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《途切れた旋律》

 処置室に運ばれた詩葉は、看護師によって強い鎮痛剤の注射を受け、少しだけほっとした顔色になった。

 周りを見る余裕が出てきて、初めて自分が置かれている状況を理解する。壁際に立った宮園が珍しく怖い顔を浮かべている。ふと、ポケットからスマホを取りだして、立ち去る。まさか、両親に連絡するのだろうか。いや、まさかという程でもないか。執事として正当な業務だろう。

 その予想は当たっていた。宮園は人目を避けるように処置室を出て、非常階段の踊り場へ向かう。深く息を吸い、乱れかけた心を静めると、宮園は陽奏の番号をタップした。

「奥様?」

「もしもし〜?宮園くん、こっち夜の3時なんだけど〜?」

「存じております。すこし、緊急の連絡がありまして」

 時差があるのは重々承知だ。それに、こんな現実を叩きつけるのは、心軽く居られるものでも無い。それでも報告しなければならない。

 海を超えて、息を飲む音がしっかりと聞こえた。

「詩葉ちゃんに、なにか」

「まだ詳しいことは分かりませんが、強い頭痛を訴えられまして、多川先生に相談したところ、検査が必要とのことで」

 宮園は先程の緊張とは裏腹に淡々と説明した。ここで自分が不安を見せれば、彼らの不安を余計に煽ってしまう。

「検査って、なんの検査? 詩葉ちゃんは話せるの? 意識はある? 宮園くん、ちゃんとそばにいるのよね?」

 矢継ぎ早に投げかけられる問いに、宮園は一つずつ答える言葉を選んだ。強い頭痛、嘔吐、複視、手のしびれ。そして、呼びかけに対する反応が一時的に鈍くなったこと。事実だけを並べているはずなのに、口にするたび、それらが現実として形を持って胸へ沈んでいく。

「現在は鎮痛剤を投与され、MRI検査を受けておられます。意識はございます。私は検査室のすぐ外におります」

「意識があるなら大丈夫なの?」

 縋るような声だった。

 大丈夫だと答えたかった。いつものように、少し休めば治まると。だが、看護師としての知識が、その無責任な言葉を許さなかった。

「……まだ、私からは何とも申し上げられません」

「そんな」

 陽奏の呼吸が乱れる。その向こうで、衣擦れの音と、低い男の声が聞こえた。

「陽奏、代わってくれ」

 電話口に出た成音の声は、普段と変わらず静かだった。

「宮園。多川先生は、何を疑っている」

「明言はされておりません。ただ、複視と手のしびれをお伝えした直後、至急救急へ連れてくるよう指示されました。到着後には握り返しがなく、直ちにMRI検査となっております」

 数秒の沈黙が落ちた。その沈黙だけで、成音が状況の重さを理解したことが伝わった。

「分かった。こちらはすぐに帰国の手配をする」

「旦那様、現在ウィーンは午前三時です。最短の便でも――」

「時間の話はしていない」

 冷静な声だった。しかし、冷たい声ではなかった。

「娘のそばへ戻る。そのために必要な手配をしてくれ。こちらでも動く」

「承知いたしました」

「それから、宮園」

 ひと呼吸置いて、成音は続ける。

「詩葉を一人にするな」

 宮園は、MRI室の扉へ目を向けた。重い扉の向こうで、詩葉は一人、機械の中に横たわっている。

「命に代えましても」

「命までは要らない。二人とも無事でいろ」

 その言葉に、宮園は一瞬だけ目を伏せた。

「……承知いたしました」

 通話が切れる直前、遠くで陽奏の泣き声が聞こえた。

 暗くなったスマートフォンの画面を見つめたまま、宮園はしばらく動けなかった。震えていた指を反対の手で強く握り込み、深く息を吸う。

 今、自分が取り乱すことだけは許されない。

 そう言い聞かせ、表情を整えてMRI室前へ戻ると、ちょうど操作室の扉が開いた。

「天ヶ瀬さんの付き添いの方ですか」

 放射線技師の硬い声に、宮園の足が止まる。

「はい」

「多川先生が、至急お話ししたいと」

 技師はそれ以上、何も言わなかった。ただ、その顔から血の気が失せていることだけは、医療に携わる宮園でなくとも分かった。

 通されたのは、空調の音だけが静かに回るカンファレンスルームだった。MRIの結果と思われる画像が、大型のモニターに掲げられている。

 宮園が来るまで顔を伏せていた多川は、はっと顔を上げて、自身の頬を叩いた。そんな多川の姿を見るのは初めてだ。

「来たか」

「先生」

 二人の間には、ただならぬ緊張感が漂っていた。

「座れ」

「結構です」

 多川からふ、と呆れにも似た声が漏れる。

「お嬢様のもとを離れていますので手短にお願いいたします」

 多川は、大きく息を吐いてから、テーブルに手をついて立ち上がった。モニターに近づき、画像の一部を指さす。

「白く……写っていますね」

 看護師資格を持つ宮園にも、それが正常でないことはすぐに分かった。

「腫瘍ですか」

 宮園は少し声を落として尋ねた。

「違うな。出血でもない。脳梗塞とも所見が一致しない」

 多川は、レーザーポインターで別の場所を指す。

「……炎症、でしょうか」

「その可能性はあるが……」

 多川は珍しく言い淀んだ。

「俺にも、断定は出来ない」

 その言葉は宮園にとって、予想以上に重みを帯びていた。

 詩葉の人生の全てを見てきたわけではない。だが、少なくとも、宮園が詩葉のそばに着いてから、多川がこんなことを言うのは初めてだった。

 どんな症状にも、正確に、そして迅速に対応してくれた。

 多川は、ことり、とレーザーポインターを置いた。

「追加検査をする。他の専門医にも判断を仰がなきゃならん」

「入院……、ですね」

「あぁ。本人への説明、頼めるか。俺も同席する」

 多川がパソコンを操作すると、モニターに映された画像が音も立てずに消える。

「原因が分かるまで、ひとつずつ潰していくしかない」

 その言葉に、宮園は目を閉じて、息を吐いた。

 今日の午後には声楽の講師が控えていた。

 それよりも先に、コンピレーションアルバムの話・Tonyからの依頼の打診。

 ただの日常よりも嬉しい一日のはずだった。

 それが、こんなことになるなんて。

 とん、と多川が宮園の肩を叩く。

 二人は何も言葉を交わすことなく、カンファレンスルームを出た。鍵を閉める音がやけに大きく響く。

 

 詩葉は、一通りの検査を終えて、ようやくいつものVIPルームの広いベッドに横たえられていた。処置のお陰で頭痛は耐えられないほどではなくなっていた。

 強い薬を使ったからか、ただ、心が消耗したからか、まだぼーっとする頭で嫌な可能性だけが逡巡する。

 とんとん、と嫌味のように軽い音が部屋に響いた。返事をする前に扉が開く。

「起きてたか」

「お嬢様」

 多川よりも少し早足で詩葉に近づいた宮園は、その頬に優しく手を触れる。

「お加減はいかがですか」

「さっきより、マシ……」

 その言葉にほっとするものの、《《マシ》》程度なのだという現実が胸を叩く。

 そんな宮園をよそに、詩葉はただ自分の状況が掴めないことに不安を覚えていた。宮園の表情が僅かに硬いことは詩葉にしか分からなかっただろう。

「ねぇ、」

 勇気を振り絞って出されたであろう声は震えていた。

「なにか、あったの」

 予想できた質問だ。だが、実際にその問いに答えるとなると、心が重くなってしまう。しかし、嘘をつくわけにもいかない。我が主はそれを一番嫌いとしているのだから。

「先程のMRIで気になる所見が見つかりました」

 宮園はストレートに嘘のないように、それでもなるべくオブラートに包むように、伝えた。

「腫瘍、とか……?」

「いや、それは違う」

 その質問には多川が答えた。

「ただ、現時点では原因が断定できないんだ」

「……分からない、ってこと?」

「あぁ」

 軽く返ってきたその言葉が、逆に重かった。

 いつも、どんな時でも、自分のことを助けてくれた多川が。分からないと言っていることのその意味を、噛み締めたくなかった。

「お嬢様」

 宮園は不安で胸がいっぱいになっている詩葉の布団の中から震える手を探り出し、ぎゅっと握る。

「本日は入院となります」

「……どれくらい?」

 詩葉の視線は多川に向いた。

「それは分からない」

「一週間?」

「まだ分からん」

「……じゃあ、一ヶ月?」

「……すまんな、それも、まだ分からない」

 詩葉の瞳が潤んでいくのが分かる。それでも涙を零してしまわないように、何とか我慢しているのも、また二人には分かった。

 声楽のレッスンは。コンピレーションアルバムは。Tonyからの依頼の打診は。昨日まで制作途中だった楽曲は。わたしの返事待ちになっている案件は。

 怒涛のように続けられる言葉に、二人は目を伏せる。詩葉の想いが痛いほどわかる。分かるからこそ、辛かった。

「ねぇ……」

 何も答えない二人に、詩葉は懇願するように目を向けた。まだ涙は零れない。

 宮園はベッドサイドに跪く。

「お嬢様」

「宮園……」

「ご不安は全て私が受け止めます。対応が必要な案件も私どもにお任せ下さい」

 「でも……」と拒否を言葉にしようとした詩葉を宮園は遮る。

「大丈夫です。全部、大丈夫」

 詩葉はなにか返そうとして、結局言葉にならなかった。ただ、堪えていた涙がひとつ頬を伝った。

 静かな病室には、ただ心電図モニターの電子音だけが響いていた。

 その少女の未来は、白い病室の天井の向こうへ、静かに遠ざかっていった。

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