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第3話 イチゴチェリーサイダー味

 何十本もの指が、錆びた鉄板に不気味に引っかかっている。


 それは、生者のものとは到底思えない指だった。

 すべての爪が剥がれ落ち、どす黒い血が凝固している。

 皮膚は異常なほど青白く変色していた。


「ははっ、高いところも苦手だし、お化けも怖いんだ。トロッコには同情したくせに」


 少年は腕の中の硬直を面白がるように笑った。


 無人のトロッコには、なぜか憐れみを感じた。

 だが、生々しい人型の怪異となれば話は別だった。


「なら、ちょっとズルをしよう」


 少年は言うなり、ルナを抱きかかえたまま、階下へ向けて迷わず飛び降りた。


「ひあああああああああああああああ」


 ルナの絶叫が、吹き荒れる強風の中にこだまする。


 浮遊感と猛烈な風圧が同時に襲いかかった。

 視界が激しく揺れ、錆びた階段が一瞬で上方へ遠ざかる。


 その極限の状況にあっても、ルナの頭上のニクシーだけは微動だにしなかった。


 下方に広がっていた無機質な森の梢が、ものすごい速度で二人の足元へ迫ってきた。


 しかし、激しい衝撃も、枝が身体を引き裂く痛みも、一向に訪れなかった。


 フワリ、と不自然なほど静かに落下の勢いが殺される。

 少年の足が、カサリと音を立てて柔らかな地面を踏みしめる。


「すごい悲鳴だっ――」


 少年が腕の中を見下ろしたまま、言葉を途中で止めた。

 ルナは魂を完全に抜き取られ、空のティッシュ箱のような顔になっていた。


「え? 死んだ? 嘘、嘘、ごめん! 悪気はなくて、高所とお化けから早く離してやろうと――」


 飄々とした余裕が、少年の顔から消え失せている。


 抱きかかえられたままのルナは、微動だにしない。

 少年は試しに、その大きく開いたルナの口へ飴を放り込んでみる。


 しばらくの沈黙の後。

 ルナの口元が、わずかにピクリと動いた。

 口の中で、飴がコロコロと転がり始める。


「もう、びっくりさせて。ほら、見てごらん。ショートカットしたら、ようやく出口だ」


「コロコロコロ」


 少年は飴舐め赤ちゃんを抱いたまま歩き出す。


 鈍い光沢を放つ、無機質な鉄の森。


 そのただ中、あまりにも不自然に設置されたゴールゲートが見えてきた。

 その枠組みの向こう側には、見慣れたまばゆい日常の景色がはっきりと広がっていた。


 天井のLED照明が明るく照らす、どこにでもある複合商業施設の広場。

 買い物客たちが楽しげに行き交っている。


「はい、おんり」


 少年はルナをそっと下ろす。


「もう歩けるでしょ? 本当の赤ちゃんじゃないんだから」


「はーい」


 日常を目にして安堵したルナ。


 早速ゲートを潜ろうとするが、少年はついてこない。

 彼は先に行くよう手をひらひらさせる。


「一緒に出ないのかな? コロコロ」


「ここの空間を作った怪異をぶっ殺してから出るから、先に行っていいよ」


 この少年なら、怪異を簡単に倒せるのだろう。


 最初から怪異を炙り出すつもりだったのか、それとも子供向けのゲームを遊ぶ感覚で、ここまで付き合ってくれたのか。


「その……お礼、お礼はどうしたらいいかな?」


「……」


 奇妙な脱出劇の終わりを、一人きりであっさりゴールするのは違う気がした。

 このまま背を向けて日常へ溶けていくのは、どこか座りが悪い。


「外で戻ってくるのを待っていていいかな?」


 少年の表情は読めない。

 答える必要もない質問と思われているのだろうか。


「……本当にお礼がしたいの?」


「もちろん! と言っても、そんな豪華なことはできないけど……」


「多分ね、お互い別々の場所から拉致られたように、この空間から出た先の場所も別々だと思う。本来なら、じゃあさよなら、お元気でってことになるんだけど」


 少年が名乗らなかったのも、そんな理由からかもしれない。


「そこまで熱烈にお礼がしたいって言われたら、受けないのは男じゃないよね」


(そんなに!?)


 ルナは心の中で思わず突っ込んだ。


「なんか書くものある? どうせここじゃ電波が入らないんだから、連絡先教えておくよ」


「ごめん。紙とペンはあるんだけど、私が通信できる機器をまったく持ってなくてね」


「嘘。電話もスマホもPCも無線も糸電話もないわけ?」


「糸電話ならなんとか……」


 ルナは申し訳なさそうに言った。


 生きていくだけなら腕時計とメモ帳とカレンダーがあれば足りる。

 これまでも特に不自由を感じたことはなかったが、今ばかりは自分の機械音痴とアナログな生活が少しだけ悔やまれた。


 少年は呆れたように目を丸くしている。


「じゃ、住所書いて。僕がお伺いするから」


 それなら容易いことだった。


 少年は渡されたメモの住所をまじまじと見た後、うんうんと頷き、ルナの背中を押した。


「さあ行った行った。必ずお礼はもらいに行くから待っててね」


 ルナは前へ足を踏み出した。


 一歩。


 ゲートの枠組みを越える。

 途端に、背後を吹き荒れていた無機質な鉄の森の風が、ぴたりと止んだ。


 代わりに、生温いエアコンの風と、大勢の人々の話し声、そして商業施設特有のBGMが鼓膜を震わせる。


 ルナは光に満ちた日常の広場へ足を踏み入れていた。

 現実世界へ戻ったのだ。


 慌てて振り返る。


 しかし、そこには先ほどまで確かに存在していたはずのゴールゲートも、不気味な鉄の森も、すべてが幻のように消え去っていた。


 突然現れた長身で金髪の、白いスーツ姿のルナを、周囲の人々は怪訝そうに一瞬だけ見やる。

 だが、すぐに興味を失ったように視線を外し、通り過ぎていった。


 口の中の飴は、まだ半分ほどの大きさで残っている。


(あ、これイチゴチェリーサイダー味だ)


 明るい照明の下、ようやく、本当にようやく飴の味に気付けたのだった。

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