推しの子
九州某所。フェリーを降り、あてもなく逃避行を続けた二人が辿り着いたのは、山奥にある閉園した遊園地の廃墟だった。
色褪せたヒーローショー用の野外ステージ。屋根の隙間から差し込む月光だけが、薄汚れ、苔むしたステージをスポットライトのように照らし出している。
「……ここまでだな」
男は、ホームセンターで買ったロープをステージの鉄骨に投げ掛けながら、乾いた声で言った。
「フェリーで本州を離れたが、ついに警察の捜査網が九州にも及んでるらしい。金も完全に底をついた。この廃墟で、一緒に首を吊って終わらせよう」
女はうつむいたまま、黙ってステージの真ん中に歩み出た。
月光を全身に浴びたその瞬間、彼女の脳内で「究極のアイドル」のスイッチが弾けた。
女は突然、片目をウインクし、両手でピースサインを作って満面の笑みを浮かべた。
「みんなー! 今日も笑顔満開! 究極のアイドル、星野アイだよっ☆」
男はロープの結び目を作っていた手をピタッと止めた。しかし、限界まで追い詰められた彼の脳もまた、現実逃避という名のエンターテインメントを欲していた。
「アイ……! そうだ、君は俺たちの手の届かない星だった! なのに、どうして……!」
男は熱狂的なファン、いや、ストーカーの狂気をその身に宿し、見えない包丁を両手で構えてステージに駆け上がった。
「嘘つき! お前は俺たちを裏切ったんだ!!」
男が虚空を突き刺す。女は「あっ……」と声を漏らし、大げさに腹を押さえてステージの床に崩れ落ちた。
「ごめんね……私にとって、嘘はとびきりの愛なんだよ……」
女は血塗られた手(という設定)で男の頬に触れ、虚ろな、しかし慈愛に満ちた目で微笑んだ。
「ああ……やっと言えた。愛してる。……ふふ、これは絶対、嘘じゃない……」
「アイィィィィィィィィ!!!」
男はステージに突っ伏し、天を仰いで絶叫した。
「俺も後を追う! ここで死んで、そして推しの子に転生して、もう一度お前のそばで……!」
男が劇的にロープの輪に首をかけようとした、その時。
「……ちょっと待って」
女がすくっと立ち上がり、服についた埃をパンパンと払い始めた。瞳からアイドルの輝きが完全に消え失せている。
「どうした? 今、感動のクライマックス……」
「いや、冷静に考えて。アイってストーカーに刺された他殺よね?」
「……うん」
「ゴロー先生は崖から突き落とされて他殺。さりなちゃんは病死よね?」
「……まあ、そうだな」
「『推しの子』って、誰も心中なんかしてないじゃない!!」
女の正論が、廃遊園地のステージに冷たく響き渡った。
「それにさ」女はロープを持ったまま呆然とする男を指差した。「私たちがここで死んで転生したとして、誰の子供に生まれるのよ? うちら、ただの会社のお金横領した30代の逃亡犯よ。推してくれるファンなんて一人もいないわよ」
「た、確かに……」
「転生ガチャに成功したとしても、『前世で横領して逃亡の末に廃墟で首吊った記憶』を持ったまま赤ん坊からやり直すのよ? 地獄のニューゲームすぎない?」
男は持っていたロープから手を離した。バサリとロープが床に落ちる。
「……言われてみれば、ただの心中を美化するには、設定が根本的に違いすぎるな」
「でしょ? ぜんぜん愛と死のロマンじゃないわ。ただのリアルな事件よ、これ」
二人はすっかり冷めきった顔を見合わせた。推しの子供に転生する夢想は打ち砕かれ、残ったのは「指名手配中の三十路コンビ」という残酷な現実だけだった。
「……警察、行くか」
「……そうね。豚箱のほうが、まだ雨風しのげるし」
心中する勢いなど、転生モノの理詰めによって見事に消え去っていた。二人がため息をつきながらステージを降りようとした、その時。
観客席の暗がりから、カシャッというシャッター音とともに、ライトがピカッと光った。
そこには、三脚にカメラを構え、廃墟探索の動画撮影に来ていたYouTuberが立っていた。
「……お前ら、推しの子に謝れ!!」




