佐が、


「大軍はかえって民を不安にさせる。少数で十分と示すことで、勇者様は王国の勝利を確信させようとしている」


 と発表した。


 結果、出発前の王城前広場には、一万人近い民衆が集まった。


「虚無の先に、勝利はある!」


「空白の勇者、万歳!」


「魔王に死を!」


 いつの間にか、俺には「空白の勇者」という呼び名がついていた。


 能力鑑定で何も出なかったためらしい。


 何もなかった事実だけは正しい。


 意味は正反対だが。


「勇者様、民へお言葉を」


 セレナに促され、俺は馬車の乗降台へ立った。


 無数の視線が集まる。


 何か立派なことを言うまで、出発させてもらえそうにない。


「……危険な場所には近づかず、何かあればすぐ逃げてください」


 群衆が静まった。


 失敗したと思った。


 だが次の瞬間、歓声が爆発した。


「民の命を第一に!」


「自らは戦場へ向かいながら、我らには逃げろと!」


「なんという自己犠牲だ!」


「絶対に戻ってきてください、勇者様!」


 俺は馬車へ逃げ込んだ。


 ミレイユが向かいの席から、冷たい目でこちらを見ていた。


「何ですか」


「いえ。非常に効率よく誤解を生む方だと思いまして」


「俺のせいですか?」


「少なくとも、言葉選びは改善できます」


「何を言っても勝手に英雄的な意味に変換されるんです」


「では黙っていれば?」


「昨日、黙っていたら『揺るがぬ威厳』と言われました」


「……厄介ですね」


 ミレイユは少しだけ同情してくれた。


 王都の北門を抜けると、景色はすぐに穏やかな農村へ変わった。


 青い麦畑。


 低い石垣。


 緩やかな丘。


 遠くには、雪をかぶった山脈が見える。


 空は青く、風は涼しい。


 魔王が攻めてきている世界とは思えないほど平和だった。


 俺は馬車の窓から、何度も後方を確認した。


「追っ手を警戒しておられるのですか?」


 セレナが馬上から尋ねた。


「王都へ戻れる道を覚えています」


「進軍前から退路を確認する。さすがです」


「戻ることしか考えていません」


 街道はよく整備されていた。


 途中には旅人向けの宿場町もあり、王都へ戻る乗合馬車も出ている。


 同行者さえいなくなれば、引き返すのは難しくない。


 問題は、セレナがほとんど眠らず俺を見守っていることだ。


 ミレイユも、俺が本当に無能力なのか調べるため、隙があれば妙な質問をしてくる。


「勇者様」


「はい」


「魔力を持たずに術式へ干渉する方法をご存じですか?」


「知りません」


「異界では魔法を何と呼びます?」


「創作物の中では魔法です」


「創作物?」


「物語です。空を飛んだり、火を出したり」


「異界人は、実在しない術式を体系的に想像している……」


「そこを深読みしないでください」


 王都を出て三時間ほど経ったころ、先頭を走っていた騎士が速度を落とした。


 前方の街道に、一台の馬車が停まっている。


 荷台には樽が積まれ、車輪が泥へ深く沈んでいた。


 中年の商人らしい男が、こちらへ両手を振る。


「申し訳ありません! 車輪が外れかけてしまって!」


 セレナが馬を進めようとする。


「待ってください」


 俺は馬車の窓から顔を出した。


「どうかしましたか?」


「いや、その……」


 説明できるほど確信はない。


 ただ、何となく気になった。


 街道は乾いている。


 昨夜、雨は降っていない。


 なのに、商人の馬車の車輪だけが泥へ沈んでいる。


 道の端から泥を運んで、車輪の周囲へ塗ったようにも見えた。


 積まれた樽には商会の印がない。


 荷台は重そうなのに、引いている馬は汗をかいていない。


 何より、御者台にいる男は助けを求めながら、こちらの人数と武器を数えている。


「近づかないほうがいい気がします」


「根拠は?」


 ミレイユが尋ねる。


「車輪の泥が不自然です。それと、馬が疲れていない」


 セレナは男へ視線を向けた。


 男の笑顔が、一瞬だけ固まった。


「勇者様。どのように動きますか」


「引き返しましょう」


「引き返す?」


「この道は狭いです。あの馬車を避けて通るより、さっきの分かれ道まで戻って別の道へ行ったほうが安全です」


 俺は単純に、怪しいものへ近づきたくなかった。


 セレナは後方の騎士へ手を上げた。


「全隊、反転! 第二経路へ移る!」


 護衛騎士たちが素早く馬車を囲む。


 御者が馬の向きを変えた。


 すると、道端の林から鳥が一斉に飛び立った。


 いや。


 一斉ではない。


 右側の林からだけだ。


「伏せて!」


 俺が叫ぶのと、矢が飛んできたのはほぼ同時だった。


 木々の間から放たれた十数本の矢が、街道へ降り注ぐ。


 騎士たちが盾を掲げる。


 セレナが俺たちの馬車の横へ入り、剣で二本の矢を弾いた。


「敵襲!」


 停まっていた商人の馬車から、武装した男たちが飛び出してくる。


 樽の蓋が外れ、中から弓兵が姿を現した。


「本当に待ち伏せだった……」


 ミレイユが杖を構えた。


「予測したのでは?」


「怪しいから帰ろうとしただけです!」


 林の奥で角笛が鳴った。


 前方と右側から敵が現れる。


 革鎧を着た人間もいるが、その中には灰色の肌や獣の角を持つ者も混じっていた。


「魔王軍の工作兵です!」


 セレナが叫ぶ。


「勇者様、指示を!」


「逃げてください!」


「どちらへ!」


 どちらへ。


 前は偽装馬車と敵兵。


 右は林から弓兵。


 後ろは来た道だが、遠くで土煙が上がっている。


 別働隊が回り込んでいるのかもしれない。


 左側には、低い石垣に囲まれた麦畑。


 さらに先には、小さな水路と古い風車小屋が見える。


 身を隠せる場所はある。


 だが馬車で畑へ入れば、土に車輪を取られる。


「全員で同じ方向へ逃げると狙われます!」


 俺は思いついたまま叫んだ。


「馬車は左へ! 騎士は……いや、近づきすぎないでください! 弓が飛んできます!」


 セレナの目が鋭くなる。


「護衛二名は馬車に密着! 残りは左右に展開し、射線を分散! ミレイユ殿は風車を遮蔽に魔術支援を!」


 俺の曖昧な言葉が、一瞬で作戦へ変換された。


 御者が馬を左へ向ける。


 馬車が石垣へ近づく。


「止めて!」


「なぜです!」


「石垣をそのまま越えたら車軸が壊れます!」


 御者が手綱を引く。


 馬車は石垣の直前で急停止した。


 後ろから矢が飛んできて、荷台へ突き刺さる。


「では、どうします!」


 知らない。


 俺は周囲を見回した。


 石垣の一部だけ、色が違う。


 新しい石で積み直されている。


 その先の畑には、車輪の跡が残っていた。


「向こうです! あそこだけ後から直してあります! たぶん農具を運び込む出入り口です!」


 セレナが馬を走らせ、色の違う石垣へ剣の腹を叩きつける。


 積み直された石が崩れ、荷車一台分の隙間が開いた。


「突破口を確保! 馬車を畑へ!」


 御者が馬を走らせた。


 馬車は石垣の切れ目を抜け、麦畑へ入る。


 護衛騎士が左右へ散り、敵の弓兵を引きつける。


 ミレイユが風車小屋の前で杖を掲げた。


「風よ、麦の海を駆けよ!」


 突風が畑を横切った。


 麦の穂が大きく倒れ、舞い上がった土と葉が敵の視界を塞ぐ。


「勇者様!」


 セレナが馬車へ並走する。


「次は!」


「次と言われても!」


 目の前には水路がある。


 幅は三メートルほど。


 古い木橋が架かっているが、馬車が通れば壊れそうだ。


 橋の横には、水をせき止める木製の板と、錆びた巻き上げ機がある。


 右手から、敵兵が畑へ入ってきた。


 後方からも角笛が聞こえる。


 このまま橋へ進めば、水路の前で追いつかれる。


「馬車を止めてください!」


 御者が驚きながら手綱を引く。


「橋を渡らないのですか?」


「壊れそうです!」


 実際、橋板の中央が黒く腐っている。


 そこへ敵の工作兵が矢を放った。


 矢は橋ではなく、巻き上げ機の縄へ刺さる。


「橋を落とすつもりです!」


 セレナが叫ぶ。


 敵は俺たちが橋を渡ると予想し、途中で破壊するつもりだったのだ。


 危なかった。


「上流か下流へ!」


 俺は水路の左右を見る。


 上流側は林へ続いている。


 下流側には、石造りの小さな水門がある。


 水面には枯れ枝が集まっていた。


 流れがほとんどない。


「下です! 下流へ!」


「理由は?」


「上流は敵が隠れられます! 下流なら見通せます!」


 実際には、それだけではない。


 林の上空を飛ぶ鳥が、さっきから一定の場所を避けている。


 まだ敵が潜んでいる可能性が高かった。


 馬車が水路に沿って下流へ走る。


 敵兵も進路を変えた。


 セレナたちが後方で戦いながら退く。


 俺は馬車の後ろから顔を出した。


 敵の一部が橋を渡り、こちら側へ来ている。


 残りは対岸を並走していた。


 このままでは水門まで追いつかれる。


「何かないのですか!」


 御者が叫ぶ。


「俺に聞かないでください!」


 だが全員が俺を見ている。


 ミレイユまで、杖を構えながら指示を待っていた。


 責任が重い。


 胃が痛い。


 俺は水路の構造を見る。


 水門は木と石でできている。


 巻き上げ用の大きな歯車。


 側面には、赤い警告札のようなものが打ちつけられていた。


 文字は読めない。


「ミレイユさん! あの札には何と?」


「『洪水期以外、主水門の開放を禁ず』です!」


「開けたらどうなります?」


「上流の貯水池から水が流れます!」


「どれくらい?」


「この水路が満ちる程度です!」


 敵を流せるかもしれない。


 だが味方も水路のそばにいる。


「セレナさんたちは?」


「騎士なら退避できます!」


「本当に?」


「訓練しています!」


 俺はセレナへ向かって叫んだ。


「水門を開けます! 水路から離れてください!」


 セレナは即座に剣を上げた。


「総員、右岸へ退避! 勇者様が地形を利用なさる!」


 いや、まだ開ける方法も分からない。


 馬車が水門の脇で止まる。


 俺は飛び降り、巻き上げ機へ駆け寄った。


 大きな鉄の取っ手を握る。


 重い。


 まったく動かない。


「固い!」


 御者の一人が加わる。


 二人で押す。


 動かない。


 敵兵が迫る。


 対岸の弓兵がこちらへ矢をつがえた。


 ミレイユが防壁を張るが、透明な膜へ矢が刺さるたび、彼女の顔が苦しそうに歪む。


「錆びついています!」


 御者が叫んだ。


 巻き上げ機の歯車には、茶色い錆が厚くついている。


 その根元には、油差し用の小さな穴。


 近くに作業小屋がある。


「油を探してください!」


 もう一人の御者が小屋へ走る。


 俺は取っ手へ体重をかけ続けた。


 動かない。


 矢が防壁を突き抜け、俺の足元へ刺さる。


「ひっ」


 思わず手を離した。


 その瞬間、取っ手がわずかに逆回転した。


「今、動きました」


 巻き上げ機を見る。


 俺たちは開ける方向を間違えていた。


「反対です! こっちへ回す!」


 御者と二人で取っ手を引く。


 歯車が軋みながら回り始める。


 そのとき、作業小屋へ向かった御者が戻ってきた。


 手には油壺ではなく、大きな木槌を持っている。


「油はありません!」


「なぜ木槌を?」


「これしか!」


「歯車の錆を叩いてください!」


 御者が木槌を振り下ろす。


 錆が剝がれ、歯車が一気に回った。


 重い水門が持ち上がる。


 地面の下から、轟音が響いた。


「離れて!」


 全員が水路から飛び退く。


 次の瞬間、上流から濁流が押し寄せた。


 水路の中にいた敵兵が足を取られ、次々に流される。


 対岸を走っていた弓兵も、突然増した水に驚いて隊列を崩した。


 だが、それだけではなかった。


 古い木橋の支柱が濁流に耐えきれず折れた。


 橋の上を渡ろうとしていた敵の増援が、水路へ落ちる。


 さらに、最初の街道に停められていた偽装馬車の車輪止めが水に流され、傾斜をゆっくりと下り始めた。


 樽を積んだ無人の馬車が、敵の後方部隊へ突っ込んでいく。


 敵兵たちが慌てて避ける。


 その混乱へ、セレナ率いる騎士たちが側面から突撃した。


「今です! 敵の指揮役を狙え!」


 セレナの剣が朝日を反射する。


 護衛騎士たちが敵の中央を切り裂いた。


 ミレイユの魔法が林の入口を塞ぎ、退路を限定する。


 敵は完全に統率を失った。


 数分後、残った兵は武器を捨てて逃げていった。


 畑に静けさが戻る。


 俺は巻き上げ機の横へ座り込んだ。


 足が震えている。


「生きてる……」


 自分の手足を確認する。


 傷はない。


 矢も刺さっていない。


 知らない間に魔法の才能が目覚めた様子もない。


 ただ怖かった。


 心臓が喉から出そうだった。


「勇者様!」


 セレナが駆け寄ってきた。


 鎧には泥と血がついているが、本人に大きな怪我はなさそうだ。


「敵の偽装を一目で見抜き、あえて撤退を選ぶことで伏兵を暴き、部隊を分散させて射線を乱し、最後には水門を利用して敵の陣形そのものを崩す……」


「まとめると俺が全部考えたように聞こえますね」


「違うのですか?」


「怪しい馬車に近づきたくなかった。矢が怖いから散らばってほしかった。橋が壊れそうだから渡らなかった。敵に追いつかれそうだったから水を流した。それだけです」


 セレナはしばらく黙っていた。


 今度こそ、俺の本質を理解したかもしれない。


「つまり、勇者様は最初から一貫して、味方の被害を避ける判断をなさっていたのですね」


「自分も含めてです」


「ご自身を含めるのは当然です」


 セレナはまっすぐ言った。


「指揮官が生き残ることを、恥じる必要はありません」


 予想外の答えだった。


 彼女なら、勇者は最後まで戦場に残るべきだと言うと思っていた。


「退却は敗北ではありません。死者を増やすだけの突撃より、はるかに価値がある。今日、私たちが一人も欠けなかったのは、勇者様が最初に立ち止まったからです」


 俺は返事に困った。


 確かに、無理に進んでいたら、偽装馬車のそばで包囲されていた。


 橋を渡っていれば、途中で落とされていた。


 だが、それは俺が優れた指揮官だったからではない。


 ただ怖かったからだ。


「セレナさんが俺の言葉を作戦に変えたんです」


「勇者様が危険を示してくださったからです」


「ミレイユさんが魔法で敵の視界を奪った」


「勇者様が分散を命じたからです」


「水門を開けたのは御者さんたちと一緒です」


「勇者様が使用を決断された」


 何を言っても戻ってくる。


「少なくとも」


 ミレイユがこちらへ歩いてきた。


 彼女の外套は土で汚れ、眼鏡の端には小さな傷が入っていた。


「戦術を組み立てたのはセレナ様です。敵の進路を限定したのは私。水門を動かしたのは御者たち。そして最初に異常を発見したのは、あなたです」


「普通に見れば分かります」


「騎士も魔術師も気づきませんでした」


「たまたまです」


「たまたま気づけるよう、普段から周囲を見ているのでしょう」


 ミレイユは街道の方向へ目を向けた。


「鳥の動きも見ていましたね」


「右の林からだけ飛んだので」


「水路で下流を選んだ理由は?」


「上流の鳥が、一か所を避けて飛んでいました。誰か隠れているのかと思って」


 ミレイユの表情が変わる。


「セレナ様。林を調べさせてください」


 騎士二人が上流側の林へ向かった。


 しばらくして、縛られた男を一人連れて戻ってくる。


 男の足元には、隠していた弓と角笛。


 こちらが上流へ逃げた場合、合図を送って挟撃する役目だったらしい。


 セレナが俺を見た。


「そこまで見抜いておられたのですか」


「可能性を考えただけです」


「可能性の段階で動くから、敵の計画を崩せるのですね」


「危なそうなら避けるのは普通では?」


「多くの指揮官は、確証が得られるまで進みます」


 ミレイユが静かに言った。


「そして確証を得たときには、手遅れになっている」


 前世でも、似たようなことはあった。


 異音がする機械を止めようとすると、生産が遅れると言われる。


 床が滑りやすいと報告すると、事故が起きていないから問題ないと言われる。


 危険を避ければ、何も起きない。


 何も起きなければ、避ける必要はなかったと言われる。


 だから俺は、問題が起きそうな場所から静かに離れるのが得意になった。


 まさか、その臆病さを評価される日が来るとは思わなかった。


「ところで」


 俺は周囲を見回した。


「さっきの敵、どうして俺たちがこの道を通ると知っていたんですか?」


 空気が変わった。


 セレナが捕虜へ目を向ける。


 男は口を閉ざしたままだ。


「王都からの出発は、民衆の前で発表されました」


 ミレイユが答える。


「目的地も?」


「……勇者様がリュネアへ向かうことは、士気を高めるため公表されました」


「経路は?」


「通常なら、この街道を使います」


「では、待ち伏せされて当然では?」


 セレナとミレイユが黙った。


 どうやら誰も、その可能性を重く考えていなかったらしい。


「帰りませんか?」


「なぜです」


「敵に行き先が知られているんですよ。次はもっと大勢で来るかもしれません」


「だからこそ、予定外の経路を選ぶ必要があります」


 セレナが地図を広げる。


「勇者様は先ほど、第二経路へ移るようお考えでした。あのまま北西の丘陵を抜ければ、主要街道を避けてリュネアへ向かえます」


「俺は王都に戻るつもりでした」


「敵にそう思わせる偽装撤退だったのですね」


「本物の撤退です」


「次の待ち伏せ地点を外すため、あえて南へ向かうと見せた」


「人の帰宅希望を戦術へ変換しないでください」


 結局、王都には戻れなかった。


 捕虜の尋問と負傷者の確認を終えた一行は、街道を外れ、北西の丘陵地帯へ進んだ。


 俺は馬車の中で何度もため息をついた。


 しかし、悪いことばかりではない。


 敵の待ち伏せがあった以上、リュネアまでの道中は慎重になる。


 もしかすると、危険を理由に任務そのものが中止されるかもしれない。


 その希望は、昼過ぎに完全に消えた。


 丘の上で休憩していると、空から白い鳥が降りてきた。


 鳥の首には、透明な小石が結びつけられている。


 エルナという若い神官が王都から送った、記録用の魔晶石らしい。


 セレナが石へ触れると、空中に半透明の映像が浮かび上がった。


 王都の広場。


 朝、俺たちを見送った民衆。


 中央には、俺の姿が大きく映っている。


『危険な場所には近づかず、何かあればすぐ逃げてください』


 俺が実際に言った言葉だった。


 だが映像は、そこで不自然に切り替わった。


 俺が馬車へ乗り込む場面が映る。


 その上へ、荘厳な音楽と文字が重なる。


『民には安息を。我はただ一人、危地へ赴く』


「言ってない!」


 俺は立ち上がった。


 頭を馬車の天井へぶつけた。


「痛っ!」


 映像は続く。


 神殿で黒角獣が倒れる瞬間。


 今日、セレナたちが敵へ突撃する場面。


 水門が開き、濁流が工作兵を押し流す光景。


 誰が、いつ撮った。


 映像の中で、俺は水門の横に立っていた。


 実際には腰が抜けかけていただけなのに、角度のせいで濁流を従えているように見える。


『王都を発った空白の勇者は、魔王軍による卑劣な待ち伏せを事前に看破』


 落ち着いた女性の声が説明する。


『敵の退路、地形、伏兵の位置を瞬時に読み切り、一人の犠牲も出すことなく敵部隊を壊滅させました』


「壊滅はさせていません! 逃げた敵もいます!」


「希望を与えるため、分かりやすく編集したのでしょう」


 セレナが言う。


「分かりやすさと事実を交換しないでください」


『勇者トオルは、戦いの後、こう語ったと伝えられています』


 映像の中の俺が、捕虜を連れて戻る騎士を見つめている。


『確証を得たときには、手遅れになっている』


「それ、ミレイユさんの言葉です!」


 ミレイユが眼鏡を押し上げた。


「私の発言が奪われていますね」


「冷静ですね」


「怒っています」


 まったくそう見えない。


 映像の最後に、王国各地の様子が映った。


 酒場で歓声を上げる人々。


 勇者の名を叫ぶ兵士たち。


 木の棒を剣に見立てて遊ぶ子どもたち。


 そして、神殿の塔に立つ若い神官が笑顔で告げる。


『オラクル網により、勇者様のご活躍は王国全土へ届けられます。皆様、次なる勝利をお待ちください!』


 映像が消えた。


 俺は顔を覆った。


「次がある前提になっている……」


「民の士気は上がるでしょう」


「俺の逃げ場はなくなりました」


 セレナは何か言いかけたが、今度は黙った。


 少しは申し訳ないと思ってくれたらしい。


 一方そのころ。


 王都から遥か北。


 黒い岩山の奥に築かれた城で、同じ映像を見ている者たちがいた。


 長い卓を囲むのは、魔王軍の将たち。


 空中に浮かぶ魔晶石の映像には、水門の横に立つトオルの姿が映っている。


「こやつが、異界の勇者か」


 牛の角を持つ巨漢が低く唸った。


「魔力反応は?」


 卓の最奥から声が響く。


 闇の中に座る男の輪郭は、人に近い。


 だが、その背後には濃密な魔力が揺らめき、黒い炎のように天井まで昇っていた。


「ありません」


 軍師役の魔族が答える。


「王都の召喚直後から監視していましたが、探知晶には一度も映っておりません」


「魔力を持たぬ?」


「それならば、ただの人間です。しかし、我らの待ち伏せを看破し、伏兵を避け、地形を変えて部隊を崩壊させた」


 別の将が映像を止める。


 トオルが馬車から顔を出し、後方を見ている場面だった。


「出発の時点で、追跡を警戒している」


 映像が進む。


 トオルが偽装馬車の前で停止を命じる。


「罠へ入る前に反転」


 麦畑へ移る。


「射線を分散」


 橋の前で停止する。


「破壊工作を予測」


 水門が開く。


「我らの進路を利用し、増援ごと排除」


 卓を囲む者たちが沈黙した。


「感知できぬのではない」


 軍師が囁く。


「奴は、我らに感知させていないのだ」


 最奥の男が、ゆっくりと目を開いた。


 赤い光が闇の中に浮かぶ。


「名は」


「トオル。王国では、空白の勇者と」


「空白か」


 魔王グラウゼルは、映像の中で怯えた顔をしている男を見つめた。


 それすらも、敵を油断させるための仮面に見えた。


「監視の優先順位を変更せよ」


「第一王子より上に?」


「国王よりも上だ」


 魔王は指先で卓を叩いた。


「次は、奴の逃げ道から潰せ」


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