2-2
◇
ライオルと別れたイーシュは館にある庭園のひとつに入った。
作られきった庭ではなく、まるで森をそのまま持ってきたような自然な庭園は今日も綺麗だ。居心地の良さのためか、小動物まで入り込んでいる。
普通、森を愛する森の民の庭園と言えども、噴水を組み込んだり、精霊像を置いたりと、手をかけるものだが、西津森の館の庭園は少し違った。倒木を配置したりすることもある。自然の森らしさを大切にする、そういう趣向で作られている庭が多かった。
夕日に照らされ黄金色がかった広い庭園は、昼とは違う情緒に溢れ、人々を巧みに誘い込もうとする。
しかし、今日は人が見当たらない。いつもなら季節の花壇のそばに幾人かがくつろいでいるというのに。珍しい。
イーシュは少しだけ不思議そうな表情を浮かべながらも、美しい景色には目もくれず、何かを心待ちにしているような高揚を抑えきれない様子で、お目当ての花の下へ進む。
壁際の日あたりのよくない場所に植わった、あの、さっき呟いていた枯れかかったケシの花だ。
だが、そこに辿り着く前に、その美しい風情とはかけ離れた神経質な声がイーシュを遮った。小動物も慌てて逃げる。
「そこの娘、会釈も無しに素通りとは無礼であろう!?」
驚いて声の方を見ると、針のように細い、いかめしい男が仁王立ちになってこちらを睨んでいた。
首を傾け、イーシュは男を見る。
男はどう見ても誰かの従者や付き人といった風貌で、特別挨拶する必要があるようには見えない。あるとすれば……。
イーシュが一旦、視線をそちらにずらすが、そんなわけは無いと振り払うように、すぐに男に戻す。
男は、そんなイーシュをますます険しい声で責め立てた。
「聞こえているのか!?」
大の大人に怒鳴りつけられて、小さな少女が理解できずに困り果てていると、ふいに、その男の後ろから張りのある高い声が助けてくれた。さきほどイーシュが見た場所からだ。
「いいのよ。こんな小さな子供相手にそんな目くじら立てることもないでしょう? さあ、あなた、お行きなさいな」
厳しさも垣間見えるが、薔薇のように華やかな女性が、今はこの上ない優しい微笑を湛えてイーシュを見つめていた。
面長の顔の輪郭は貝のようにほっそりと優美で、細かな巻髪は金細工のように光沢がある。若くは無いが、熟れた香りが漂う。
女性は花を楽しんでいたらしい。中庭に置かれた肘掛け椅子に気だるくもたれている。
その女性を知らずとも、かもし出す雰囲気だけで、この西津森の主に準ずるような高貴な身分の人間であることは良く分かった。イーシュも慌てて身を正し、深く頭を下げた。
「あっ……申し訳ありません!」
「まるで今私に気づいたような反応ね」
女性は美しい曲線を唇に作る。
気配でそれがなんとなしにわかったが、イーシュは視線を上げず、まだ、ただ深く頭を垂れていた。
「は、はい……まるで太陽のように眩しくお美しいので、人だとは思わず……精霊が人の形をとって遊びにいらっしゃっているのかと思っていました……」
そう話し終わっても反応が無い。
不思議に思ったイーシュは、顔を上げる。
女性とお付きらしい男が顔を見合わせていた。
その様子を見て、イーシュが慌てる。
「あ、あのっ、精霊とお話しすると神殿以外ではよく驚かれるものですから……人がいる場所では声に出しては話しかけないようにしていたので……本当に申し訳有りません!」
神や精霊をありありと可視することが出来るイーシュは、幼いということも手伝って、奥方が話し始めてやっと人だと気づいたのだ。
さきほどライオルがからかって言ったことも、的外れではなかった。もしまだどこかで見ていたら笑われたに違いない。
だが、その真実の発言は、お付きの男をますます煮えたぎらせることになった。
「小娘、自らの粗相をごまかそうと……、神官見習いだからと言って適当なことを言うでない! このことは神官長様に報告しておくぞ!?」
ますます怒り狂うお付きを他所に、奥方はイーシュの言うことに耳を傾け、不思議そうな顔をする。お付のように、はなから信じていないという様子ではない。
「精霊? どういうこと? あなたには精霊が見えるの?」
「はい。私だけではありませんが」
そこにお付が刺さってくる。奥方の視界にイーシュを入れないように後ろ向きに立ちはだかった。そして小さな子供相手に鋭利な語気を投げつける。
「小娘、このお方をどなただと思っているのだ? 我が森の隣……中津森の主の奥方様であるぞ!? 今日は久方ぶりに、祖父であられるこの西津森の旦那様を拝顔にいらっしゃったのだ! お前ら神官の与太話を聞きに来たのではないぞ!」
珍しいことではないが、世話役はどうやら神や精霊をまったく信じていないらしい。イーシュもその反応には慣れきっている。
今、驚くべきことはひとつ。イーシュの視線は奥方ただ一人に注がれていた。
「中津森の……」
子供のイーシュでも、ここ西津森のそばには同じような森があることくらい知っている。東隣には中津森、そしてそのまた隣にはかつては東津森があったということを。
そしてそれが民族的に親戚関係にあり、血縁を持つものもいるということも。
西津森の主と中津森の奥方が、まさしくそれだった。
「お前が森の旦那様の血を遠く引くという噂は神官長さまから聞いている。だが、調子に乗るな。いい加減にせぬと……」
世話役の言葉を奥方は遮った。
「この子が?」
奥方の鋭さにひるんだ世話役は、引きつりながら何度も頷く。
うるさい世話役を押さえ込んだ奥方は、ようやくゆっくりとイーシュを眺めた。
「あなたのお顔をよく見せて頂戴」
ごく薄い亜麻色の髪、緑に少しの青を足した森のような瞳。淡雪に薄紅の薔薇を閉じ込めたような肌。幼いながらに、長じた後の美しさを匂わせる。
イーシュを見つめる奥方の唇が震えた。
「……名前はなんと言うの?」
「? イーシュと申します」
奥方は何度か一人で嬉しそうに頷くと、深いところで何かを含ませ、微笑んだ。
「……そう。イーシュというのね。ふふ。面白いことをいう娘ね。気に入りましたよ。もしなにか縁あって中津森に来ることがあったら、わたくしが自ら便宜を図ってあげましょうね。その時はあなたの見る世界のことを、わたくしに話して頂戴?」
「お、奥方様!?」
お付きの男が驚き慌てている。
当人であるイーシュはましてだ。
いち神官見習いと、中津森の奥方相手では、返事など定型に等しい。
「は、……はい。ありがとうございます……」
目をしばたたかせながら、そう答えるしかない。
奥方はその返事を満足そうに聞くと、満開の華のような笑顔を浮かべ、言った。
「さあ、今度こそお行きなさい」
奥方がそう言うと、イーシュは今度は深々と綺麗なお辞儀をする。が、名残惜しそうに、庭園の日陰の、枯れかけたケシの方を見た。
奥方が気づく。
「あの枯れたケシがなにか? 精霊でもいるのかしら?」
イーシュはどこか少し不安げに頷く。
「まあ、どちらにしても、あんな病気の花は目にも良いものではありませんよ。あなたのように健全な娘の近寄るべきものではありません。後で伐らせておきましょうね」
「伐ってしまうんですか?」
「それがあの花のためでもあるのよ? 悪いところを伐って、次は健康で美しい花を咲かせてもらいましょうね」
「……はい」
少しイーシュは残念そうだったが、奥方に従って頷くと、もう一度綺麗な礼をして奥方の前を去って行った。
その背でお付きの甲高い声が上がっていた。
「奥方様! 私が西の森の旦那様に叱かられてしましまいます! こんな不行きがあったとあっては……!」
しかしそれに続いた言葉はついぞ聞こえてはこなかった。




