リスタンとイゾルデ
四国を逃れ、二人は深夜のフェリーで九州へと向かっていた。
漆黒の海の上、吹きすさぶ潮風が容赦なく体温を奪っていく、冷たい甲板のベンチ。
「……ついに本州も四国も追われた。行き止まりだ」
男は震える手で、自販機で買った9%の安物ストロングチューハイの缶を開けた。
「この海に飛び込めば、借金取りも警察も追ってこられない。……一緒に飲んで、終わりにしよう」
女は無言でチューハイを受け取り、ゴクリと一口飲んだ。
その瞬間、強烈なアルコールと絶望が、彼女の脳内に眠っていた「ゲルマン神話の劇薬」の封印を解いた。
女は突然立ち上がり、夜の海に向かって両手を広げ、朗々たるソプラノで歌い出した。
「ああっ! これは死の薬ぅぅぅ! いや、違うわぁぁぁ! 愛のぉぉ、歓喜のぉぉぉ薬ぅぅぅ!!♪」
男は一瞬ビクッとしたが、チューハイをあおると、彼の中のテノール魂が激しく呼応した。
「おお、イゾルデぇぇ! 忌まわしき昼の光を憎めぇぇ! 永遠の夜にぃぃ、共に抱かれようぞぉぉぉ!!♪」
「トリスタン! 降り注げ、愛の夜よぉぉぉ! 私を忘れさせぇぇ、この身を捧げんんん!!♪」
二人は冷たい甲板の中央で、大げさな身振りを交えながら、ワーグナーの『愛の夜』の二重唱を絶唱し始めた。腹式呼吸に乗った二人の歌声は、エンジンの重低音に負けないほどの声量で夜空に響き渡る。
「死によってのみぃぃ、我らの愛はぁぁぁ、永遠となるのだぁぁぁ!!♪」
男は劇的に胸を押さえ、ついに甲板の冷たい鉄板の上にバタリと仰向けに倒れ込んだ。
「さらばだイゾルデ……俺は、逝くぅぅぅ……(ガクッ)」
愛する者の死を見届けた女は、いよいよこのオペラの最大のハイライト、『愛の死(イゾルデの愛の死)』のソロ・アリアへと突入した。
「穏やかにぃぃ、優しくぅぅ、彼が微笑むのを見てぇぇぇ……♪ どうして皆様にはぁぁ、見えないのぉぉぉ……♪」
女は倒れた男の周りをゆっくりと歩きながら、恍惚の表情で歌い続ける。
男は目を閉じて死を演じていた。しかし、1分経ち、2分経っても、女のアリアは終わる気配がない。それどころか、ますます壮大に盛り上がっていく。
「星のきらめきにぃぃ、包まれてぇぇぇ……♪」
(……なあ、まだか?)
死体であるはずの男が、薄目を開けて小声で尋ねた。
女は歌のテンポを崩さず、しかし冷たい視線だけを男に向けて歌い返した。
「世界がぁぁぁ、息をひきとるぅぅぅ……♪(ちょっと待って、ワーグナーはここから長いのよぉぉ!)」
(いや、甲板、冷たいんだけど。真冬の鉄板だよこれ。背中から熱が奪われていく……)
「愛の絶頂でぇぇ、死ぬんだからぁぁ、我慢しなさいよぉぉぉ! 魂のぉぉ、波にぃぃぃ……♪」
(無理無理無理無理!!)
男はたまらずガバッと起き上がった。
「愛の死の前に低体温症で死ぬわ!! ワーグナーの曲は長すぎんだよ! 最終幕だけでどんだけ時間かかってんだ!」
「あ、ちょっと! アリアの途中で生き返んないでよ! 私一人で歌っててバカみたいじゃない!」
「アホか! そもそもなんでストロングゼロでワーグナー歌ってんだよ! 寒いわ!」
男は激しく背中をさすりながら、現実に完全に引き戻されていた。鼻水をすすりながら、ただの疲れたおっさんの顔になっている。女も、自分の大声で喉が枯れかけていることに気づき、すっと素に戻った。
「……ていうか、こんなことしてる場合じゃないわね。めっちゃ寒いし」
「中に入ろう……カップ麺の自販機あったよな……」
甘美な愛の死への憧れは、瀬戸内海の容赦ない冷気とオペラの尺の長さの前に、あっけなく敗れ去った。背中を丸め、すごすごと船室へ戻ろうとしたその時。
毛布にくるまり、暗い甲板の隅のベンチで仮眠をとっていた長距離トラックの運転手が、寝不足で真っ赤になった目を血走らせてガバッと起き上がった。
「うるせえええ!! お前ら、ワーグナーに謝れ!!」




