カルメン
愛媛県、宇和島。
大阪からフェリーと電車を乗り継ぎ、逃避行の果てに二人が辿り着いたのは、ひっそりと静まり返った市営闘牛場だった。
すり鉢状になった客席の底、砂埃の舞う円形の闘牛場に、夕日の赤い光が長く伸びている。
「……ついに、四国まで来ちまったな」
男はすっかりすり減った靴底を見つめ、力なく笑った。
「ニュース見たか? 俺たちの顔写真、ついに全国ネットで流れたよ。手持ちの金も、さっき自販機で買った水で最後だ。……もう、どこにも逃げ道はない」
女は無言のまま、渇いた砂の上に立っていた。その手には、男がかつて誕生日に無理して買ってくれた、小さなダイヤの指輪が光っている。
ふと、女が身につけていた赤いカーディガンを闘牛士のマントのように翻し、情熱的な、それでいてどこか挑発的なステップを踏み始めた。
「恋は野の鳥。誰にも飼いならすことはできないわ……!」
男はハッとした。乾いた砂地、血のような夕日、そして赤い布。この舞台が、男の脳内に眠っていたもう一つの狂気を呼び覚ました。
「カルメン……! おお、カルメン。俺はお前のためなら、悪事にだって手を染めたんだ!」
男はドン・ホセのごとく、苦悩に満ちた表情で女にすがりつこうとした。しかし女は、冷酷なまでに美しい笑みを浮かべて男をかわす。
「あんたの愛は重すぎるのよ。私は縛られるのが大嫌い。自由に生まれ、自由に死ぬわ! 私があなたを愛した時は、用心なさい!」
「俺と一緒に来てくれ! 遠くの国へ逃げて、もう一度やり直すんだ!」
「うるさいわね、もうあんたなんか愛してないわ!」
女はそう叫ぶと、自分の指からあの小さなダイヤの指輪を引き抜き、夕日に向かって高く放り投げた。
キラキラと光を反射しながら、指輪は無情にも闘牛場の砂の中へポフッと埋もれた。
その瞬間、男の表情から悲劇の主人公の面影が消え失せた。
「……おい!! お前、今捨てたの俺がリボ払いで買った指輪だぞ!! まだローン残ってんだぞ! お前、俺のこと本気で愛してないのか!?」
男はカルメンの芝居を半分引きずりつつも、ただのケチな男として激昂し、心中用に買っていた果物ナイフを取り出して女に詰め寄った。
「あんたこそ何よ!!」
女も、カルメンの情熱的な演技から一気に素の関西弁に戻ってブチ切れた。
「ちょっと待ちなさいよ! なんで私だけ刺される流れになってんの!? 心中するんじゃなかったんかい!!」
「いや、ドン・ホセがカルメンを刺して終わるラストシーンだから……!」
「アホか! それじゃただの痴話喧嘩の末の殺人事件やないか! 私はあんたに道連れにされて殺されるんか! ふざけんな!」
「お前が指輪捨てるからだろ! 探せよ! 砂に埋まって見えないだろ!!」
二人は血眼になって砂場を這いつくばり、夕暮れの闘牛場で小さな指輪を探し始めた。
「あーあ、砂まみれじゃない。もう最悪……」
「ローン残高あと12万あるんだぞ……」
息を切らし、砂だらけになった手で指輪を見つけ出した頃には、太陽はすっかり沈んでいた。
手には果物ナイフと、砂まみれの安い指輪。
顔を見合わせる二人。
「……なんか、アホらしくなってきたわね」
「ああ……腹減ったな。警察行く前に、牛丼くらい食いたいな」
情熱的な愛と死の匂いは、砂埃と一緒に完全に吹き飛んでいた。心中する気力など、リボ払いの現実と痴話喧嘩の前にすっかり蒸発してしまったのだ。
「自首するか……」
男がナイフをカバンにしまったその時。
観客席の最上段から、闘牛場の見回りに来ていた地元の管理人のおじいちゃんが、持っていたほうきを振り回してメガホン越しに怒鳴りつけた。
「お前ら、カルメンに謝れ!!」




