妄想①
「眠い……眠いよぉ。」
真夏であっても、雪が降らないかぎり、農家に休みはない。
夜明け前のまだ暗い空の下、ヘッドライトをつけて畑へと向かう。
──ザク…ザク。ザク
靴裏が土を踏みしめるたび、湿った草の匂いが立ちのぼり、
今日もまた朝露に濡れた野菜を、ひとつ、またひとつと収穫していく。
何度、俺は夢に見ていたのだろうか。
彼女がこの畑で、自分の隣に立って話しかけてくれる姿を、
美琴が、あの頃の姿のまま、隣で優しく笑ってくれている未来を…
しかし、美琴の祖母が言った、あの言葉を何度も思い出してしまう。
もちろん、最初は軽い冗談だと思っていた。
「美琴も好きなんだから、早く結婚しちゃいなさいよ」
それは、彼女が大学に合格して報告に来た日のことだった。
「受験に落ちたら、先生のお嫁さんにしてねって言ったの、覚えてる?」
「……受かったんなら、ちゃんと、自分の目標に向かってな」
駅のホームで、最後に何か言いかけた美琴の言葉が、
発車ベルが鳴り、電車の走り出す音にかき消される。
「せんせぇ……」
結局、聞き取れなかった。
けれど、顔を真赤にして恥ずかしそうにしていた姿だけは覚えている。
(もしかして──)
昨日、彼女の実家で耳にした何気ない一言が、胸をざわつかせる。
「今日は疲れてるだろうし……まだ寝てるよな」
スマホの画面に、美琴の名前。
登録された連絡先と、SNSのページ。
怖くて、開けない。
言い訳を探しているうちに、時間だけが過ぎていく。
この三年間、彼女がどんなふうに過ごしてきたのか。
どうして、あの少女が──あんなにも大人びた美琴に変わったのか。
それを知るのが、怖い。
今さら、「好きだった」なんて伝えたところで、何になる。
三十代。
独身で、貯金もなく、夢に破れて帰郷し、農家を継いだ男。
そんな自分に──彼女を幸せにする資格なんて、あるのだろうか。
女性との交際経験すらない。
恋も、愛も、結婚も、知らない。
それでも──
「卒業させてあげる」という、あの一言が耳に残って離れない。
昨夜は、眠れないまま、酒を無理やり流し込んで気絶するように眠った。
それでも胸の奥には、鈍い痛みだけが残っている。
収穫を終え、野菜を軽トラに積み込んで、出荷場へ向かう。
朝日が昇りはじめ、空の色が淡く染まっていく。
この時間には、もう起きて動いている人も多い。
でも、美琴にメッセージを送る勇気は、まだ持てない。
「いつもお疲れ様」「よろしくお願いします」
集荷場で交わす、いつもの挨拶。
変わらない朝。変わらない自分。
だけど──
どこかで、期待してしまっている。
“もしかして”という、根拠のない妄想が、胸の奥でじくじくと疼いて、
彼女の笑顔が待っているわけでもない、古びた誰もいない家へと帰る。
風呂に入り、
昨日の酒を抜くように汗を流し、簡単な朝食を済ませてひと息つく。
さっさと畑の手入れだ。
けれど、ふとした拍子に、スマホへと視線が向く。
指が、勝手に動いた。
[何している?]
どう返してほしかったのか、自分でもわからない。
ただ、言葉がこぼれて打ち込んでいた。
当然、既読にはならない。
けれど、そのメッセージを送った後は、
何も考えずに無心で畑の土に向かっていられた。
妄想①




