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《扉を叩く音》


 起床のアラームがなる前に、天ヶ瀬詩葉は目を覚ました。昨日ベル・アイリスとして投稿した曲の動向が気になって仕方ないのだ。

 居室のカーテンの隙間から朝の淡い光が差し込み、屋敷のキッチンからは仄かにまな板を叩く音と出汁らしき香りが覗いているが、それ以外の物音はしない。詩葉と使用人以外に人がいないのだ。

 詩葉の生まれた天ヶ瀬家は世界的にも有名な音楽家系で、母の陽奏はバイオリニスト、父の成音はピアニスト、母方の祖父に至っては某有名映画シリーズの劇伴も担当した作曲家だ。

 祖父はすでに他界しているが、母と父は常に世界中を飛び回っており、屋敷にいることの方が珍しいくらいだ。

 そんな屋敷の静けさをひしひしと感じながら見た時計の時刻は6時20分。

 もう一度眠ってもいい時間だが、詩葉はまっすぐにサイドテーブルのタブレットに手を伸ばした。SNSのアナリティクスを確認する。

 昨夜、寝る前に確認した時より格段に伸びている。評価やコメントも数え切れないほどだ。

『ベル・アイリスまじ最高』

『深夜に号泣したんだけど』

 コメントのひとつひとつを噛み締めるように読み込んで、リアクションを返していく。

 途中、頭に鈍い痛みを覚えて、咄嗟にこめかみを抑えた。一昨日くらいから続いている頭痛だ。

 宮園には言っていない。言うと面倒なことになることが分かっているからだ。薬の強制、行動の制限。タブレットすら取り上げられてしまうのも目に見えている。

 その時、居室の扉を軽くノックする音が聞こえた。詩葉は、こめかみに当てていた手を下ろす。バレる訳にはいかない。

 軽く返事をすると、入ってきたのは予想通り宮園だった。たくさんの医療器具と紅茶の入ったカップの乗ったワゴンを押してきた宮園は、詩葉の顔を一瞥して、少し眉を下げたような気がしたが、すぐに何事もなかったかのように微笑みを浮かべた。

「詩葉お嬢様、おはようございます。ご気分いかがですか」

 点滴のスタンドと残量を確認しながら、宮園は尋ねる。

「べつに、ふつう」

「…そうですか。では、バイタル取らせていただきますね」

 宮園は手際よく、体温計やパルスオキシメーター、血圧計を取り出す。

「体温計、お願いいたします」

 怠そうに体温計を受け取った詩葉は、それを脇に差し込んで聞いた。

「今日の予定は」

「本日は午前中は予定はありません。午後2時より声楽の松本先生がいらっしゃる予定になっていますが体調次第ですね」

 そんな会話をしている間にバイタルチェックは滞りなく終わった。

「体温35.8℃、SpO2は96%、血圧は89の63。まぁ概ねいつも通りですね」

 ワゴンに器具を片付けながら、宮園は言った。

「どこか具合の悪いところはございますか」

「ないよ」

「そうは見えませんが、まぁ今はいいでしょう」

 詩葉は見透かされたようなその言葉に顔を背けたが、それすらも分かっていたかのように宮園は笑う。

「ですが、もしお身体に変わったことがあればすぐに言ってくださいね。お嬢様が自身のお身体のことをよく分かっていらっしゃるのは知っていますが、わたしの役目はその次にお嬢様を理解する存在であることですから」

 当たり前のことのように、つらつらと述べる宮園に詩葉は嫌そうに顔を歪めた。

「さぁ、まずはお水を。喉が乾いてらっしゃるでしょう」

 ほくほくと湯気を立てる紅茶の前に、宮園は小さなカップに入った常温の水を勧めた。それには抵抗することなく、素直に受け取った詩葉はこくこくと飲み干す。

「はい、ありがとうございます。お紅茶は召し上がられますか。此度はブレックファストティーとなっておりますが」

「朝食と一緒に」

「かしこまりました」

「朝食はどうなさいますか、ここで、それとも食堂に来られそうですか?」

「食堂で」

 了承の意を示した宮園は、手際よく部屋の隅に置かれた車椅子を広げた。

「は?」

「お顔の色が優れないようですので、車椅子の方がいいかと」

 ぎくり、と音がするほど、肩を震わせた詩葉だが、すぐに真顔に戻って、そちらから目を背ける。

「大丈夫、歩くから」

 長期間の臥床により、筋力の落ちた足で立ち上がろうとする詩葉をこれまた当たり前のように宮園が支える。

「ゆっくりで大丈夫ですよ」

 少しよろけながらも、歩き出した詩葉の背に手を添えて、宮園は少し後ろを歩き出す。

 食堂までは普通の人からすれば、大したことのない距離だが、詩葉にとってはマラソンのように長い道のりだ。小さな歩幅で、5分もかけてたどり着いた時には、少し息が上がっていた。

「座ってお待ちください。すぐに朝食をお持ちします」

 宮園に気づかれていることなど承知の上だ。その上で、密かに呼吸を整えた。バレないように深呼吸をする。同時にこんなことで息が上がっている自分に嫌気が刺した。

「こちら、カボチャのポタージュと焼きたてのブリオッシュでございます。デザートにはシャインマスカットをご用意してございます」

 詩葉は、ふーん、と興味なさげにスプーンを取った。

「ポタージュの裏ごしは門田さんがしたと言っていましたよ。腕が取れる〜と呟いていたとか」

 門田真帆。天ヶ瀬の運営する財団が運営する児童養護施設出身の18歳。施設を出る時に行き場のない真帆を成音が屋敷で雇う形にしたのだ。

 まだここに来て数ヶ月で、先輩である外瀬紗和に叱られてばかりだが、根はいい子だと詩葉も理解している。

 ポタージュに手をつけた詩葉は、うん、とひとつ頷く。宮園もその様子を口角を上げて見守っていた。

 その時。

「お食事中にすみません」

 紗和が申し訳なさそうに食堂に顔を出した。名刺らしき紙切れ。

「音楽雑誌『RYTHEM』の方がお嬢様と面会したいと仰っていて」

「断って」

 詩葉は差し出された名刺を見ることも無く言い放った。取材の依頼はこの名家には付き物だった。屋敷の場所まで漏れているせいで、直談判にくる記者も少なくないのだ。

「私もお断りしたのですが、どうしてもと動かれなくて……」

「断りなさい」

 今度は少し強い口調で告げた。しかし紗和でも断りづらいほどの記者とは何者か。

「その、編集長が自ら、昨日のお嬢様の投稿曲を聞いて感銘を受けていらっしゃったと……」

 その言葉に、詩葉の眉が少し上がった。

「しかし、お嬢様は本日体調が優れません。なんとしてでも追い返してください」

 引き下がらない紗和に宮園が口を挟む。紗和も宮園がそう言うなら……と食堂に踵を返そうとした、が。

「待って」

 ナプキンで口を拭った詩葉が手を挙げた。

「お嬢様?」

「通しなさい」

 その言葉は紗和も宮園も意外だったのか、瞠目する。

 詩葉は昨日投稿した曲に他ならない思い入れがあった。それを評価してくれたとあれば、という気持ちだった。

「しかしお嬢様、お身体が……」

「いいじゃない、少しくらい」

 宮園は、うーんと唸ったあと続けた。

「10分だけ、ですよ」

「はいはい」

「それから応接間へは車椅子で、」

「はいはい」

 つまらなさそうに頷いた詩葉に、宮園は軽くため息を吐いて、廊下から車椅子を持ち出した。

 紗和は「ご案内してきます」と食堂を出ていった。

「どうぞ」

 素直に座った詩葉の膝にブランケットを掛けると、応接間まで車椅子を押していく。

 ちょうど応接間へ続く廊下の先に、例の編集長が現れた。

「いやぁ、ベル・アイリスさまとお呼びすればいいのでしょうか。この度はご対応ありがとうございます」

「……入りなさい」

「はい!」

 詩葉曰く『無駄に広い応接間』の上手に詩葉の車椅子が入り込む。いやいや……と、ハンカチで汗を拭きながら下手側に座った編集長は、胸ポケットから名刺を取り出した。

「宮園」

 詩葉はそれを直接は受け取らない。たかが名刺でもなにが仕掛けられているか分からない。

 受け取った宮園は、表裏をよく確認してから詩葉に手渡した。

「わたくし、音楽雑誌『RYTHEM』の編集長をやっている片岡と申します。この度インディーズレーベルからコンピレーションアルバムの制作が決定しまして」

 彼の言葉を聞いた途端、詩葉は急に興味を失った。コンピレーションアルバム、インディーズレーベル。どれも今までに何度も聞いたことのある話。いつも断ってきた案件で、聞き飽きていた。

 しかし、片岡は手元の鞄から、企画資料を取り出して、テーブルに広げた。

「既に決定している参加者にはStardustのベーシストのカイルさんなど……」

「は?」

 その名前を聞いた途端、今度は引き寄せられるように資料に釘付けになった。Stardustのカイルといえば、過去に母・陽奏が協奏して絶賛していたアーティストだ。まだインディーズだが、確かな才能を持っていると、詩葉も目をつけていた。

 詩葉が資料を手に取る中、隣に立つ宮園は壁掛け時計を気にしていた。約束の時間を半分過ぎた。

 その間も編集長は説明を続けた。有名なストリングスグループ。インディーズ界で話題になっているシンガー。期待の新星と言われているピアニスト。そのどれもが詩葉の興味を引いた。極めつけは。

「このアルバムのコンセプトは『夜明け』なんです。1度折れた人がもう一度立ち上がるというテーマで」

 片岡はここ一番の熱量で続けた。

「昨日のベル・アイリスの曲を聴いた時、この人しかないと……」

 そこまで言って、ピピピという電子音が応接間に響いた。宮園が設定していたアラームだ。

「お時間です」

「あっ、すみません」

 片岡は素直に資料を片付け始めた。詩葉はしばらく黙っていたが、居室に戻ろうと車椅子に手をかけた宮園を止めた。

「お嬢様?」

「わたしの名刺」

 その言葉に片岡はぱぁっと顔が明るくなる。

 宮園は胸ポケットに常備している詩葉の『ベル・アイリス』としての名刺を取り出して、片岡に差し出した。

「そこに直通の連絡先が書いてある。詳細あとで送っておいて」

 それだけ言った詩葉は「戻るよ」と短く宮園を促した。

「ありがとうございます!!!」

 応接間に残された片岡は深く頭を下げた。それにひらひらと詩葉は手を振って見せた。


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