嬰児2
少女は生まれたばかりの子狼達を前に必死に働かない頭を動かそうと試みた。
しかしダメだった。
この状況は余りにも彼女の持つ常識の範囲を超えていた。
「あの」
「どうした?」
「私、人間、だよ?」
混乱しすぎて言葉が上手く出て来なかった。
「だが、汝は『揺り籠』にて育ち、トツキトウカを経て産れ出ただろう?」
「だろう?」と尋ねられても返事に困る。
「揺り籠なんて知らない。私は人間のお母さんから生まれて、日本で16年生きてきたの。私を産んでくれたお母さんのお腹の中に、確かに十月十日いたと思うけど、この湖の中にいたかって聞かれたら答えは『ノー』よ」
狼はさらに首を傾げ、黙考しているようだった。
「我が子よ、汝の言う事は我には難しい。しかし、汝の言う『ニホン』が『揺り籠』であり、『ジュウロクネン』と呼ぶモノが『トツキトウカ』である事は理解した」
自分なりの解釈で納得した狼に、まだ何も納得できない少女は頭を抱える。
そもそも、自分は人間であって、狼ではない。家には母の腕に抱かれた猿みたいな自分の写真もあれば、母子手帳もしっかりと残っている。
伝えたいところはそこなのだが、どうやら狼の思考の大前提は少女が自らの娘である事から、そちらの事に対しては全く頓着していないようだった。
このままではいつまで経っても平行線である事に気付いた少女は早々に己の思考を放棄した。
そして、狼の言葉を反芻する。
十月十日が十六年とはどういう事か。
日はまた上り繰り返す、十進法…
などと取り留めなく考える。
ここは間違っても日本ではない。言葉を喋る狼、それもこれほど大きな狼は知らない。
と言っても実物を見た事もない、彼女の知る狼の知識などたかが知れている。
そしてふと、閃いた。
「ねえ、ここの1日は何時間?」
狼は反対側に首を傾げる。
「『ナンジカン』とは何だ?」
「えっと…」
少女は言葉に詰まった。どうやら時間の概念がないようだ。
そしてふと、自分の左手首に嵌った腕時計の存在を思い出し、慌てて目をやれば、防水でないにもかかわらず、時計の針は順調に秒針を刻んでいた。
少女はは慌てて腕時計を外し、目一杯絞ったスカートの裾で腕時計の水分を拭う努力を試みた。
吸水性よりも撥水性に重きを置いた布地では大して効果は期待できなかったが、しないよりはマシだった。
因みに時計の針は9時5分を示している。午前か午後かまでは残念ながらわからないが、デジタル式の物よりも助かる可能性は高いだろう。
ホッと息をつけば、狼がもの珍しげにぬっと顔を突き出してきた。
「ソレが『ナンジカン』というモノか?」
びくり!と肩が跳ねた。
今の所、危害を加える気がない事は頭で解っていても、身体が自然と強張った。
「えっと、これは時計。因みにダメもとで聞くけど、1年間に何回日くらい日が昇る…とかはわかんないよね…」
「ふむ…イチネンとは季節が一巡りする事であろう。残念ながら、一々数えてはおらぬ」
「ですよね…」
少女はがっくりと項垂れた。
*
結論として、彼女の言う「トツキトウカ」は妊娠して生まれるまでの間の事を指している事が判明した。
それが1年だろうと10年だろうが身籠って、生まれるまでの期間が彼女にとっての「トツキトウカ」だった。
そして、この湖から出てきた少女はこの時より、彼女の「仔」として認められた。
例え少女が認めなくとも、彼女が認めた以上は「娘」であると主張する彼女に少女が最終的に折れる形となった。