第20話 月明りの嫉妬
とっくに日は暮れていた。
波音だけが静かに響く。
人気のない海岸線。
協力した見返りにお散歩デートしてほしいと言うので、二人は並んで歩いていた。
「……ねえ、ルナ?」
「なにかな?」
「あのさ……」
「うん?」
「ニクシーについて聞いていい?」
途端にルナの目が輝いた。
「なにが聞きたいのかな!?」
食いつく速度が異様に速かった。
「いや、なんなのニクシーって。なんで普段から喋らないの?」
「ニクシーはね、誰がくれたのか私もよくわからないんだ」
ルナの頭上に白い人形はいつも通り張り付いている。
「気付いたらずっと一緒にいてくれて。私に幸運をもたらしてくれている」
声が柔らかい。
「本当は毎日毎日、お話したいんだけどね。ニクシーの動力って解析できない物質なんだ。かなり消耗してるらしいから、新しいストックが見つかるまで活動をオフにしているんだ」
「へぇ……じゃあ今回はレアだったんだ」
「うん。今回みたいなことでもない限り、起動はしないかな」
10時間以上も離ればなれだった。
ルナにとっては、それだけで十分すぎる非常事態だったのだ。
「じゃあさ……」
シェルトドーガは、一番聞きたかったことを尋ねた。
「なんで、さっき起動した時、ニクシーは『ルナ様!未去勢のニャンたまバッグ』って叫んでたの?」
その声を頼りにダンジョンを進んだのだが、シェルトドーガの頭にはずっと疑問符が浮かんでいた。
ルナが目頭を押さえる。
「泣くことか!?」
「君が羨ましいな。その声が聞けたなんて」
本心だった。
心の底から羨ましがっていた。
「それはね、これからしばらく眠っていてねって起動を止める前に、起きたら欲しいものを聞いていたからだよ。そうか……未去勢のニャンたまバッグか……」
茶トラ柄かな。キジトラ柄かな?
涙を拭き拭き考える。
「ニクシーはね、シェルトドーガと気が合うかもしれない」
ニクシーの話になると、ルナは驚くほど饒舌だった。
穏やかな調子はそのままだが、表情がまるで違う。
全身から喜びが溢れていた。
「ニクシーも結構、ちんちん好きだから」
「そんなキラキラした顔で言うのがちんちんか」
「ニクシーはね、ちんちんの呼び方で一番好きなものがあるんだって」
ルナがくすくすと笑う。
可愛くて可愛くて仕方がない。
そんな顔だった。
「私が嫁ぐ相手はね、ニクシーが好きなちんちんの呼び方の人じゃないと認めないんだって」
「ちんこ、ちんぽ、ペニス、ディック、ソーセージ――」
シェルトドーガは指を折りながら数えていた。
女性が聞けば眉をひそめそうな単語の羅列だった。
だが、ニクシーが絡むとルナにはただの楽しい話題になる。
「ダメだよ。普段からその呼び方の人じゃないといけないんだから」
「……」
シェルトドーガの指が止まった。
さっきまで軽口を叩いていた空気が、ふっと消える。
「まだ、誰も当てられなくて――」
言葉の途中で気付いた。
シェルトドーガが黙っている。
そこにいた少年は、さっきまでとは違う目をしていた。
獲物を逃がさない。そんな目だった。
海風が吹く。
それでも視線だけは動かない。
「夢で見た相手はニクシーのお眼鏡にかなったの?」
ドキリとした。
今朝、海へ寄り道したのも、もともとは昔を思い出したからだ。
一年中、島から島へフェリーで移動した。
様々な色合いの海。
眩しい日差しと満天の星。
差し出された手、塗られた日焼け止め、乾かしてもらった髪、一緒に寝たベッド、揺れたピアス。
大雨と雷。
「ねぇ、今日の呪いを解く条件さ」
シェルトドーガが言った。
「『もし男が、おまえを誰よりも愛するようになって、命よりもおまえを大切に思い、生涯おまえだけを妻とすると心から誓う男がいるならば、その男がお前への愛のためになにができるか』――こうだったよね?」
一歩。
シェルトドーガが近付く。
波音が妙に遠く聞こえた。
ルナは反射的に足を止める。
二歩。
距離が縮まる。
夜だった。
月明かりだけが二人を照らしている。
「うん」
思わず返事が小さくなる。
静かなのに逃げ場がない。
そんな圧力があった。
「じゃあさ」
低い声だった。
「その条件、誰が満たしたと思う?」
ルナの脳裏に浮かぶピアス、眼鏡、金色の髪、逞しい体、雷。
けれどそれらをシェルトドーガの声が切り裂いた。
「2度言わせないで。その条件、誰が満たしたと思う?」
シェルトドーガは笑っていなかった。
波音だけが規則正しく響いている。
月が原初の獣を照らす。
獲物を狩る時のものとも違う。
もっと厄介で。
もっと理屈が通じないもの。
激しい独占欲だった。
あの日々も。
あの海も。
雷も。
全部許さないだろう瞳。
「……」
ルナはしばらく考えた。
だが答えるより先に。
シェルトドーガが、ぐいと顔を寄せる。
「正解はシェルトドーガくんのおちんちんでしたー」
満面の笑みだった。
張り詰めていた空気が、一瞬で崩壊する。
「ね、いくら好きな子を助けるためだって、大衆の前でおてぃむてぃむを晒してくれる男なんてざらにいないよ。それでルナは魚語の呪いから解放されたわけだし」
シェルトドーガは当然の権利でも主張するように言った。
「ルナの恋に僕は絶対に僕をお勧めする! ちんちんさんも僕をお勧めするって」
さっきまでの獣じみた雰囲気はどこかへ消えていた。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
「そうか。ちんちんさんのお勧めなら一考の余地があるね」
内心でホッとしながら、ルナも下品な会話に参加する。
元の重い空気に戻りたくはなかったからだ。
軽口やセクハラ発言は彼の癖のようなものだと思っていた。
しかし、愛情量は不明だが本気で好感を持たれているらしい。
獲物を他に渡したくない。
そんな獣の本能を見た気がした。
シェルトドーガの嫉妬心に火が点かないよう、ルナは一計を案じた。
「おちんちんさん、おちんちんさん」
「なにかねルニャーゴ(裏声)」
「あ、そういう人格なんだ。おちんちんさんが今日、解呪に協力してくれたからね、とびっきりの秘密を教えようかなって」
「マンマミーア!(裏声)」
「世界中で誰も知らないことだよ。ニクシーもね」
君だけが特別だよと、ルナは声を潜めた。
シェルトドーガはデレデレしながら、耳を寄せてきた。
「あのね――」
「うん」
「私は人魚姫にとってもシンパシーを感じるんだ」
「うん」
「おしまい」
「え!? なに!? どういうこと!?」
ルナは微笑んでいるだけで答えない。
ただ、これが彼女にとって、そしてこの世界にとって、ものすごい秘密であったことをいつの日にかシェルトドーガは知ることになる。
「終わり!?」
「終わりだよ」
「いやいやいや、生殺しだよそれじゃ。どの部分がなんの暗示なの? もしかして泡になっちゃったりするの?」
「そうかもね」
月明かりが海面に反射していた。
寄せては返す波が銀色に光る。
月光を受けて、ルナの白いスーツも淡く輝いて見えた。
頭の上では、ニクシーがお行儀よく張り付いている。
海風が金色の髪をわずかに揺らす。
シェルトドーガは眩しそうに目を細める。
「勃っちゃった」
「最低だね。なんでこの状況で盛り上がるのかな?」
「想像させるからだろ」
ルナは怪訝な顔をする。
シェルトドーガは得意げだった。
「泡姫(ソープのお姉さん)」
数秒の沈黙。
波の音だけが聞こえる。
「ああ」
ルナはようやく理解した。
「だからズボンにテント張っちゃった」
「本当、君って愉快だね」
思わずルナは笑い出す。
「一緒にいると楽しいと思われたくて必死にしてるからね」
シェルトドーガも笑い声を上げる。
夜の海岸には、二人の笑い声と波音だけが残っていた。
後日、インバッハからシェルトドーガに短い通知が届いた。
『人魚が全然腐らないので海に帰した』




