《破滅の足音》
第1部 第2章《破滅の足音》
ベルベットの廊下を車椅子のタイヤが滑る音がやけに静かに聞こえる。
詩葉は、手に残された名刺や資料になんとなく目をやっている。紙の束は軽いのに、胸の内はなにか重いものが渦巻いていた。
「珍しいですね」
宮園はしっかりと前を向いたまま、語りかけた。
「なにが?」
「ああいったお話をお受けになることです」
「べつに」
べつに、は詩葉の口癖のようなものだった。それを聞いた宮園はまた口角を上げる。
「楽しみですね」
詩葉は答えない。
居室にたどり着くと、疲れたのか足の力の入らない詩葉を抱えて、ベッドに移乗させた。ようやく張っていた力を抜いて、布団をかけてもらっているその時に、また仄かに頭痛が覗いて、詩葉は顔を顰めた。それを見逃さない宮園ではない。
「お嬢様」
「なに」
調子を伺うようなその仕草が、詩葉は苦手だった。
「頭痛ですか」
「違う」
「先ほどから何度もこめかみに触れておられます」
ばればれだった。しかしそれすらも分かっていた。それでも詩葉は抗いたかった。
「少し疲れただけ」
「では、お昼までお休みになってはいかがですか。声楽のレッスンも控えていることですし」
「大丈夫」
「ですが、」と続ける宮園に、詩葉はサイドテーブルを軽く叩いて止めた。
「やることがあるから出てって」
宮園はそんな姿にも、少しも驚いた様子はない。気分屋のお嬢様の対応にはもう慣れたものだ。
ノートパソコンを引き寄せて、立ち上げる詩葉に宮園は少し目を細めてから言った。
「では、少しでもお身体に変わりがありましたらお呼びください。すぐそこに控えております」
「はいはい」
詩葉の視線はもう宮園には向いていない。既に、大量の通知マークが着いているメールソフトを開いていた。
「それでは、失礼いたします」
一礼した宮園は静かに退室する。
詩葉は、閉まり切った扉を見つめて、息を吐いた。彼女の中にも葛藤はあった。宮園は良くしてくれているからちゃんとその気持ちに応えないと、なんてことも実は思っていたりする。でも、実際目の前にすると上手くいかないのだ。
またひとつ、ため息をついてからメールの受信フォルダを開く。
ほとんどはインディーズレーベルや音楽事務所からの勧誘のメールだ。件名すら流し見して、スクロールしていく。
今日も今日とて、詩葉の心を射止める依頼はないのか、と心を落とす寸前。差出人に見慣れた文字列が目に入った。
『Tony Planets Entertainment』
Tonyといえば、あのアーティストやあのアイドルなんかを輩出している世界的にシェアのあるトップレーベルだ。
件名は『楽曲制作の依頼について』。
詩葉は、震える手でメールを開いた。
『この度、弊社所属アーティストへの楽曲提供につきまして、ご相談させていただきたく存じます』
詩葉に良く打診される事務所所属やレーベル契約の話ではない。正式に仕事として、依頼が来ている。そう自覚した瞬間、胸が高揚するのを感じた。
スクロールすると、納期や楽曲テーマ、アーティストの詳細などが続いている。その中でも詩葉の目に止まったのは、報酬の項目だった。
世界的な音楽家系である天ヶ瀬にとっては、大した金額ではないのかもしれない。
しかし、今までに受けていた個人の依頼から考えると、この金額は目を見張るものがあった。
「宮園」
扉の前に待機しているであろう宮園に声をかけると同時に、使用人呼び出しのベルも鳴らした。
「はい、お呼びでしょうか」
宮園は音も立てずに、すぐに詩葉の傍に寄ってきた。
詩葉は無言で、ノートパソコンの液晶を宮園の方に向ける。
興味深そうに、それを覗いた宮園はあからさまに口角を上げた。
「すごいじゃないですか」
「これ、ほんとかな。スパムとかじゃない?」
宮園は仕事用のスマホを取り出して、何かを調べ始める。
「はい。きっちりTonyの正式なメールアドレスから送られています」
「マジで……」
詩葉は普段の語彙力すら無くなるくらい驚いていた。次に、報酬の項目へスクロールし、金額を指さす。
「これ、桁間違ってない?」
「いいえ、間違っていませんね。大手レーベルからの依頼で、作詞と作編曲もとなると、この位の金額は妥当です」
詩葉は黙っていた。フリーズ状態に近かっただろう。現実を現実と受け止めるのに、時間がかかった。宮園はただ待っていた。
「これ、」
「はい」
「資料、印刷して」
ようやっと開いた口から出てきた肯定的な言葉に、宮園はふ、と笑って了承した。
「受けられるおつもりですか」
「……まだ決めたわけじゃない」
「お顔はもう決めたとおっしゃっていますが」
「うるさい」
宮園は笑みを深めるだけで、それ以上は何も言わずに、ノートパソコンを受け取って部屋を出ていった。
ほ、とひとつ息をついて、頭のほうを少しあげた状態の電動ベッドに背を預ける。顔にこそ出さなかった(宮園にはバレていた)が、胸の高まりが抑えきれなかった。
ベル・アイリスとして活動を始めてから、世界が一気に変わっていく。
その時。
──ずきん。
朝に感じたものとは少し性質の違う鋭い痛みが頭に走った。思わず、また、こめかみに手を当ててしまう。その指の爪が白くなるほどに強く。
呼吸が浅くなって、冷や汗が流れる。
リズム良く叩かれた扉の音に、気づくこともできなかった。
扉を開けた宮園は、すぐにその異変に気づいた。今しがた印刷してきた資料を雑にテーブルに置いて、詩葉に駆け寄る。
「頭痛ですか」
詩葉は軽く頷いた。それだけの動作でも、頭痛が悪化するような気がして、唇を噛む。
「すぐにロキソニンをお持ちします」
宮園はさっと立ち上がり、同じ部屋の中の鍵付きの薬棚を開ける。ロキソニンの入った引き出しを瞬時に見極め、一錠取り出した。
「こちらを。お水もあります」
詩葉はきつく眉を寄せたまま、手のひらを差し出した。置かれた錠剤を乱暴に口に放り込み、水で流し込む。
「っはぁ……」
「横になりましょう。三十分ほどで効いてくるかと」
宮園は一言断りを入れて、電動ベッドの頭を下げて、フラットにする。
頭を抱えるように、横向きに丸まった詩葉はぎゅっと目を閉じた。
これで治まる。
いつもそうだ。
そう思うのに、胸のどこかで嫌な予感を覚えていた。
布団から、片手だけが伸びてくる。宮園がぎゅっとその手をつかむと、その倍以上の力で握りこまれる。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
根拠などない。それでも、そう思いたくて、口をついてしまった。
十分。
唸る詩葉に、宮園はインカムで紗和に保冷剤を持ってこさせた。
薄くタオルに包んで、痛がっているこめかみのあたりに宛てる。わずかに呼吸が深くなった気がしたが、顔の歪みは戻らない。
二十分。
「お嬢様、少しお水を飲めますか」
「いら、な……」
水すらも拒否するのは、吐き気があるのか、それとも起き上がることすら出来ないのか。
詩葉の言葉には頷いたものの、念の為、今度は真帆に吸い飲みの用意をさせた。
「まぶ、し……」
「……あぁ、光ですか」
小さく呟くように言った詩葉に、宮園は立ち上がり、居室の一級遮光のカーテンを全て閉め、部屋の明かりも消した。真っ暗になったなかでも、宮園はまっすぐに詩葉の元に戻る。
詩葉の手の握る力は、抜けないままだった。冷や汗が滴り落ちる度に、宮園が優しく拭っている。
2人とも、どこかで気づいていた。
───ただの、頭痛じゃない。
三十分。
「お嬢様」
「ぅ……」
「治まりませんか」
宮園の声には、珍しく焦りが混じっているように聞こえた。詩葉は力なく首を振る。
「少しも?」
「ん、」
その頷きに、今度は宮園が冷や汗をかいた。
スマホを取り出す手が、ほんの少しだけ震える。表示された連絡先は『多川晴信』。詩葉が生まれた頃からの主治医だ。
「多川先生に連絡します」
「やめ……」
「駄目です。今日だけはわがままは聞いて差し上げられません」
拒否する詩葉を制止して、宮園はコールを鳴らす。目的の人物はすぐに応答した。
「宮園か、どうした」
「お嬢様が強い頭痛を訴えておられます。ロキソニンを服用して30分経ちますが効いていないようで」
電波の先で多川はくぐもった唸りをあげた。
「なにか他に症状は。視界がおかしいとか、四肢の痺れとか」
様々な可能性を考えた指摘。宮園はスマホから耳を離し、詩葉に向き直った。
「お嬢様、わたしの指が見えますか。何本に見えますか」
「……に、」
「手のしびれなどはありますか」
詩葉は薄らと目を開いて、手を開いたり閉じたりする。そして、小さく答えた。
「すこし、」
それを聞いた宮園は、すぐにスマホを耳に当て直し、答えた。
「複視と手のしびれがあります」
「……」
多川が電話の向こうで誰かに話しかける音がする。少し向こうが騒ついたあと、声がこちらに向いた。
「すぐに連れてこい、VIPルームじゃなく、救急だ」
その強い言葉に、宮園はたじろいだ。
いつも詩葉が世話になっている水無瀬総合病院には、両親が多額の寄付をしていて、VIP対応となっている。何度も繰り返した入院も、VIPルームで行われてきたのに、今回は救急。事の大きさを理解した宮園は、多川に短く答えて電話を切った。
「紗和さん、車の用意を。真帆さんはお嬢様の病院セットを持ってきてください」
インカムで伝えられた指示に2人は、すぐに動いた。
「お嬢様、病院に行きます。楽にしてもらいましょう」
いつもの詩葉であれば、ここで拒否するところだが、今回はあまりに辛いのか素直に頷いた。
しかし、自然に車椅子をベッド横につけた宮園には首を横に振った。
「あるける……」
宮園は即答した。
「存じております。しかし今は私の我儘を聞いて乗っていただけませんか」
一言たりとも詩葉を否定はしない。それでも譲れないものがあった。
詩葉もその言葉には、首を振ることができなかったのか、宮園の肩に掴まって車椅子に移乗する。テーブルに広がったTonyの資料だけがこの場に取り残されていた。
「車、玄関前に回してます」
「お、お嬢様、ブランケットをどうぞ」
紗和と真帆の準備も整った。宮園はなるべく揺らさないように車椅子を玄関まで押した。ドアのすぐ傍に付けられたアルファードは詩葉の為に、医療用改造が成されている。後部座席をベッド仕様にして、持ってこさせていた毛布を敷いた。
車椅子で頭を抱えて丸くなった詩葉に一言声をかけてから、優しく抱き上げる。後部座席に横たえさせられた詩葉は、短く唸った。
「出してください、なるべく揺らさないように」
横になった詩葉の隣に腰掛けた宮園は専属ドライバーに指示を出す。空を切るように伸ばされた詩葉の手を掴むと、車は水無瀬総合病院に向かって動き出す。病院までは二十分の道程。やけに遠く感じる。
「偉いですよ、すぐに着きますからね」
詩葉が唸り声を漏らす度に、宮園は声をかける。なんの気休めにもならないだろうと分かってはいるが、声をかけずにはいられなかった。
病院まであと十分というところで、詩葉は今までとは違う唸りをあげた。
「……ぅ、おぇ、」
宮園はすぐに車内のポケットからエチケット袋を取り出す。
「お嬢様、こちらに」
しかし、出てくるものは唾だけ。空嘔吐の音だけが車内を満たした。
「みや、」
「はい、ここにおります」
「吐き、たい」
吐き気が辛いのか、そんなことを言い出した詩葉に宮園は頷いた。
「少し前かがみになってみてください、そうです。そのまま舌を出して」
そうして、一際大きく嘔吐いた詩葉は、消化しきれていない朝食を吐き出した。なかなかの量だったが、それでも一旦吐いたことで、気持ち悪さは軽減したのか、少し安心したように目を伏せた。
十分後、詩葉を乗せたアルファードは、いつも利用する裏口ではなく、救急搬送口にたどり着いた。扉の前にはストレッチャーが用意され、見慣れた顎髭の男が立っている。
「多川先生」
「状態は」
「車内で一度嘔吐がありました」
ぐ、と喉を鳴らす多川の前で、詩葉がストレッチャーに乗せられて、運ばれていく。
「詩葉ちゃん、多川だ。分かるか」
「ん……」
ストレッチャーと共に小走りしながら、多川は詩葉の手を取った。
「握り返せるか」
「ん……」
うめき声のような応えはあるものの、その手が握り返されることはなかった。
「っ、反応が鈍い!すぐMRIに!」
放射線技師がざわざわと動き出す。画像室に運ばれていく詩葉を見守りながら、多川はぎり、と歯を噛み締めた。
「嫌な予感がする」
その小さな呟きに、宮園の胸は酷く波立った。




