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忘却という最期

 どこまでも続く一本道を男は走っていた。男の右側には低い山があり、左側には田園が広がっている。日が沈み夜になる前のわずかな時間、空には一番星が輝き始めている。

 その一本道は舗装されていないので雨が降れば泥の道になるだろう。

 男は全力で走っているわけではないが、かなり速いペースで走っている。どこまで走ればいいのか分からない道を、全力で走りきることは出来ない。

「あの鳥居はまだか? 早くあの子に会わなくては」

 男が目指しているのはこの道のどこかにある赤い鳥居だった。目的はそこにいる女に会うため。男がこの道を進むのは何度目だろうか? 何度も繰り返しているのに憶えていない。しかし今回はある程度は憶えていた。

 男は走りながら思っていた。

(あの子の名前も自分の名前も思い出せない。でも、あの子はこの先でいつも待っていてくれる。俺が憶えていることをいつも期待しながら。なぜ待っているのかは分からない。何か約束をしたのだろうか? おぼろげな記憶の中であの子は何かを言っている。だめだ、思い出せない。早く会いに行かなくては!)

 男の思いを裏切るように目指す鳥居は見えてこない。しかし、いつもより早く進んでいるのでこの世界の終わりまでの時間は、まだ多く残っている。

「いつも、こんなに長かったのか?」

 自分に問いかけるが、答えはわからなかった。

 彼はいつも同じ道を進んでいる。いつもは、道を進んでいることに気づくのが遅い。しかし、今回の彼は自分がその道を進んでいることに気づくのが早かった。この先にいる彼女を憶えていたから。

 気持ちは(はや)るが、いっこうに鳥居は見えない。


 この世界の残り時間を知る術のない彼は、焦りと苛立ちを抱き始めていた。

 この道を進んでいる自分に気付いて、彼女に会い、すぐに世界が砂のように崩れ去ることも憶えている。

 それを今回は憶えているのに、彼女に会えないまま世界が終わってしまうのではないかと焦り苛立つ。

 しかし、今回は走ったおかげで残り時間は多く残っている。彼はまだこの世界のことを知らない。

「何で辿りつけないんだよ! いつもはこんなに遠くないのに」

 いつもは歩いて辿る道を、今回は走って辿っている。

 彼の焦りと苛立ちに応えて……というわけではないけれど、遠くに赤い鳥居が見えた。

「やっとか! 急がなくちゃ!」

 心を躍らせる彼の目に人影が映る。

 たそがれ時の世界では遠目からは誰かわからない。

 彼はこの世界で彼女意外と会ったことがない。一本道ではあるけれど、鳥居ではなくその人影を目指して走る。

 しかし彼は、近づくにつれて違和感を覚え始めた。その人影は着流しを着ている。彼の記憶にある彼女は、襟のある青い長袖のワンピースを着ていた。

 そのまま走り抜けようとしたが、その人影は道の真ん中に立ち塞がっている。

 彼は五メートルくらいの距離になる頃には歩いていた。

 その人影は着流しを着て刀を持った男だった。

「なにか?」

 すんなり通す気がなさそうな着流しの男に声をかけた。

「今のお前をこの先に行かせるのは都合が悪い」

 着流しの男はゆっくり刀を抜き、彼に切っ先を向けると口を歪めて笑う。その笑いは嘲笑だった。

「なんで都合が悪い?」

「この先にいるあの女に会いに行くんだろ? いつものお前なら何も変わらないが、今のお前は違う。あの女の思い通りにはさせねぇ」

「……よく分からないけど、あんたは俺を殺そうとしている。それは、わかる」

 彼に向けられている切っ先には冷たい意思が込められている。脅してやろうとか、怖がらせてやろうとか、そういうものとも違い、狂った意思でもない。

「心配するな、現実のお前は死なない。あの女を思い出しかけているお前が死ぬだけだ」

「それでも、俺が死ぬことに変わりはないんだろ?」

 後ずさり距離をとるが、それと同じに近づかれ距離は変わらない。

「それは否定できねぇな、だがお前は死なない」

「俺は、あの子に会わなくちゃならない!」

 彼は右手の山を目指して走り出した。一歩踏み出し次の一歩は足の裏ではなく膝がついていた、倒れないために両手も地面につく。それに疑問を抱きながら着流しの男を振り返り見ると、向けられていた切っ先は地面ギリギリの位置にあった。

 いつの間にか間合いは詰められていて、刀は振り下ろされていた。それを見て彼は自分が斬られたことに気付く。

「甘い世界だ。斬ったのに血が出ない」

 着流しの男は彼の右肩から左腰にかけて深く刀を振るった。刀は確かに彼の体を斬った。

「なんでだ? ちっとも痛くないのに力が抜けていく?」

「心配するな、お前が死に向かっているだけのことだ。放っておいてもお前は死ぬ」

 抜けていく力を振り絞り着流しの男に体を向ける。

「あの子には手を出すな」

 次に彼女が狙われると思った彼は自然にその言葉を口にした。

「手は出さないぜ。この世界であの女は殺せないからな」

「殺せない?」

「取り越し苦労だったのか? お前は何も思い出せていないなぁ」

 跪く格好で首を上げて自分の顔を見る彼の首に狙いを定め、刀を構える。

「ちくしょう……もう、会えないのか」

「残念だなぁ。どうせ死ぬお前だ、二つ教えてやる。一つはオレの名前だ。オレはクウナと言う。もう一つはあの女の名前だ。オレはケチじゃないからな教えてやるよ……ミズアメだ」

「みずあめ……くうな? 水飴食うな!」

「…………それは偶然だ。くそ、駄洒落かよ……漢字で書くとオレは空無だ! あの女は水雨だ! じゃあ死ね!」

 着流しの男が刀を振るう一瞬の前、空気を穿つ音が聞こえた。そして彼の前に力無く刀が転がった。しかし、転がる音を聞いてもそちらに目を向けなかった。

 彼の目には矢の先が映っている。着流しの男の心臓を後ろから貫き、刺さったままの矢が映っていた。その矢が刺さった瞬間、そこから波紋のように何かが広がり、手を離していないのに刀はすり抜けて落ちた。

「ちっ、お前が変なことを言うから止めがさせなくなったじゃねぇか」

 悪態をつきながら胸から見えている矢を強引に引き抜いて地面に投げ捨てる。

「その人を殺させない」

 その声の主は矢を放った弓を手放して二人に近づいた。その姿は見た目とは違う威厳に満ちた雰囲気を纏っている。

「手遅れだぜ? コイツはもうすぐ死ぬ。たとえここがお前の支配する土地でも死のルールは変わらない」

「……なら、あなたもそうでしょ?」

「わかってるだろ? オレはお前と同じだ。だが、帰らなきゃならねぇな」

「帰ってくださいっ!」

 顔を背けて叫ぶその姿には、もはや威厳は無かった。

「いつかこの土地もオレが……」

 全てを言い終わる前に霧が晴れるように着流しの男は消えた。


 彼と彼女は無言のまま、しばらく過していた。

 仰向けで空を見る彼の傍らに、彼女はぺたりと座っている。服が汚れることを少しも気にせずに。

「痛みも無く死ぬって……実感が沸かないな。本当に死ぬのかな? 眠る時と変わらない気がする」

「ごめんね。また、あなたを助けられなかった」

「またなのか? 憶えてないけど」

 その言葉に申し訳なさそうに目を伏せると、彼女の目から涙が零れた。

「俺の方こそごめんな。君は……水雨は憶えていてくれているのに。すまない」

「あなたが悪いわけじゃ……え? 今、私の名前を?」

 伏せていた顔を上げると、涙と驚きと嬉しさと色々な感情の混じった表情がそこにはあった。

「空無に聞いたんだ。思い出せたわけじゃない。ごめん」

 余計なことを言わずに嘘でも思い出したと言えばいいものを、正直に言ってしまう。

「それでも、あなたの声で私の名前が聞けて嬉しい」

「そっか。でも自分の名前は最期までわからないのか……教えてはくれないのか?」

「うん、それだけは私にも空無にも出来ないことです」

 水雨はまた涙を零しはじめた。

「泣くなよ……水……みず? なんだっけ? おかしいな? み……君の名前が出てこない」

「っ! ヤダ、忘れちゃ嫌だ! 私は水雨です」

「水飴? 甘そうな名前だね……なんだっけ? なんだろう? もう夜になるのかな」

 彼の体がだんだん希薄になっていく。水雨はとっさに自分の長い黒髪を一本抜くと、彼の右手首に巻きつけて結んだ。

「間に合ってっ!」

 縛り終えてそう叫ぶ水雨を、怪訝そうな顔で見ながら彼は消えた。

 水雨は彼が消えた辺りをよく見回す。結んだ髪が無いことを祈りながら。

「よかった! 間に合った」

 涙に濡れた顔に苦笑いを浮かべながら空を眺める。この世界の終わりまでの時間はまだ少し残っている。

(私はルールを破ってしまった。だって私は彼に名前を呼んで欲しいから。あの日からずっと呼んでもらったことがなかった。思い出したわけじゃなくても呼んでくれて嬉しかったな。自分の髪を彼に結んでしまった。これはルール違反だ。公平であるはずなのに私は自分の有利になるようにズルをしてしまった。きっと何かのペナルティがあるはずだ。こわいよ……さん)


 そしていつもと同じように水雨を残し世界は砂のように落ちていった。

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