第16話 腐った人魚の呪い
海辺のラブホテルは、自宅から電車で1時間以上離れた場所にあった。
観光地としてはもう機能していない海岸線に、ぽつぽつと古い建物が残っており、波音だけが妙に元気だった。
ルナは清掃業務のヘルプを終えて外に出た。
潮風が布地を撫でるたび、ほんの少しだけ砂の匂いが混じる。
本来ならすぐに帰る予定だった。
だが、海が見えた瞬間、足が止まった。
この前、海の夢を見たばかりだ。
気付けば寄り道をしていた。
夜明け前の、まだ誰もいない海へと自然に吸い寄せられるように歩いていく。
波が引くたび、足元がわずかに沈む。
まだ薄暗い砂浜には、打ち上げられた流木やゴミが散らばり、その中に腐った人魚がいた。
ルナの背中に、冷たい汗が伝わった。
淡白な精神を揺るがすな。
あらゆる事象への無関心を貫け。
そう自分に言い聞かせ、何事もないように振る舞いたかった。
だが、無理だった。
怖いものは、理屈抜きで怖かった。
打ち上げられた人魚には、目玉がなかった。
ただの真っ黒な眼窩だった。
それなのに、はっきりと分かった。
その空洞が、じっと自分を見つめている。
視線が絡みついて離れなかった。
気付かなかったふりで素通りすることなど、到底できなかった。
砂が激しく舞い上がった。
腐敗した肉の塊が、信じられない速度で地を這った。
人魚は陸では動けない。
そう侮ったのが、ルナの敗因だった。
意を決し、爆速で走り去ろうとした瞬間、視界の端から、どす黒い影が迫った。
異形の人魚がルナの足元へタックルをかけてきた。
衝撃が足首を直撃する。
「うわああああああああああ!!!」
ルナの悲鳴が、早朝の海岸に響き渡った。
バランスを崩し、視界が上下に回転する。
湿った砂の冷たさが、一気に顔面へと迫った。
ルナが人魚に突撃された数時間後――。
「本当に最近の怪異遭遇率は異常ですよー」
そこは、プリンスの神域だった。
広大な敷地にそびえ立つのは、巨大な東洋式の城。
その一角にある豪華な御殿に、四人の少年神が集まっていた。
畳の間に置かれた贅沢な調度品の数々。
彼らはそれぞれ、思い思いの場所に腰を下ろしている。
今回のプリンスの呼びかけに応じたのは三人。
ビースト。
ブリザード。
ベルゼブブ。
ファントムとマジシャンの姿は、そこにはなかった。
「だろう。なんなんだ、これ一体?」
龍一が眼鏡の奥の目を険しくさせた。
190センチ、95キロの巨躯が、畳の上にどっしりと胡坐をかいている。
200年前の世界崩壊の中心地K県を囲む旧世界。
だからこそ、かつての呪いの残滓が色濃く漂っている。
度々、怪異の問題が起こること自体は珍しくなかった。
けれど、ここ最近の怪異遭遇頻度は異常と言えるレベルだ。
明らかに何かが狂い始めている。
龍一は他の神々を見回した。
「悪魔界隈、ビースト界隈とかでなんか騒ぎになってたりしないのか?」
72柱の悪魔名を冠する能力者。
999のビーストたち。
それぞれの頂点にいるのが、ベルゼブブたるアレックスと、原初のビーストであるシェルトドーガだ。
「もー何回言わせるんですか。うちんとこは皆バラバラに動いてるんで、俺はあいつらのやってることとか把握してないんですよー」
アレックスは長い前髪で顔のほとんどが隠れている。
通称、貞子スタイル。
口元からしか表情を見て取れなかった。
「いや、別に悪魔連中がなんかやってるって疑ってるわけじゃねぇよ。ただ、なんか知ってねぇかって」
「でも、なんか魔女達がコソコソ動いてるらしいって噂はありましたけどねー」
「魔女っつったら、フリドリヒに聞いたほうがいいのか? いねーけど」
龍一の呟きに、別の声が重なった。
「どうだろうな」
ブリザードことインバッハが答える。
男性的で知性に満ちた顔立ちの少年だ。
ただし、仲間内で喧嘩になると必ず「陰毛」と揶揄されるクセ毛の持ち主だった。
「ほら、魔法持ちの系統はマジシャン以外にもウィザードやソーサラーなど幅広いから、やはり悪魔代表が調査すべきだと思うがな」
古来より魔女と悪魔の関係は切っても切れぬものだった。
「元カノ、魔女ですよねー? インバッハが調べてくださいよー」
インバッハの眉間に皺が寄った。
言い返しても構わなかった。
だが、どうせ遠い昔の話だ。
「お前がやれ蝿野郎。インバッハは念のため、フリドリヒに聞いといてくれ」
龍一が間に入る。
「わかった。なんかあったら共有する」
インバッハは短く応じた。
この前、地下闘技場で龍一はシェルトドーガとやり合ったばかりだった。
あの時はお互い止まる理由があったから、被害は出なかった。
だが、ここでベルゼブブとブリザードの2神が暴れたら住居がめちゃくちゃになってしまう。
それを避けるための、リーダーとして、また家主としての仲裁だった。
「獣界隈はどうよ?」
龍一が今度はシェルトドーガに話題を向けた。
「僕も別にあいつらの管理者じゃないから知らんよ」
「揃いも揃って頭領じゃねぇのかよ、お前ら」
「72ならともかく999なんて把握できるわけないだろ」
シェルトドーガが呆れたように言い返す。
おまけに獣の世界は完全な弱肉強食だった。
下の者が勝手に死のうが生きようが、知ったことではない。
下手に絡んでこられても迷惑なだけだった。
「まぁ、獣は本能で動くしかないですからねー。下手な画策とかできないんじゃないですかー?」
アレックスが長い前髪の奥から、くすくすと笑った。
「あぁ? 今度は僕に喧嘩売ってんのか? 蛆虫風情が」
「待て待て待て! お前ら、血の気が多すぎんだよ! こっちは真剣な話してんだろうが!」
龍一が立ち上がり、凄まじい肉圧で二人の間に割って入った。
「そうだぞ。真剣に聞いとけ、お前ら。もしまた世界がおかしくなったら、200年前のあれをまたやることになる」
インバッハが思い出を反芻するように苦い声で言った。
世界が滅びかけた、あの過酷な時。
アレックスは自ら妹を殺さねばならなかった。
インバッハはともに助かろうと誓った魔女を失った。
どれほどの数の人々を見捨て、どれだけ殺めてしまったか。
すべては救世主の依代となった少年を倒すために。
四人の脳裏に、当時の情景が鮮明に蘇る。
しかし、200年という歳月を経て、当時の傷はかなり癒えていた。
今、彼らの中に残っているもの。
それは「あんなん二度とやりたくねえ」という、極めて強い拒否感だ。
あの過酷な肉体労働を再び味わうなど、御免被る。
神々の間に、生々しい沈黙が流れた。
「な? 嫌な予感がするから、シェルトドーガはロイヤルがいつでも動けるよう起こしておいてくれよ」
インバッハが話を振った。
「お、それいいじゃねぇか。頼むぜナメクジ」
「チビ同士よろしくお願いしますよー」
「はぁ!? はぁ!? なんでそんなことしなきゃならねんだよ! おまえらで目覚ましでも持ってってやりゃいいだろ!」
ファントムことロイヤルが不在なのは今日だけではなかった。
強大な能力。
不老の肉体。
氏子からの強固なバックアップ。
救世の神という絶対的な名誉。
そのすべてを、ロイヤルは何ひとつ価値あるものと思っていなかった。
自分が救った世界と言えど、ノイズを愛することはできない。
だから、ファントムは200年のほとんどを寝て過ごしているのだ。
「おまえら、仲悪くなかっただろ」
「あのチビと仲良いやつなんていないだろうが」
「よくもまあチビ呼ばわりできますねー」
「僕より低いやつをチビと言ってなにが悪い」
不毛なやり取りの果てに、シェルトドーガはロイヤルを叩き起こす役目を強引に押し付けられた。
御殿での話し合いが終わり、神々は思い思いに散っていく。
解散後、現実世界へ戻るシェルトドーガの背にインバッハが声をかけてきた。
「よぅ、少し話そう」
「なんだ?」
シェルトドーガは足を止めず、わずかに首だけを巡らせた。
「ロイヤルの件な、そんなに嫌なら僕がやるから言えよ。ただ、そこまで不機嫌になる理由があるなら教えてくれ」
インバッハは歩調を合わせながら静かな声で言った。
龍一の言ったとおり、ビーストとファントムは別に不仲ではなかった。
というより、シェルトドーガの下ネタや軽口やザコっぽい振る舞いは、絶望の淵にあった仲間内の雰囲気をいつも適度に緩めてくれていた。
「いや、やると言ったからにはやるよ。ただ、いつやるとは約束しないけどな」
「ずるいなそれ」
「ちんちん、最近別のことで忙しいから」
含みのある言い方にインバッハが気付く。
「なんだ? 女か?」
2神は並び歩いて、いつしかルナのアパートがある地域までやってきていた。
「これから顔見にいくんだけど、おまえ、いつまでついてくるの?」
「そんなこと言われたら興味もつに決まってるだろ。実物見せろよ」
「くんなよ」
「行くね」
笑い合いながら、ボロアパートに近づいていく。
だが、ある異変に気付き、二人は顔を見合わせた。
「本当に最近、多いな……」
インバッハがため息まじりに呟く。
アパートの敷地内に、怪異の気配が濃く漂っていた。
それは、2階にあるルナの部屋から発せられている。
「あの困ったちゃんはまた……」
シェルトドーガはボロアパートの階段を駆け上がった。
インバッハもその後に続く。
扉の前に立ち、拳で激しく叩いた。
「ルナのナイト到着だよ! どうした!? なにがあった!?」
中からの返事はなかった。
ただ、大慌てで動く音がする。
ガチャ!
扉が開き、シェルトドーガはかつてないほど歓迎に満ちた瞳で迎えられた。
「~~~~鯖」
勢いにのって思わず抱きしめようとした手が止まる。
「え?」
「鯱~~鰯鮹」
「今なんて言った!?」
「鱈鮃~~鱈鮒鱈~~鮪鱈鮪!」
ルナが必死に発音しているのは、人語ではなかった。
あえて言うなら魚語。
「なんで漢字検定みたいになってるの!?」




