曽根崎心中
夜の大阪、曽根崎お初天神(露天神社)。
ビルの谷間にひっそりと佇む神聖な空間だが、一歩外に出れば歓楽街のネオンがギラギラと輝き、居酒屋から漏れる笑い声や客引きの声が絶え間なく響いている。
「……ここまでだな」
男は、境内の隅でコンクリートの玉垣に背中を預け、力なく息を吐いた。
「神戸の埠頭から逃げ出して、とうとうこの街でスッカラカンだ。会社の金を横領したニュースも、そろそろネットで回り始めてる頃だろう。足の裏はマメが潰れて痛いし、もう逃げ切れない」
隣に立つ女も、乱れた髪を直す気力すら失っていた。疲労と絶望で、二人の顔は土気色に沈んでいる。
ふと、女が顔を上げ、周囲の薄暗い木立ちを見つめた。そして、ふらふらと男の前にひざまずき、ひどく艶やかな声を出した。
「未来の夫たる徳兵衛様……」
男はビクッと肩を震わせた。しかし、ここは曽根崎の森。悲劇の恋人たちが永遠の愛を誓って散った、あまりにも有名な舞台である。男の脳裏に、再び演劇のスイッチが入った。
「お初……。金に詰まり、人に裏切られ、もはやこの世に私たちの居場所はない。ならばいっそ、あの世で連理の枝となろう」
男は、自分の横領を「人に裏切られ」と見事に脳内変換し、悲劇の主人公になりきった。女もそれに呼応し、首に巻いていた安物のストールを外し、男の腕と自分の腕をきつく縛り合わせる仕草をした。
「この世のなごり。夜もなごり。死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜……」
二人の声が重なる。浄瑠璃の有名な道行文だ。
「一足ずつに消えてゆく、夢の夢こそあはれなれ……」
彼らは境内の隅で手を取り合い、涙を流した。周囲の喧騒すらも、悲劇を際立たせるお囃子のように感じていた。自分たちは今、純粋な愛と名誉のために命を散らす、美しき徳兵衛とお初なのだ、と。
その時だった。
「ウェーイ!! カラオケ行こやカラオケ!!」
「アカンて、終電なくなるわ! ギャハハハハ!」
「兄ちゃんたち、もう一軒どう!? 飲み放題安くしとくで!」
神社のすぐ脇の路地を、泥酔したサラリーマンの集団と、客引きの甲高い声、そして大音量で流れる流行りのJ-POPが猛烈な勢いで通過していった。あまりにもやかましく、あまりにも生命力に溢れた「大阪の夜の日常」が、二人の悲劇空間を木端微塵に粉砕した。
静寂……いや、相変わらず喧騒は続いているが、二人の間の劇的な空気だけが急速に冷え込んでいった。
「……やめよ」
女が真顔になり、腕に巻きつけていたストールをスルスルと解いた。
「えっ」
「よく考えたら、徳兵衛とお初って20代前半の若者でしょ。親友に騙されて借金背負わされて、名誉を守るために純潔のまま死を選ぶ、可哀想な被害者よ」
女は、さっきまでの艶やかな表情を捨て、男をジト目で睨んだ。
「それに引き換え私たち、三十過ぎて自業自得で会社の金パクって、ただ逃げ疲れただけの加害者じゃない。名誉どころか、ただの犯罪者の逃避行よ。ストールなんかで縛り合わなくても、共犯っていう罪でガチガチに結ばれてるわ」
「……確かに」
男は完全に論破され、足のマメの痛みを急に思い出したように、その場にしゃがみ込んだ。横領犯の中年二人が、純愛の聖地で悲劇を気取るなど、ただの滑稽な喜劇でしかない。心中する勢いは、すっかり大阪の雑踏のノリに飲み込まれて消え去っていた。
「俺たち、ただの疲れたおっさんとおばさんだな……」
二人が深い自己嫌悪とため息に包まれたその瞬間。
ふと気付くと、神社の入り口付近でたむろしていた若者たち、タバコを吸っていた客引き、そして夜の散歩をしていた近所のオバチャンまでもが、二人の痛々しい小芝居をずっと立ち止まって見ていた。
そして、彼らは呆れ果てた顔で、一斉にツッコミを入れた。
「お前ら、近松門左衛門に謝れ!!」




