第十七話 劇的
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「ぶぇっくしょい!!」
ソウブルー地方の気候は温暖で四季が無く、一年を通して著しく気温が変動することは無い。
とは言え、年末を間近に控える頃になると少しばかり肌寒い。
自分が豪快なくしゃみをして霧状になった唾液を、エーヴィアの顔にぶっかけてしまったのは寒さのせいでは無い。
膝枕をしたまま自分にキスをしようとして、エーヴィアが掻き上げた桜色の髪が、自分の鼻先をかすめたからだ。
「ご、ごめんなさい、蒼一郎様。病み上がりなのに振り回してしまって……、そろそろ戻りましょうか」
『身体が冷えているのでは無く、君の髪が自分の鼻の穴に入っただけですよ』
――口が裂けても言えませんね。
それにキスのタイミングを逃したのも、もうこれで三回目。
たった一日だけでこの様だ。多分、今日はそういう日なのだろう。
だが、一度帰宅するのは賛成だ。
何も知らなければ、身体中に刃物が埋め込まれ、関節が錆びた金属に成り代わったかのように、錯覚する程の重度の筋肉痛があまりにも難儀過ぎる。
芝生に寝転ぶにしても、起き上がるにしても、自分の力ではままならず、エーヴィアに介護してもらわねばならない。
かと言って、こんなことのために龍装甲を起動したり、刻印装甲を展開するのも莫迦らしい。
「それで戻って来たのは良いけど、あなた魔力の提供は済ませてきたのかしら?」
帰宅早々に、カトリエルからツッコミが入る。
「新しい魔術兵装の開発に蒼一郎さんの魔力が必要だって、出かける時に行ったのに」
自分の表情から全てを察したらしく、リディリアさんが呆れたように零す。
「……もう一度行って来る。だから、この筋肉痛を何とかしてくれる薬を……、いや、本当に大人しくしてるんで。無理もしないから」
「…………」
割と本気で、必死に懇願するが、カトリエルから無言で凝視される。瞳に映る感情は疑惑に満ちている。
「蒼一郎様を介護するのって、ちょっと楽しかったです。いつも頼もしい蒼一郎様が弱々しいのって新鮮で」
「だそうだけど、リディリア。暫く面倒診てもらえないしかしら?」
エーヴィアの微妙にズレた意見に、カトリエルが表情を緩ませた。
慈愛に満ちた綺麗な顔をしているが、自分にとってろくでもないことを思い付いた時にする。
そういう顔だということを、自分は経験的に知っている。
「私がですか? カトリエル師は?」
「大きな戦いの度に重症を負って戻ってくるこの人の面倒を、一体誰が見ていると思っているのかしら? いざという時は頼りになるけど、いざという時にしか頼りにならないような人なのだから、他の人に任せられる時は任せてしまいたいと思うのが普通でしょう?」
「いや、そういうことじゃなくて……まあ良いです。それじゃあ行きましょうか。蒼一郎おじいさん」
「おじいさんって……それはそうとして痛み止めを……」
カトリエルに向かって手を伸ばすが、彼女は悪戯っぽく微笑むと、自分から視線を逸らして「さて、夕飯の支度をしなければね。ネフェルト、手伝ってちょうだい」と、わざとらしく呟いて奥へと引っ込んでいった。
――DVか? DVなのか?
「偶には蒼一郎さんも、一般人らしくしたって良いじゃないですか」
リディリアさんが困ったように笑って、自分の腕を引っ張って歩き出す。
腕を伸ばすと、神経が突っ張るような痛みが走るので、やむを得ず彼女の歩調に合わせて歩き出すしかなかった。
一般人でいることが許される程、悠長な状況でも無ければ、無責任な身分でも無いのだが……。
取り敢えず戻り次第、義母上殿に、カトリエルを叱って頂くことにしようと思う。
「カトリエル師もすっかり元気になって安心しました。昨日までは泣いたり、落ち着きが無かったですから、さっきのも、師なりの日常感だったのかも知れないですね」
「自分、普段からあんなにいじめられてましたっけ?」
「正直意外な反応だと思いました。最近の師は、人目を気にせず蒼一郎さんに、甘えたり甘やかしたり、ベタベタしてたじゃないですか。だから今日から、胡桃さんの目を塞ぐ仕事が始まるなぁって思ってたんですけど」
「何かすいません」
「いえいえ、胡桃さんの情操教育のためですから!」
元の世界では、恋人といちゃついているところを、胡桃さんにガン見されるなんて日常茶飯事だったから、別に気にしなくても問題は無いとは思うが……。
それを口にすると、元は柴犬だということを知らない彼女から、大顰蹙を買う羽目になるので、曖昧な表情をして頷いておくことにした。
「こう見えても結構、色んなところで気を遣っているんですよ?」なんて得意気な顔をして言うので、尚の事、ただ苦笑を浮かべて、彼女の言葉に耳を傾け、頷くことしか出来なかった。
「それなのにカトリエル師ったら、蒼一郎さんとまともに話をしているところを見たことが無い。婚約者としての自覚はあるのかなんて言うんですよ? 私だって見えない所で蒼一郎さんや師を支えているのに!」
「じゃあデートでも行きます? 婚約者らしく」
「お気持ちだけもらっときますね。また用件を忘れて帰ってしまいそうだし、そうなったら私までカトリエル師に呆れられちゃいますよ。それに蒼一郎さん、筋肉痛辛いんでしょう? 顔、まだ引き攣ってますよ?」
「何もかもが、お恥ずかしい限りです」
「その代わり!!」
声を張り上げて振り返った彼女が、自分の手を取り指を絡ませ、歩みを再開する。
「落ち着いたら私のこともちゃんと構ってくださいよね? 私一人で工房を切り盛りする必要も無くなったし、胡桃さんの関心がネフェルトの方にいっちゃってるし、家のことも、ほとんどネフェルトのお蔭で暇なんですよね。エーヴィアも冒険者だけど、蒼一郎さんやカトリエル師ほど働き詰めってわけじゃないから家のことしてくれるし」
「ですが、それも子どもが出来るまでの平穏ですよ」
自分の返答に鈴を転がすような笑い声が彼女の口から漏れた。
「突然村に現れた不審者と、こんな話をする関係になるなんて、想像もしてませんでしたよ」
「ええ? 酷いな。自分のこと、そんな風に思ってたんですか?」
「裸足の半獣連れた身なりの良い男が、あんな田舎にいきなりやってきたら、びっくりしますって普通」
「普通、ですか」
「ええ、普通の女ですから私。みんな、蒼一郎さんと劇的な出会いや出来事があって今の関係じゃないですか。でも、私一人だけ特に何も無いんですよね。見た目も普通だし」
劇的な出会いや出来事と言うが、カトリエルは生来の魔力の高さから邪教徒に身柄を狙われ、両親を喪い、仮腹の儀による呪いで体内に邪神を埋め込まれた。
その後、胎内で邪神エルサ・ケブリスの復活を阻止する為に、ハーティアが身体を張ったが、グァルプから付け狙われる事態を招いた。
エーヴィアは母親を暗部の者に囚われ、親子共々、悪意に晒され、虐げられ、後僅かの所で殺されるところだった。
リリネットは鉱山を邪教徒に蝕まれた挙句、カトリエルから即座に完治してもらったとは言え、襲撃を受けて一族郎党含め重症を負い、自分達がいなければ全滅していたかも知れない。
ネフェルトはトリエンナ家の都合に振り回され、あらぬ疑いを掛けられたその日の内に、巨人に捕まり危うく命を落としかけた。
「色々と衝撃的なことの渦中にいたことは否定しませんが、あまり羨むべきことでは無いかと。普通で良いではありませんか。普通で」
それに、見た目も普通とは言うものの、彼女にとっての比較対象がカトリエルだからそう思ってしまうだけだ。少なくとも自分はそう思う。
カールがかった艶めかしいセミロングのブルネット。
筋の通った高い鼻に、大きな黒目、健康的な色香を感じる桃色の唇。
それらのパーツが左右均一に整った小顔で、典型的な美人顔をしている。
その上、日頃の野良仕事で、軽く日焼けした肌も、普通の人なら健康的な印象を感じさせるが、彼女に限って言えば、それが寧ろセクシーさを引き立てている。
――これで行き遅れてるだの、普通顔だの言ってるのが他の人に聞こえてみろ。戦争モンだぞ。
まあ、カトリエルもこのネタでからかって遊んでいる節があるので、口には出さないが。
「何と無く一緒にいて、一緒にいるのが当たり前になって、何か流れで結婚するってなって、あんなに結婚したかったのに……、いざするってなったら何だか呆気なくて、こんなに呆気なくて良いのかなって、色々考えちゃうんですよね。蒼一郎さんはどう思ってるんですか?」
「役得だな、と。そう思っています」
少し前までは不道徳的だの何だの言っていたが……。
今もそういう気持ちが微塵にも無いというわけではないが、今更と言うか、退くに退けないところまで来てしまった。
この期に及んで、不道徳だの良くないことだのと口走るのは、彼女達と嫌々結婚すると言っているようなものだ。
そういう物言いをするのは不誠実な気がして嫌だった。だから少しでも前向きに、役得だと思うことにした。
「役得? 私と結婚することがですか?」
「ええ、勿論」
「即答しちゃいますか」
「即答出来ちゃいますねぇ」
世の女性にとっては、何の褒め言葉にもならないかも知れないが、彼女はこの世界で初めて出来た胡桃さんの友達だ。自分には、それだけで千金に値する。
身寄りが無く、胡桃さんの正体も明かせない状況では尚更だ。
そういった意味では――、
「良い夫になれるように最大限の努力をしますので、至らぬ所は遠慮なく仰ってください。夫婦になるんですから」
妻になる女性の中で、結婚願望が一番強いのに、一番遠慮がちなのが彼女だ。
そんな彼女が――、喧嘩っ早く、身内以外には無愛想な胡桃さんを安心して預けられると、一番最初に思ったのがリディリアさんだった。
彼女と友達になったことが切欠で、胡桃さんはエーヴィアやブリジット・ヴァラス、他人を気遣えるようになった。
ヴァリーと積極的に仲良くなろうとしたり、義母上殿やカトリエルに甘えられるようになったようにも見える。
リディリアさんが、胡桃さんに良い変化をもたらしてくれた。その時点で恩義を感じるには十分過ぎた。
「実は――」
「待て待て待てェェェェェェェェェェェイ!! 誰と誰が夫婦になるだと!?」
「そのような!! 勝手は!! 誰が許そうともこの私が許さん!!」
彼女の言葉を遮るようにして、石畳の地面をドタバタとテンポの悪い足音を立てて、此方に近付いてくる声があった。
聞き覚えの無い男の声だった。
自分達とは関係の無い連中だと思ったが、彼らの口ぶりと、そして何より、リディリアさんが苦虫を食い潰したような顔をして俯き、無関係では無いことを示していた。
声のした方に視線を向けると、エルフとオークの若者が重心のブレた身体を必死に動かして、こっちに向かってくるのが見えた。
「ああ、そう言えば言っていましたね。借金塗れの莫迦なエルフと、食事時に鍵を抉じ開けて生傷自慢をする血生臭く愚かなオークに纏わり付かれて迷惑をしていたと。アレがそうですか」
「行きましょう、蒼一郎さん。あんなの相手にすること無いですよ」
足早に去ろうする彼女に手を引かれる。余程、彼らと関わり合いになりたくないらしく、力がこもり乱暴だ。
腕が突っ張るような筋肉痛に、反射的に「あいたたた」と弱音を漏らしてしまった。
「ご、ごめんなさい!! 大丈夫ですか!?」
弾かれたように自分の腕から手を離して振り返り、しどろもどろに両手を上げたり下げたりして、彼女が狼狽している内に、足音がすぐ其処までに迫っていた。
「お前みたいなひ弱な男ではリディリアの夫はつとまらん!! どけぃ!! ……………………!?」
失礼極まりない台詞を吐くオークの男に、肩を掴まれた。
痛みはあるが、それ以上に彼の高慢な物言いが鼻に付いた。
重心を安定させ、肩に食い込む指を引き込むようにして上半身を捩じる。
肩から手が離れ、元から重心の狂っていたオークが後方へとバランスを崩し、数歩遅れていたエルフを巻き添えにして、背中から地面に倒れ込んだ。
想像していたのと違う――。
想像を遥かに上回る無様さに彼の無礼な態度も忘れて「あの、大丈夫ですか?」と声をかけるが、彼らの返事を待つよりも先に再びリディリアさんに手を引かれる。さっきと比べて幾分か手付きも優しい。
「良いから行きましょう。こんなの蒼一郎さんが相手にすることないんですよ。バカと借金持ちに構ってたら蒼一郎さんまで変になってしまうんだから!」
辛辣だが概ね事実だ。莫迦は伝染する。そういう風に出来ている。
しかし、自分にも金貨百万枚の借金がある。
オークの方は兎も角、エルフの男に対しては自分もあまり大きなことは言えない。
何も言えないので、反論も追従もせずに、スルーしておくことにした。
足早に十歩ほど進んだ辺りで「待て!! 待たんか!!」とオークのガラガラ声と肉を引きずる音が聞こえて来た。
「蒼一郎さん、もう面倒なんでやっつけちゃってください、アレ」
リディリアさんが心底面倒臭そうな顔をしてオークを指差すが、面倒だからって理由で殴るのは、流石の帝国でもアウトだ。
――多分。
いや、セーフだからって理由で殴るのも問題だが。
「そこのお前!! 俺と勝負しろ!! 俺が勝ったらリディリアは俺の物だ!!」
「本人の意思を無視して物扱いとは巨人並の知性だな。彼女のことを本当に愛しているかさえも疑わしい」
誰かを賭けて勝負なんてのは、物語じゃありがちだが、時代錯誤的で気分が悪い。
非人道的で言い出す奴の気が知れない。何より、そんな道理が通ると思う思考が気持ち悪い。
だからこそ、帝国で最大級の侮辱――巨人並の知性――を使ってみたわけだが、存外にも効果は絶大らしい。
オークは深緑がかった皮膚を赤くして、憤怒に満ちた顔で此方に睨みを利かせて、全身を震わせた。
「お前!! どうなっても許さんからな!!」
オークが怒鳴り声をあげて、自らのシャツを破り捨てる。
露わになった上半身は、首筋から下腹にかけて大きな裂傷痕が走っていた。
自分の視線に気付いて、奴は得意気な顔をしたかと思えば、自らの胸元に指を突き立て、左右に広げて上半身を引き裂いた。
繊維状に引き千切られた胸部が、中身を晒して鮮血を迸らせる。
――血を媒介にした魔術式か……? いや、しかし魔力の増幅どころか、魔力その物を感じない。
「うえ……アイツ、まだアレやってるんだ。相っ変わらず気持ち悪い!」
意図が分からず、呆気に取られていると、リディリアさんがげんなりした様子で顔を背けた。
「まだ……?」
「ただのハッタリって言うか、アレがカッコいいって思ってるんですよ! とにかく早くやっつけてください!」
成る程、確かに莫迦なオークだ。何より血生臭い。
こんなのが食事時に、鍵を抉じ開けて乱入してきては堪ったものでは無い。
「今度はお前がこうなる番だ!! ガハハハハハハハハハハハハハハ!!」
胸から夥しい量の血を噴き上げ、莫迦嗤いしている莫迦なオークを殴り倒すと決めたは良いが、あの莫迦に近付いて、返り血を浴びるのは嫌すぎる。
――どうする? ころす?
精霊の指輪を起動すると、精霊さんが自分の脳裏に、無邪気な声で物騒な言葉をなげかけてきた。
――いえ、莫迦者ですが悪者ではありません。いつもの弓をお願いします。
脳内で返答すると、無骨な精霊弓が左手に召喚された。即座に構えて弦を引き絞る。
莫迦嗤いするオークの額に向けて「死ね」と祈りを込めて、魔弾を一発だけ放つ。
「ハガッ………!?」
眉間に、魔弾の直撃を受けて間抜けな悲鳴と共に転倒して、後頭部を地面にぶつけてそのまま昏倒した。
獣人の身体は頑丈に出来ている。恐らく、死にはしないだろう。
「さて……、貴方はどうしますか?」
弓を構えたまま、借金まみれのエルフの方に視線を向けると、何故か彼は得意気に鼻を鳴らした。
「オークを一撃で仕留めるとは大した物だ。しかしそれは、この男が恋に破れただけのこと! 私の愛が揺らぐことは無い! 何故なら! 私が背負う金貨一万枚の借金を、彼女と共に分かち合う覚悟が既に出来ているからだ!」
正直言って、何が言いたいのかさっぱり理解出来ない。
「テメェの借金はテメェ一人で抱えてろ。阿呆が」
女に覚悟を背負わすだけの、間抜けな男の眉間にも、魔弾を叩き込んで昏倒させる。
こういった意味不明の理屈を、さも正論であるかのように、弁を振るう輩には、道理を説くだけ時間の無駄だ。
手っ取り早く殺してしまった方が、早かったかも知れない。
――やっぱり、ころす?
精霊さんの物騒だが、少し魅力的な提案を何とか振り切り、精霊弓を送還する。
これで少しは懲りてくれれば良いが、そうで無ければもう少し強めに躾けることにしよう。
リディリアさんの方に振り返ると、彼女は酷く神妙そうな顔をして唸っていた。
「これが私の劇的な出来事……」
こんなことなら何も起きない方が、まだずっと良かったかも知れないが、この手の事故を自分や彼女の意思で制御出来るものでは無い。
「平穏を望むのが、一番ってことですよ」
リディリアさんの手を取り、指を絡めて歩みを再開する。
顔を覗き込んでみると、不満そうにしていたのも一瞬。
彼女の中で何かしらの納得があったらしく、指を深く絡めて力を籠めると揚々と手を振り出した。
どういった心境の変化なのかは定かでないが、機嫌が直ってまずは一安心、という奴である。
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