第1章 召喚事故なのに神託扱い
俺が触れた瞬間、巨大な水晶が真っ二つに割れた。
神殿に集まっていた百人近い人々が、一斉に息を呑む。
俺は水晶の前で右手を浮かせたまま、しばらく動けなかった。
「……弁償ですか?」
異世界に召喚されて最初に口から出たのが、それだった。
もっと他にあるだろう。
ここはどこですか、とか。
なぜ俺を呼んだんですか、とか。
俺、さっき死にませんでしたか、とか。
だが、二十八年間かけて身についた危機管理の習慣は、未知の世界でも変わらなかった。物を壊した。周囲が黙った。まず責任の所在を確認する。
これは社会人として正しい。
たとえ相手が、金色の冠をかぶった老人や、銀色の鎧を着た女性や、どう見ても魔法使いとしか思えない杖持ちの集団であったとしても。
「弁償……?」
冠の老人が、かすれた声で繰り返した。
その隣に立つ白髭の神官が、震える指で割れた水晶を示す。
「能力鑑定晶が……測定に耐えられず、崩壊した……」
「いや、普通に壊れただけでは?」
俺は足元に散った透明な破片を見た。
水晶は中心から砕けたというより、もともと入っていた細い亀裂に沿って割れたように見える。台座の裏には、何かを拭き取ったような白い粉も残っていた。
近くにいた小太りの神官が、さっと台座の前へ移動する。
「鑑定晶は王国最高峰の聖具です! 壊れるなど、通常ではあり得ません!」
声が一段高い。
額から流れる汗が多すぎる。
通常ではあり得ないことが起きたから驚いているというより、起きる可能性を知っていた人間の反応に見えた。
だが、俺はそれを口にしなかった。
責任問題に巻き込まれそうな空気がしたからだ。
「では、別の道具で測ってもらえますか」
俺が言うと、周囲が再びざわめいた。
「自らの力を疑えと?」
「なんという冷静さだ」
「測定不能の力を前に、少しも驕っておられない……」
違う。
自分の手に何もないことを、俺自身が一番よく分かっているだけだ。
目を覚ましたとき、俺はこの白い石造りの神殿の中央に立っていた。
床には巨大な魔法陣。
周囲には王族らしき人々と、騎士と、神官と、魔術師。
頭の中に神の声が響くこともなければ、視界に能力一覧が表示されることもなかった。
体は以前より軽くなっていない。
筋肉も増えていない。
試しに拳を握ってみたが、月末の残業続きだった会社員の握力しか感じなかった。
俺――佐倉透は、日本の企業で危機管理の仕事をしていた。
事故報告書を読み、苦情対応の手順を作り、何か問題が起きたときに「なぜ事前に防げなかったのか」と聞かれる側の人間だった。
得意だったのは、問題を解決することではない。
問題が起きそうな場所を見つけて、なるべく近づかないことだ。
その日も、駅前で看板の留め具が外れかけているのに気づいた。
危ないと思って歩道の端へ避けた。
そこまではよかった。
避けた先へ、荷物を満載した自転車が突っ込んできた。
俺はさらに避け、濡れた点字ブロックで足を滑らせ、階段から落ちた。
危険を二つ回避して三つ目で死んだ。
危機管理担当者として、あまりにも締まらない最期だった。
そして次に目を覚ますと、異世界で勇者と呼ばれていた。
「お待ちください」
魔術師の列から、一人の女性が前へ出た。
肩まで伸びた黒髪に、細い銀縁の眼鏡。年齢は俺と同じくらいだろうか。紺色の外套には複雑な幾何学模様が刺繍されている。
彼女は周囲の熱狂とは対照的に、割れた水晶を冷静に観察していた。
「鑑定晶の崩壊だけでは、召喚者の能力を断定できません。魔力反応を直接確認します」
「ミレイユ宮廷魔術師。それは勇者様に対して無礼ではないか」
冠の老人の隣に立つ、細身の男が口を挟んだ。
整った顔立ちだが、目だけが笑っていない。
「陛下の御前だからこそ、誤りは避けるべきです」
ミレイユと呼ばれた女性は、俺に向き直った。
「手を」
「痛くないですか?」
「測定するだけです」
「副作用は?」
「ありません」
「過去に事故は?」
「……ありません」
一拍空いた。
なぜ空いた。
「佐倉様」
銀色の鎧をまとった女性騎士が、俺の前で片膝をついた。
明るい金髪を後ろで束ね、青い瞳でまっすぐ俺を見上げている。鎧の胸には、翼を広げた鳥の紋章が刻まれていた。
「ご安心ください。万一、魔術が暴走した場合は、私がお守りいたします」
「万一があるんですね」
「命に代えても」
「そこまでしなくていいです」
俺は思わず即答した。
初対面の人に命を懸けられるのは重すぎる。
女性騎士は目を見開き、やがて深く頭を下げた。
「ご自身の安全より、私の命を案じてくださるとは……」
違う。
俺の検査で人が死んだら、どういう顔をすればいいのか分からないだけだ。
「セレナ様。測定を始めます」
ミレイユが俺の手首をつかんだ。
細い指先が皮膚に触れる。
彼女の手から、冷たい水のようなものが腕へ流れ込んできた。
数秒後。
ミレイユの眉がわずかに動いた。
「どうですか?」
「静かに」
さらに数秒。
彼女は手を離した。
「反応がありません」
神殿の空気が凍った。
俺は少しだけ安心した。
「ですよね。やっぱり何もないんです。では、勇者の件は人違いということで――」
「魔力を完全に遮断している……?」
白髭の神官が呟いた。
「え?」
「宮廷魔術師の探査すら通さぬほど、強固な隠蔽術を常時展開しているということか」
「違います。そもそも魔力が――」
「魔力を感じさせぬ境地。古文書に記された『空白の器』……」
「人の話を聞いてください」
俺の声は、広がるざわめきに呑まれた。
「鑑定不能」
「感知不能」
「聖具を崩壊させるほどの力を、完全に抑え込んでいる」
「これが異界の勇者……!」
ミレイユだけは騒がなかった。
眼鏡の奥から、俺の顔をじっと見ている。
疑っている。
何を疑っているのかは分からないが、この場で唯一、まともな方向に疑ってくれている気がした。
「俺には本当に、何の力もありません」
俺は彼女に向かって、ゆっくり言った。
「剣も使えません。魔法も知りません。体力にも自信がありません。高い所も暗い所も苦手です。戦争なんて絶対に無理です」
沈黙が落ちる。
今度こそ伝わった。
そう思った。
セレナが立ち上がり、胸の前で拳を握る。
「己の力を誇示せず、できぬことを率直に認める。そのうえで、戦いを避ける道を探そうとなさっているのですね」
「かなり違います」
「真の強者ほど、力に溺れぬものです」
「話が進むほど悪化している」
冠の老人――国王らしい――が玉座から立ち上がった。
「異界より招かれし勇者、サクラ・トオル殿」
「佐倉が名字で、透が名前です」
「トオル殿」
「はい」
「我がアルディア王国は今、滅亡の危機に瀕している」
嫌な予感がした。
危機管理の仕事をしていたころ、上司が「率直に言うと」と前置きした案件で、率直に済んだことは一度もない。
「北方の魔族領を統べる魔王グラウゼルが、諸国へ侵攻を開始した。すでに三つの砦が落ち、国境の都市では避難が始まっている」
「大変ですね」
「うむ」
「専門の軍人さんに任せるべきだと思います」
「まさしく、その専門家たちが敗れ続けておる」
「では、もっと専門性の高い方を」
「神託は、異界の勇者こそ魔王を倒すと告げた」
逃げ道が塞がっていく。
俺は神殿の出入り口へ目を向けた。
正面には武装した近衛兵が二列。
左右には神官。
後ろには割れた水晶と壁。
窓は高い。
非常口らしきものはない。
召喚されて十分も経っていないのに、俺はすでに退路を探していた。
「その神託、解釈が間違っている可能性は?」
「三百年に一度の勇者召喚である」
「召喚先の指定ミスは?」
「儀式は成功した」
「事故では?」
「成功した」
国王の声が少し強くなった。
儀式担当者たちの顔を見る。
誰も目を合わせない。
絶対に何か失敗している。
「おそれながら、陛下」
先ほどの細身の男が進み出た。
「民は希望を求めています。異界の勇者が現れたという事実だけでも、崩れかけた軍の士気は蘇りましょう」
この人は俺が戦えるかどうかを気にしていない。
勇者が存在するという話そのものを欲しがっている。
「ベルド宰相補佐」
国王が男の名を呼ぶ。
「すでに神殿外では、召喚成功の報せを待つ民が集まっております。勇者様の御姿を一目見れば、王国は再び一つとなりましょう」
「待ってください」
俺は両手を上げた。
「外に発表する前に、事実確認をしましょう。俺は本当に一般人です。ここで期待を持たせると、あとで失望が大きくなります」
事故報告の基本だ。
初動で都合のいい見通しを発表すると、訂正したときに信用まで失う。
ベルドは、感心したように目を細めた。
「一時の熱狂に流されず、その後の民心まで案じておられる」
「違います」
「ご自身を利用しようとする我々に、あえて警告を与えてくださったのですな」
「そういう立派なものではありません」
「勇者様は、名声を望んでおられない」
周囲の貴族がざわめく。
「無欲だ」
「これほどの力を持ちながら」
「やはり神託は正しかった」
どうして訂正するほど評価が上がるんだ。
この世界には否定形を理解する文化がないのか。
そのとき、神殿の奥から低い振動が響いた。
床に描かれた召喚陣が、淡い紫色に明滅する。
ミレイユが振り返った。
「全員、陣から離れて!」
直後、魔法陣の中央が黒く染まった。
空気が裂ける。
何か巨大なものが、床を押し上げるように現れた。
黒い毛皮。
湾曲した二本の角。
人の背丈を超える肩。
血走った六つの目。
巨大な猪に似た魔物が、召喚陣の中から這い出してきた。
「黒角獣!」
セレナが剣を抜く。
「召喚術の残響に、魔族の転移術が接続されたのか!」
分からない。
説明はあとにしてほしい。
黒角獣が咆哮した。
近くにいた神官たちが吹き飛ばされる。国王の前へ近衛兵が盾を並べた。
セレナが正面から踏み込み、銀の剣を黒角獣の角へ叩きつける。
火花が散った。
黒角獣は止まらない。
「勇者様、お下がりください!」
言われる前から下がっていた。
俺は柱の陰を目指した。
だが、床には割れた水晶の破片が散乱している。踏めば転ぶ。転べば死ぬ。
右を見る。
正面の大扉は逃げ惑う人々で詰まっている。
左の通路は黒角獣の進行方向。
柱の横には、赤い布で覆われた小さな扉がある。
避難口かもしれない。
俺はそこへ走った。
黒角獣がセレナを振り払い、こちらを向く。
六つの目と目が合った。
なぜだ。
この神殿には百人いる。
もっと強そうな人も、偉そうな人もいる。
なぜ一番弱い俺を選ぶ。
「勇者様を狙っている!」
「魔族は脅威を本能で理解したのだ!」
違う。
たぶん一番動きが遅い獲物を選んだだけだ。
黒角獣が床を蹴った。
体が動かなかった。
頭の中では、逃げろと叫んでいる。
しかし、逃げる方向が決まらない。
右は破片。
左は壁。
後ろの小扉には取っ手がない。
代わりに、赤い布の脇から太い縄が垂れている。
緊急時に引くものだ。
たぶん。
日本の感覚なら。
俺は縄をつかみ、力いっぱい引いた。
何も起きない。
「開け!」
もう一度引く。
縄が途中で引っかかる。
黒角獣が迫る。
俺は小扉を諦め、頭を抱えてその場に伏せた。
次の瞬間。
俺の頭上を黒角獣の角が通過した。
角が赤い縄を引っかける。
張り詰めた縄が、天井近くの滑車を回した。
頭上で、金属の軋む音がする。
床に伏せた俺の視界へ、天井から細かな石灰が落ちてきた。
見上げる。
巨大な円形照明が揺れている。
何十本もの魔法灯を吊した、鉄製の豪華な照明器具だ。
その支持鎖の一本に、古い錆が浮いていた。
召喚の振動で亀裂が入ったのだろう。
赤い縄は、照明を上下させるためのものだったらしい。
黒角獣が縄を引いたことで、傷んでいた鎖へ負荷が集中した。
「上!」
俺は叫んだ。
黒角獣が足を止める。
周囲の人々も天井を見た。
支持鎖が切れた。
巨大な円形照明が落下する。
黒角獣は反応し、後方へ跳ぼうとした。
だが、セレナが剣を床へ突き立て、黒角獣の前脚に銀色の鎖を巻きつける。
「逃がしません!」
ミレイユが杖を振る。
照明器具の落下軌道がわずかに変わった。
鉄の輪が黒角獣の胴体へ直撃する。
床が震えた。
何本もの装飾鎖が魔物の体へ絡みつき、巨大な体を石床へ縫い止める。
セレナが跳躍した。
銀の剣が、黒角獣の眉間へ深々と突き刺さる。
魔物は一度大きく痙攣し、動かなくなった。
静寂が訪れる。
俺は床に伏せたまま、頭を上げた。
「……終わりました?」
セレナが剣を抜き、俺の前で片膝をついた。
「お見事です」
「何がですか」
「自らを囮とし、黒角獣の突進を利用して昇降索を引かせ、照明器具の真下へ誘導するとは」
「小さな扉を開けて逃げようとしただけです」
小扉の赤い布が、衝撃で床へ落ちていた。
その下から現れたのは扉ではなく、壁に埋め込まれた清掃用具入れだった。
逃げ道ですらなかった。
「さらに落下に先んじて合図を送り、我々へ連携の機会を与えた」
ミレイユが、切れた鎖と俺を交互に見る。
「照明が落ちると気づいただけです」
「戦場では、その一瞬が勝敗を分けます」
「戦場にした覚えはありません」
白髭の神官が震える声で言った。
「勇者様は、黒角獣が現れる前から天井の劣化にお気づきだったのでは……?」
「今、粉が落ちてきたので見ただけです」
「粉の一粒から全てを見抜いたと」
「増やさないでください」
国王が近衛兵の列を離れ、ゆっくりと俺の前へ歩いてきた。
その目には、先ほどまでなかった確信が宿っている。
まずい。
非常にまずい。
水晶が割れただけなら、まだ事故として処理できた。
だが今は、巨大な魔物が倒れている。
俺は縄を引き、伏せただけだ。
実際に魔物を止めたのはセレナで、落下軌道を修正したのはミレイユだ。
それでも、周囲の人々は俺を見ている。
「トオル殿」
国王が言う。
「そなたは、自らに力がないと申したな」
「はい。今も同じ意見です」
「己の力を誇らず、周囲の力を導き、最小の動きで強敵を討つ。それこそ、我らが待ち望んだ勇者の姿ではないか」
「かなり都合よくまとめましたね」
国王は両手を広げた。
「神託は成就した!」
歓声が神殿を揺らした。
「異界の勇者だ!」
「黒角獣を一撃で!」
「測定不能の力!」
「未来を見通す知略!」
一撃を加えたのは照明器具である。
しかも、とどめを刺したのはセレナだ。
俺は立ち上がり、彼女を指さした。
「倒したのはこの人です」
歓声が少し静まる。
今度こそ正しく伝わる。
セレナは驚いたように俺を見た。
「俺は何もしていません。セレナさんが魔物を止めて、ミレイユさんが照明を動かした。二人がいなければ、俺は死んでいました」
神殿の人々が顔を見合わせる。
セレナは唇を引き結び、深く頭を下げた。
「部下の功績を正しく称え、ご自身は決して手柄を求めない……」
「そうではなく」
「勇者様が道を示してくださらなければ、私の剣は届きませんでした」
ミレイユまで眼鏡を直しながら口を開く。
「少なくとも、落下の合図がなければ被害は増えていました。偶然だけで片づけるのは不正確です」
「ミレイユさん?」
味方だと思っていた人が、緩やかに敵陣へ移動した。
国王が剣を抜く。
俺は反射的に一歩下がったが、国王は剣先を床へ向け、両手で柄を握った。
「アルディア王国第十八代国王、レオルド・アルディアの名において宣言する」
待ってほしい。
宣言はだいたい取り消せない。
「異界より来たりしトオル殿を、王国の正式な勇者に任ずる!」
「辞退します」
「なんという慎み深さだ!」
「明確に断っています!」
「勇者には王国騎士団より、選りすぐりの仲間をつけよう」
「必要ありません」
「富も名誉も、望むままに与える」
「安全な部屋と帰る方法だけください」
「そして――」
国王は、俺の言葉を聞かずに剣を掲げた。
「魔王グラウゼルを討ち、この世界を救ってほしい!」
神殿を割らんばかりの歓声が上がった。
鐘が鳴る。
外からも歓声が聞こえ始める。
誰が伝えたのか、すでに「勇者誕生」の声が王都中へ広がっていた。
俺は頭上を見上げた。
残った照明器具は、どれも頑丈そうだった。
もう一度落ちてきて、すべてをうやむやにしてくれる可能性はない。
逃げ道を探す。
正面には国王。
右には騎士。
左には魔術師。
後ろには清掃用具入れ。
召喚されてから、まだ一時間も経っていない。
それなのに俺は、世界で最も危険な役職へ就職させられていた。




