両手を肩から吊るす男のお話。
近くの山頂から日が昇った。
雲が足元を駆け回り、僅かに生える高山植物に潤いを与えている。
山間を抜けるように伸びる、踏み固められただけの道を一人の男が歩いていた。
男は旅相応に汚れてはいるが、毛織物の貫頭衣を被り、上等な革のブーツを巻きつけている。つばの広いトンガリ帽子を紐であごに縛り付けていて、色白の肌を日差しから守っている。
旅荷物は少なく、小さな麻の袋を肩から掛けていて、それは岩場に足を取られるたびに左右に揺れている。
麻袋の旅荷物と同じように、左右に揺れる物が男の肩から胸の前に吊るされている。それは親指から小指まで綺麗にそろった手だった。
男はドンドンと進んでいく。足元を雲が流れても気にする様子はない。
男のトンガリ帽子が真上から日差しを受ける頃、道のだいぶ先に座り込んでいる人を見つけた。
よく見ると人影は二つ。
一人は男で、背が高そうだ。もう一人は女で目立つ仮面をつけている。
「どうも。丁度お茶が沸いたところなので、いかがですか? 一杯」と背の高い男が言った。
「このお茶はとっても美味しい。飲んだほうがいい」と仮面の女の子が言った。
二人は険しい山頂を歩む旅人とは思えないほど、のんびりとしている。あまりにも場違いな雰囲気に、トンガリ帽子の男は動揺しつつも、質問した。
「こんな場所で、ドラゴンの棲む山で。お茶ですか?」
焚き火の横に置かれた荷物の中から木製のカップを取り出し、鉄つぼで沸かされたお茶を掬う。それを差し出しながら、「危険な旅ほど、リラックスしなければ」と男は言った。
「ところで。良ければお名前をお聞かせいただけませんか。私はヴァルゴ・アントロポイデス。こちらの愛らしい女の子はニーニ」
ヴァルゴが、カップをそれなりに平らで安定しそうな場所へ置く。
トンガリ帽子の気配が変わった。が、それは一瞬のことで、そしてその場に座り込んだ。
「私は……、ユーロン・ソルト。はじめまして、ヴァルゴ殿。そしてニーニさん」
そう言ってユーロンはお茶をすするために屈み込んだ。うまいと言葉がこぼれた。
心地よい風が耳元を掠め、お茶から立ちこめる湯気を空に広げていく。
ユーロンはもう一口お茶をすすると、唐突に話し始めた。
「ヴァルゴ殿。私の肩から掛かるこの手をどう思われますか」
ヴァルゴは怪訝な表情で、ユーロンの肩から吊るされた手を見た。
その手は色白で、親指から小指まで細く長い。綺麗だが、大きさや骨付きから男性のものだ。手首の辺りを乱雑に叩き切ったのか、切り口がとても荒い。それを革製の紐で括り、吊るしている。
ユーロンが肩をすくめ、合わせて手が動く。
「そうですね。あまり見ない装身具だなと思っていましたが、何か事情があるようですね」
手振りを添えて、良ければと合図する。
ユーロンはヴァルゴ、ニーニを一瞥するとトツトツと語り始めた。
「私は燃えずのソルト家に生まれ、幼い頃から魔法を学び、鍛え、扱ってきました。全てのために、魔物を狩り、精霊を討伐し、魔神を退けてきました。私の手から放たれる炎の魔法は、こういうのもなんだが、強力でした。あらゆる敵を、この手で……」
三口目をすする。だいぶ温くなったお茶は飲み頃だ。
「私は一度、失敗しました。最初で最後の失敗でした。ただ一度の失敗で、それまで築き上げてきた全てを失い、しかし魔法は失わなかった。望みをかなえるのに、十二分な魔力は持っていたのです。やり直そうと思えば、だが、やめました。もう元通りに戻りすることもないと思いました。そして、この手を落としたのです。戒めに吊るしました。そして、もう一つ聞きたいことがあります」
四口目はすすれない。ニーニがカップを持ち、ユーロンの口元へあてがうことで、残りを全て飲み干した。
「私は今になって、とても後悔しています。私の選択は正しかったのか。私はやり直すべきだったのか」
パチッと枝が爆ぜる。三人で驚き、そして笑った。
「私も話していい?」とニーニが珍しく言う。
「ぜひ。より多くの意見が欲しいものですから」
手首から先のない腕を貫頭衣の中から出し、手のひらを空に向けるように捻った。
「ユーロンさん、あなたはあらゆるものを失った。でも、痛みを得た。痛みでさえも丁寧に接すれば、必ず応えてくれる。その痛みはユーロンさんのもの」
ユーロンは、仮面によってうかがい知ることが出来ない少女の表情を想像した。あどけなさの残る声を聴いた。
「後悔の瞬間に立ち向かうことは、この痛みでできるでしょうか」
「私には分からない。その瞬間でさえも、ユーロンさんのもの。どうせなら楽しめばいいと私は思うけど」
西の山脈沿いに稲妻が走った。
ユーロンが歩んできた、踏み固められただけの道。ヴァルゴとニーニが歩んできた、踏み固められただけの道。この道が続く先で、稲妻が走った。
「ヴァルゴと私は、あのドラゴンを倒すためにここに来たの。ね、ヴァルゴ」
「ええ、ここで魔素を売っていれば焦れて巣穴から出てくると思っていました。ユーロンさん、まだオルソの心臓結晶は持っていますか?」
ニーニがワイヤーラットの内臓で作った水筒にお茶を注いでいく。しっかりと栓をし、流れで焚き火に土をしっかりと掛けていく。
光と音の感覚が短くなっていく中で、ヴァルゴもニーニも慌てた様子はなかった。
「もう、オルソの心臓結晶はありません。手を失ったときに、代が変わったんですよ」
「そうですか、それではここを離れたほうが良い。我々の目的は、雷鳴を轟かせながら近づいてきてくれてます。ここで戦闘になるでしょうが、私もニーニもまともな戦い方はできませんので」
ヴァルゴは立ち上がる。ユーロンが思っていたよりも背が高い。質素な毛皮のマントをまといなおし、襟を正した。
「それでは、お言葉に甘えて私は行きます。もう少し生きて、やりたいことを見つけてみたくなったので。お茶、ご馳走様でした」
立ち上がろうとするユーロンへ、薄手の旅装束から白く細い手が伸びてきてお茶の入った水筒を首へ掛けた。
「お土産。栓は誰かに開けてもらって。きっと良い経験になる」
「ははは。そうですね。誰か道すがらの人に声を掛けてみます。そのときはこのお茶を一緒に飲むとしましょう」
肩から吊るされた手は岩場の傾きに合わせて左右や上下に暴れている。ユーロンの足取りが軽いからか、来たときよりも激しく暴れる手がすぐ見えなくなるくらい、あっと言う間に姿は小さくなった。
さきほどまでの晴天はどこへやら。昼間でさえも夜にする分厚い雲から、鱗が舞ってくる。
「ニーニが美味しいものを人へ譲ったせいか、土砂降りですね」
「うるさい」
眼前の雷鳴は激しさを増し、雲の隙間から雲の隙間へ、瞬きよりも早く駆け巡る。
お茶をあげてしまったことを後悔しつつも、この凍えた体を後でたっぷりの蜜が入ったお茶で甘やかすことをニーニは誓った。
ヴァルゴには一滴もあげない。




