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第9話 帳簿が赤い、豆は黒い

 カランコロン、と。

 ドアベルの余韻がゆっくりと薄れ、完全に消え去った。


 押し開かれた扉が重い音を立てて閉まり、外からの冷たい隙間風が遮断される。

 途端に、店内の空気はすうっと落ちていった。


 耳が痛くなるような静寂だった。

 数分前まで響いていた若者たちの悲鳴も、怒鳴り声も、綺麗さっぱり吸い込まれてなくなっている。残されたのは、魔王城最深部が何百年も抱え込んできた底知れない静けさだけだった。


 店長は濡れ布巾を手に取り、レオルたちが座っていた丸テーブルへ歩み寄った。

 テーブルの上には、四つの空のカップが残されている。底に残った黒い雫と、表面に刻まれた微かな刃こぼれの跡――四人が必死に生きてここを通過した証拠だった。


 布巾で木目を拭う。染み付いた冷えを拭き取るように、ゆっくりと手を動かす。


 カウンターの向こうでは、カリカリと硬質な音が響いていた。

 少女――先ほどまで玉座の間で黒衣を纏っていた本物の魔王が、エプロン姿のまま丸椅子に腰掛け、羊皮紙に羽ペンを走らせていた。


「……おい」

 店長がカップを重ねながら声をかけると、少女は顔も上げずに言った。


「話しかけないでください。今、現実と戦っている最中ですから」

「戦う相手を間違えてねえか。お前の本業はあっちの扉の向こうだろ」

「こちらの戦いの方がよっぽど過酷です。血の一滴も流れない代わりに、うちの寿命が削れています」


 ことん、と薄い木の伝票が机に置かれた。

 少女は羽ペンをインク壺に戻すと、両肘をカウンターにつき、こめかみを押さえた。


「……店長」

「なんだ」

「今月も、見事なまでに大赤字です」


 感情の起伏がない、平坦な声だった。それだけに重い。


「やっぱりか」

「『やっぱりか』ではありません」

 少女は顔を上げ、冷ややかな視線を店長に向けた。

「特製瘴気抜き深煎りブレンド四杯、おかわり四杯、生還後特別リカバリーブレンド四杯。正規料金であれば、金貨二枚と銀貨八枚の売上でした」

「ああ。結構な額だな」

「ええ。そして今、我が店のレジに入っている代金はいくらですか」

「ええと……」

 店長はエプロンのポケットを探り、じゃらりと小銭を取り出してカウンターの上に並べた。


「銀貨が六枚と、銅貨が四十二枚。あいつらが持ってた有り金全部だ」


 少女はそれを死んだ魚のような目で一瞥し、小さく息を吐いた。


「銀貨換算で十枚と少し。原価の三分の一にも届いていません。完全な無銭飲食です」

「いや、あいつらちゃんと情報置いてったぞ。王都の小麦相場とか、南街道の盗賊の話とか」

「情報で豆が買えるとでも?」

 少女の声は静かだったが、底冷えがしていた。


「王都の小麦相場で腹が膨れますか。南街道の盗賊情報で結界が張れますか。……そもそも、この魔王城の最深部で誰にその情報を転売するおつもりで? 牛頭鬼のドグランに『小麦が高いぞ』と教えて、銅貨が一枚でも落ちてくるとお思いですか」

「ドグランは小麦食わねえからなあ」

「ええ。食べるのは生肉です。つまり無価値です」


 少女は眉ひとつ動かさずに切り捨てた。

 そこにあるのは、月末の資金繰りに頭を抱える零細個人商店の共同経営者の姿だった。


「そもそも、店長は原価というものを理解していなさすぎます」

 少女は帳簿の項目を指先でトントンと叩いた。


「看板商品の深煎りブレンド。ベースの黒晶豆は、城の周囲の猛毒瘴気帯でしか採れない超希少種です。採取だけで下級魔族が半壊する代物なんですよ」

「あれ美味いよな。苦味の奥に甘みがあって」

「話を逸らさないでください」

 少女がじと目で睨む。


「その黒晶豆に、城の地下水脈の清純水を魔導火で沸かして淹れているんです。さらに人間が飲んでも死なないよう、瘴気中和触媒の乾燥月光草を調合しています。月光草の粉末がグラムいくらするかご存じですか。金貨半分ですよ」

「客が瘴気で胃を壊したら可哀想だろ」

「客の胃袋を気遣う前に、瀕死の店の懐を気遣ってください」


「つぶれないつぶれない」 「つぶれます。確実に近いうちにつぶれます」

「あいつら、いい顔して帰ったぞ」 「笑顔では豆は一粒も買えません」


 流れるような掛け合いだった。

 店長は苦笑しながら、重ねたカップを持ってカウンターの奥へ戻った。

 洗い桶に水を張り、カップを浸す。スポンジで丁寧に洗いながら、背後の少女の毒舌を受け流す。


「第一、おかわりをタダ同然で出すのが悪癖です」

 少女は帳簿の隅に赤インクで大きなバツ印を書き込んだ。

「あの女剣士など、二杯目を一息で呷っていましたよ。味わう気ゼロです」

「いい飲みっぷりだったじゃないか。美味そうに飲む奴には、いくらでも淹れてやりたくなるのが人情ってもんだ」

「店長に必要なのは人情ではなく商業道徳です」


 少女は小さく鼻を鳴らした。

 冷淡な声音を崩さないが、その横顔には隠しきれない疲労が滲んでいる。


「……はあ。このままでは来月の豆の仕入れが滞ります。ドグランに言いつけて、また外縁の商人から買い叩いてこさせねばなりませんね」

「あいつ、荷運びさせるとすぐ角ぶつけるからな。豆の袋破るなよって言っとけ」

「誰のせいで運ばせる羽目になっていると思っているんですか」


 少女の冷ややかな視線が刺さる。

 店長は悪びれもせず、洗い終えたカップを清潔な布巾で拭き上げた。

 白く滑らかな磁器のカップが、カウンターの棚に整然と並べられていく。


 ふう、と店長は短く息を吐いた。

 棚の上の小さな硝子瓶から、黒い豆を一掴み取り出す。


 深い艶を帯びた、漆黒の粒。

 魔王城の瘴気を吸って育った黒晶豆だ。適切に火を入れて焙煎された豆は、信じられないほどまろやかな油分と芳醇な香りを放っている。


 それを木製のミルに投入し、店長は静かにハンドルを回し始めた。


 ガリ、ガリ、ガリ――。


 静かな店内に、豆が砕ける乾いた音が響き渡る。

 均一な速度。一定のリズム。刃が豆の繊維を捉える感触を指先で確かめながら、極めて精密に挽いていく。


 少女がふと顔を上げた。


「……また淹れるんですか」

「まかないだよ、まかない。一日働いたんだから、一杯くらい飲まねえとやってられねえだろ」

「赤字を垂れ流した直後に高級豆を消費する度胸だけは世界一ですね」


 口ではそう言いながらも、少女は帳簿をぱたりと閉じた。席を立つ気配はない。


 かつて世界最強と恐れられた勇者の手だ。

 神の加護を受け、聖剣を振るい、魔王軍を半壊させた人族の最終兵器。

 その大きな指先が、今は銅製の細口ポットの重心を測り、ドリッパーの布目を整えるためだけに動いている。

 戦いを辞めた男が、六年かけて身につけた職人の手つきだった。


 少女は顎に手を当て、その手元をじっと見つめていた。


「……店長」

「なんだ」

「なぜ、ここで店なんて開いたんです」


 ふとした、前触れのない問いだった。


 店長の手は止まらなかった。

 沸騰した湯を一度別の器に移し、湯温を少しだけ落とす。九十度弱。黒晶豆の苦味を抑え、奥にある柔らかな甘みを引き出すための湯温だ。


「前にも言ったろ。攻略法を知ってたからだ」

「そんな子供騙しを聞いているのではありません」

 少女は静かに言った。

「あなたは人類の英雄だった。あのまま私を討ち取っていれば、王都で富も名声も、望むものすべてが手に入っていたはずです。……それを、最後の扉の直前で放り出して、机と椅子を持ち込んで珈琲屋を始めるなど、正気の沙汰とは思えません」


 六年前のあの日。

 魔王の間の扉を蹴破る代わりに、男はカウンター用の木材を担ぎ込み、床の瓦礫を黙々と片付け始めたのだ。


「英雄なんてガラじゃねえよ」

 店長はポットを傾け、細い湯の筋を中心へと落とした。


 じゅわっ、と粉が膨らむ。

 黒い粉のドームがふっくらと持ち上がり、濃厚なアロマが弾けた。


「富も名声も、もらったところで面倒が増えるだけだ。……だいたい、あの扉の前まで辿り着いた時、俺はもう十分やったと思ったんだよ」


 湯を置くように、円を描いて注いでいく。

 琥珀色の泡が浮かび、下から黒い液体が滴り落ちる。


「仲間は死んだり、身体壊して田舎に引っ込んだりして、誰も残っちゃいなかった。お前らの軍勢だって、あそこまで来りゃほぼ壊滅状態だったろ。……これ以上誰かを殺すのも、誰かが死ぬのを見るのも、飽き飽きしたんだ」

「だからといって、魔王城の最深部で喫茶店を始める理由にはなりません」

「珈琲が好きだったんだよ」


 あっさりと、店長は言った。


「旅の途中、野営の夜に飲む珈琲だけが唯一の楽しみだった。冷たい風の中で、豆をすり潰して煮出してな。……いつか全部終わったら、あったかい部屋で、美味い水と極上の豆を使って、納得のいく一杯を淹れてみたいと思ってた」

「……」

「扉の前に立ったら、ちょうどいい空間が空いてたんだ。天井は高いし、石壁は頑丈だし、何より静かだった。ここで店を開いたら、誰にも邪魔されずに美味い珈琲が淹れられるんじゃないかってな」


「邪魔されないどころか、誰も来ないだけです」

 少女が淡々と切り捨てた。

「ここは世界で最も辿り着くのが困難な場所ですよ」

「でも、あいつらは来た」

 店長は笑った。

「六年間で、何人かはここまで生きて辿り着いた。ボロボロで死にそうな顔をしてな。そいつらに一杯飲ませてやると、みんな驚いたような、ホッとしたような顔をするんだよ。……世界を救うより、そっちの方がよっぽど性に合ってる」


 ぽた、と最後の雫が落ち、抽出が終わった。

 店長は温めておいた二つのカップに珈琲を注ぎ分けた。


「ほらよ」

 ことん、と少女の前にカップが置かれる。


 少女はカップを両手で包み込み、湯気に顔を近づけて一口含んだ。


「……」

「どうだ」

「……悔しいですが」

 少女は目を細め、静かに息を吐いた。

「文句なしに美味しいです。苦味の切れ味が鋭く、後味に一切の嫌味が残らない」

「だろ? この味が出せるなら、赤字なんて大した問題じゃねえよ」

「大した問題です」


 少女は即座にカップを置き、冷ややかな目を向けた。


「美味しいことと儲かることは別問題です。飲む人間が月に数人、しかも代金の半分をツケにしていくようでは、遠からずこの店は破綻します」

「大丈夫だって。そのうち口コミでバズるから」


 少女は言葉を失ったように瞬きし、それから氷のように冷たいジト目で店長を凝視した。


「……ダンジョンの最深部がバズってたまるか」


 感情の籠もらない、平坦で乾いた声だった。


「死の迷宮ですよ、ここは。第一層から第九層まで、人間が肉片になりに来る場所です。『最奥の珈琲が美味しかったので星五つです』などと書き残して息絶える人間がいたら、それは客ではなく新種の狂人です」

「でもレオルたち、地上に戻ったら言いふらすって言ってたぞ」

「言いふらしたところで、普通の人間は城門の番人にすり潰されて終わりです」

「ドグランに看板持たせとくか? 『喫茶店はこちら』って」

「あの脳筋に接客など務まるわけがありません。間違いなく看板で挑戦者の頭を叩き割ります」


 一切の感情を交えず、淡々と正論で詰めていく。


「だいたい、万が一客が押し寄せたらどうするんですか。席は二卓、店員は私と店長しかいないんですよ。仕込みも調理も追いつかずにパンクします」

「お前、意外とやる気あるよな」

「ありません。一ミリも」

 少女は小さく鼻を鳴らし、エプロンの紐を整えた。

「私はただ、店が潰れてこの城が無人に戻るのが鬱陶しいだけです。生活費がないから働いているだけです。……店長、このままじゃ本当にお店つぶれますから」


「つぶれないつぶれない」

「その根拠のない楽観論がいちばん怖いんです」


 静かな店内に、少女の呆れ果てた声と、店長の呑気な笑い声が落ちる。

 世界を滅ぼしかけた魔王と、世界を救いかけた勇者。

 人類最強の二人が、魔王城の最深部で、今日も決して解決することのない経営危機を囲んで珈琲をすすっていた。


 だが。


 カラン――。


 不意に、店の扉の向こう、遠い回廊の彼方から微かな物音が響いた。


 店長がカップを口元に止める。

 少女も言葉を切り、すっと視線を店の外へと向けた。


 それはドアベルの音ではない。

 重い石を踏み鳴らすような、地響きに近い足音だった。


 ずしん、ずしん、と。

 第九層の暗がりから、階段を一段ずつ踏みしめて上がってくる気配。


「……あいつら、無事に第九層は抜けたみたいだな」

 店長が呟いた。

「ええ。そのようですね。……そして、入れ替わりに厄介なのが上がってきました」

 少女がうんざりしたように息を吐き、エプロンの胸元を軽く払った。


 扉の向こう、立ち込める瘴気の闇の中。

 砕けた片角を持つ、二メートルを超える巨躯が、階段の踊り場で立ち止まっていた。

 牛頭鬼の上位魔族――砕角のドグラン。


 男は鼻を鳴らし、床に残されたかすかな血痕と、廊下に漂う信じがたい芳香に、獰猛な眉を寄せていた。


「……人間どもが、最奥から生きて戻った、だと……? 馬鹿な……魔王様は何をしておられる……?」


 唸るような低い声が、静まり返った回廊に木霊する。

 そしてその重い足取りは、真っ直ぐに、最奥の『Café Last Dungeon』へと向けられていた。

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