第5話 僕の名前は――
ちゃぶ台の上には、読み終えたのか、閉じられた百科事典と、空になったお茶のペットボトルが綺麗に並んでいた。
異常な光景を目にした動揺を鎮めるため、一人になりたかった。
彼を刺激しないよう下着を取り出し、こっそりと浴室へ向かう。
抜き足差し足で、狭い6畳間を横切った。
スヤスヤと眠る少年は、ピクリとも動かない。
ルナは脱衣所で急ぎ服を脱ぎ、浴室のドアを静かに開けた。
中へ滑り込み、ドアをパチリと閉める。
そこでようやく息を大きく吐き出した。
蛇口をひねり、浴槽へお湯を溜め始める。
水音が響く中、ルナは混乱した頭を整理しようと試みた。
……考えたところで何がわかるわけでもない。
温かい湯船の中へ身体を沈めた。
「もしもーし、おはようの挨拶はなし?」
なんとなく来る気はしていた。
相手は常識の範囲外にいる存在だ。
ルナは湯船に浸かったまま、驚きを通り越して諦めに似た境地へ達していた。
曇った浴室のドア越しに、黒いスーツ姿の少年が見えた。
「おはよう。ごめんね、声もかけず入浴しちゃって」
「そうだね。できれば『一緒にどう?』って誘ってほしかったかな」
「さすがに二人で入れるスペースがなくて、すぐに出るから次に入って――」
ガチャリ。
「なんで開けるのかな……」
全開されたドア。
狭そうに湯船へ縮こまるルナを、少年は猫が珍しいものを見つけたときのようにまじまじと見つめる。
「その……閉めてほしいかな。ほら、湯気が出てしまうし」
「失敬!」
少年は浴室内へ入り、後ろ手でドアを閉めた。
(言い方を間違ったか!)
後悔しても遅い。
少年はルナの困惑をよそに、真っ直ぐな視線を浴槽へ向けてくる。
「あの……そこまで真剣に見られるのは困るかな……」
背を丸め、膝をぎゅっと抱え、限界まで湯船に沈み込む。
この姿勢なら、一番見せちゃいけない場所は隠せるだろう。
ラブホテルで働いているせいもあってか、他人の性癖や欲望には慣れきっているルナだったが、自分がその対象、あるいは観察対象になることにはまったく慣れていなかった。
「これはまたまた失敬。ダメだなあ僕は」
少年はすぐ浴室から退場すると、10秒もしないうちに全裸で戻ってきた。
「これでおあいこ」
ボウリングの球が坂道を転がり落ちるかのように、事態は悪い方向へ猛スピードで進んでいる。
愉快そうに目を細めている少年は、愛嬌のある顔立ちとは不釣り合いな引き締まった筋肉質の身体をしていた。
ルナは視線をあえて天井へ逸らし、それ以上見ないよう固定する。
「最初はわからなかったけど、こうして見るとちゃんと女性だね、ルナは。その恥じらい方とか雰囲気がね、女の子してる」
初めて、ルナの名を呼んだ。
ザバァ、と激しい水音が狭い浴室に響き渡った。
ルナが意を決し、勢いよく湯船から立ち上がったのだ。
お湯が四方へ激しく飛び散り、タイルの床を濡らしていく。
これ以上この少年のペースに巻き込まれるわけにはいかなかった。
「謎の少年Aくん、通らせてもらうよ」
少年の満面の笑みを無視して横をすり抜ける。
その際、身体が触れても、気付かないふりをして脱衣所へ向かう。
バスタオルを引っ掴み、身体へ巻き付けて最低限隠した。
当然のごとく脱衣所についてくる少年。
「ルナが僕の身体を見た感想を教えてくれたら、今日はもう大人しく従順なチワワになるよ」
かわいこぶってワンワンポーズをする。
「……なんか強そうだなって思ったよ」
バスタオルで隠すように下着を穿きながら、ルナは素直な感想を口にした。
目の前の少年がどれほど破天荒な異能の持ち主であるかは、あの炭鉱や鉄の森で十分に思い知らされている。
少年のワンワンポーズがピタリと止まる。
「かっこいいってこと?」
少年は小首を傾げて聞いてくる。
「そうだね。かっこいい。そして君がいろんなことができるのは、正直憧れるよ」
これだけ大きな身体をしているのに、高いところもお化けも苦手で、腕力だって大してない。
あの異空間で少年が見せた圧倒的な強さは、自分にないものばかりで、本当に羨ましかった。
どうにか着替えを終えて振り向けば、少年は瞬く間に黒いスーツ姿へ戻っている。
いつの間にかアスコットタイもきちんと結ばれており、つい先ほどまでの全裸を微塵も感じさせない早業だった。
「僕のこと、なんにも聞かないから全然興味がないんだって思ってた。なんか面と向かってるのに、別のとこを見られてるような、裸を見られたことを覚えてても、僕個人はすぐ忘れちゃいそうな、そんな雰囲気だったから」
ルナは少し驚いた。
他人や自分自身への執着が薄いことは、身内にも知られている。
けれど、出会って間もない相手から、そんなふうに言われたのは初めてだった。
「よろしく。僕はシェルトドーガ。原初のビーストだ」
少年――シェルトドーガが自身の正体をあっさりと明かし、手を差し出す。
ああ、やっぱり。
只者じゃないと思ってたよ、とルナは心の中で呟いた。
そして、ひどく困った顔で伝説的人物の手を握り返すのだった。




