ロミオとジュリエット
深夜の埠頭。街灯が一つだけ、心許ないオレンジ色の光を投げかけている。波の音が、不気味なほど一定のテンポで岸壁を叩いていた。
「……全部、終わったんだ。」
男が重い口を開いた。彼の瞳には、何の意味も宿っていない。
「会社の金に手を出して、それが露見した。信用も、家族も、将来も……何一つ残っていない。この先、俺が俺として生きていく場所なんて、どこにもないんだ。」
女は静かに男の隣に立っている。彼女の横顔は、死の恐怖よりも深い虚無に覆われていた。彼女が、ふいに空を見上げて口を開いた。
「ああ、ロミオ、ロミオ! どうしてあなたはロミオなの?」
男は一瞬、言葉に詰まった。しかし、その刹那、彼の頭の中にシェイクスピアの言葉が、まるで台本のように滑り込んできた。
「ジュリエットか……そうだな。俺たちは、敵対する家系に生まれたわけじゃないが、社会という巨大な怪物に追われている。」
男は憑かれたように続けた。
「名前に何の意味があるの? 私たちが『バラ』と呼んでいるあの花も、別の名前で呼んだとしても、同じように甘い香りを漂わせるはず。」
女は男の方を向き、微笑んだ。その瞳には、狂気にも似た情熱が灯っていた。
「私の与えられるものは無限です。私の愛は海のように深く、私の贈るものは海のように広い。どれほど与えても、その分だけ与えることができます。どちらも無限なのですから。」
男は女の手を強く握った。現実の冷たさが、この瞬間だけは、恋の情熱という熱に書き換えられた。
「別れはこれほど甘い痛みなので、明日まで『おやすみなさい』と言い続けたいものです。」
二人は、薄汚れた埠頭の隅で、古典劇の登場人物になりきった。死を目前にした陶酔感は、現実を美しい物語の舞台へと昇華させていた。彼らは自分たちが、歴史に名を残す悲劇の恋人たちであると錯覚した。夢のような時間が流れていた。
――ゴォォォォォォォォォォォン。
突如として、沖合を往く巨大貨物船の汽笛が鳴り響いた。
重低音の振動が二人の足元を震わせ、張り詰めていた夢の世界を粉々に打ち砕く。
静寂が戻った。ただ、冷たい風が二人の頬を叩くだけだった。
「……そろそろ、だね。」
男が呟く。先ほどまでの劇的な響きは消え失せ、ただの借金を抱えた中年男の声に戻っていた。
しかし、女はふっとため息をつき、冷めた目で男を見た。
「……待って。やっぱりやめる。」
「え?」
「よく考えたら、ロミオとジュリエットって、ただの10代の暴走よね。数日前に会ったばかりで、早とちりして死んじゃう。あれって愛っていうより、ただの勘違いよね。」
女は急に現実的な顔つきになり、男の腕から手を離した。
「……それに比べて私達は。お互い30過ぎて、関節痛抱えて、会社の金を持ち逃げして行き止まり。バルコニーどころか、魚臭い埠頭の隅っこじゃない。全然違うわ、私達はあんなに美しくない」
男は呆然と女を見つめた。確かに、そうだ。自分たちには、シェイクスピアのような甘美な悲劇性など欠片もなかった。
「……確かに。ただの疲れた大人だな」
男が力なくへたり込んだその時、ずっとテトラポッドの陰で息を潜めていた夜釣りの釣り人が、耐えきれずに立ち上がった。
「お前ら、ロミオとジュリエットに謝れ!」




