53 こんな冬の日、確かあの年の、初雪の降る前の日
彼女は手を広げて、薄暗い路地を自分の行きつけの飲み屋の方へ歩き出した。
空夜は呆れていたが、秋比古の方は彼女のこういう切り替えの早さが気にいっているらしい。リンに従って方向を変えると、歩き出す。そうしていつもの飄々とした笑みを浮かべて言った。
「おまえは平和でいいよな」
「何よ、行かないわけ?」
「行くよ。俺達の前途の願かけに、飲みに行こう。……空夜」
彼はふり返った。立ち止まったまま見送っている空夜を呼ぶ。
空夜は呆れて首を振った。
「駄目だよ。今日はこれから仕事がある」
「大丈夫だって。それまではまだ一時間以上もある」
「一時間じゃ、酒は飲めても抜けないよ」
「アルコールの入ってないのだってあるさ」
「やめとく」
「それに、」
秋比古が立ち止まってふり返る。リンもそれに気付いて止まった。彼の声が穏やかで、少しだけいつもとは変わっていたからだろう。
「宝子ちゃんたちの二周忌も兼ねてさ」
彼は静かな目をして言った。
「こんな冬の日、確かあの年の、初雪の降る前の日だったろ」
夜闇が、そして冷たい空気が音を消した。
空夜は、先刻去っていった桐珂の背中を思い出した。あの背中に自分が重ねている、もう一つの背中を思い出す。次第に遠ざかっていく、闇が消していくその光景を思い出す。
空気の匂いはあの時とは違う。あの時は、風も大地も木も草ももっと叫んでいた。そうして辛いような苦いようなそんな味が、口の中に広がっていた。乾いた空気が、枯れた草木が恨めしかった。
この夕べは穏やかで、甘い香りがする。
どこかで食事を誘う声が平和に響く。
鳥が、確信に満ちた翼で家路をたどる。
静かだ、と思った。ここは静かだ。
道の先で、飄々と笑った秋比古が待っている。リンも彼につき合って、道半ばで足を止めている。
食欲を誘う芳しい匂いが鼻孔をくすぐっているのに気付いて、空夜は大きく息を吸った。
道の向こうの二人に向かって、いつもの呆れたような笑みを向けた。
「仕方ないな。……行くよ」




