暗殺者、風呂に入る決意をする
「ちょっと……まだ着かないの?」
数分後、「私」は早くも男の誘いに乗ったことを後悔し始めていた。
行けども行けども山の中、そして前をゆく男は仮にも子供相手に全く歩調を加減しようとせず、どんどん登っていってしまう。
暗殺者として日頃から鍛錬しているつもりの「私」でも、身長差だけはどうしようもない。
私の1.5倍はある男の体躯でスイスイ山道を歩かれては、置いていかれないように歩くのだけで精一杯だった。
「我慢しろ、あと少しだ」
「ちょ……ちょっと待って。ペース早すぎ、ちょ……」
「ああ、ゆっくり登ってきて構わないぞ」
「そういうことじゃなくて……!」
待てよ! と「私」はついつい素の声を出しそうになる。
この男は仮にも子供相手だと言うのに全く容赦も加減もないらしい。
身長ほどもある段差をヒィヒィと越えてゆくと、男がちょっと振り返って言った。
「安心しろ、オンセンは逃げん。子供と違って扱いやすいしな」
いっそ、この男から先に殺してしまおうか――。
「私」は真剣にそう考えながら男の後に齧りついた。
「さぁ、ついたぞ」
へとへとになって更に登山すること5分ほど。
急に視界がひらけ、「私」は目を見開いた。
「わぁ――」
久しぶりに、子供そのものの声が出てしまった。
そこにあったのは、とうとうと湧き出すお湯と、噴き上がる湯気。
なんとか人力で掘って間もないらしい、スコップが突き刺さったままの湯船には、みすぼらしいながらも透明な湯がごぼごぼという音とともに勢いよく湧いていた。
「こっちはまだ未整備なんだがな……湯はちと熱いが、浸かれないほどではない」
男が額に滲んだ汗を拭いながら言った。
「私」は男の顔を見上げた。
「こ、これがオンセン?」
「そうだ、初めて見るはずだ。俺もここに来て初めて見たんだがな――」
男はそこで少しだけ笑った。
「浸かってその心地よさは二度と忘れん。堪えられないぞ」
まだ仕事の途中であるのに――。
「私」はついついゴクリと唾を飲み干してしまった。
「生憎、ここには脱衣所のようなものはない。タオルだけはそこにあるから、脱衣籠に適当に服を脱いで浸かってくれ」
それだけ言い、男はさっさと背を向けて歩き出した。
「あなたはどこへ行くの?」
「男の俺がいたら服が脱ぎづらいだろう。俺はここにいる。わからないことがあったらいつでも言え」
そう言って、男は木陰に背を向けて座り込んだ。
一人残された「私」は、しばしどうしようか考えた。
いくらなんでも、標的に接近しすぎじゃないか。
暗殺者としての「私」がそう警告している。
本来ならばここで何も言わずに姿をくらまして態勢を立て直し、標的にバレないように暗殺するのが得策なはずだった。
だけど――「私」は足元に湧く湯を眺めた。
なぜか「私」には、この湯に浸かれば全ての疲れが癒えるという不思議な直感があった。
それに、ここに浸かるのはあくまでよりよく仕事を完遂するための一環だ。
後で仕事をしておけば、対象に近づきすぎようが誰にも文句は言われないはず――。
しばらく迷って、覚悟を固めた「私」は、落ち着かない気分で服を脱ぎ始めた。
「面白そう!」
「続きが気になる!」
「温泉行きたい!」
「地熱で温まってたら噴き出る蒸気の硫黄成分でジーンズに穴が空いたんだが……」
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