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第8話 勘定は、生きてから

 笑い声がやむと、途端に現実が身体の奥から這い上がってきた。


 ずきり、とレオルの左肩が鈍く痛む。

 玉座の間で魔王の影槍を浴びかけた傷だ。店長が淹れてくれた二杯の珈琲のおかげで、立ち込めていた瘴気こそ綺麗さっぱり洗い流されていたが、裂けた皮膚や強打した筋肉が元通りになるわけではない。


 サリサは肩の包帯をきつく締め直し、ミリアは小さく祈りを唱えながら息を整えている。トトに至っては、両手でしがみついていたカップをそっと机に戻し、椅子の背もたれにぐったりと体重を預けていた。


「……そろそろ、行くか」

 レオルが低く言った。

「長居しすぎた。まだ城を出たわけじゃない」


 ここがいくら暖かく、珈琲のいい匂いが満ちていようと、ここは魔王城の最深部だ。一歩この店の扉を出れば、第九層の猛毒の瘴気、第七層の呪鎧兵、第五層の溶岩回廊が手ぐすねを引いて待っている。生きて地上へ戻るまでが討伐行だった。


「そうだな」

 サリサが立ち上がり、腰の鞘を確かめる。

「帰りの方が魔物の配置も読めん。気を引き締め直すぞ」

「歩けるかなあ、僕……」 「歩くんだよ、トト。置いていくぞ」 「うう、鬼……」


 レオルが最後に空のカップを見つめ、膝に手を置いて立ち上がろうとした――その時だった。


「お待ちください」


 すっ、と横から影が差した。

 見上げると、黒髪に白い肌、フリルのついたエプロンを整えた少女――先ほどまで玉座の間で自分たちを血祭りにあげかけた本物の魔王が、手元の木製トレイから小さな薄い木片を抜き取り、机の真ん中に滑り込ませてきた。


 木片には、手の手入れが行き届いた細い筆跡で、何やら数字が書き連ねてある。


「……何だ、これ」

 レオルが眉をひそめると、少女は実に愛想のない、それでいて非の打ち所のない完璧な営業用スマイルを浮かべて言った。


「お会計です」


 しん、と席の周りの空気が凍りついた。


「……は?」

「お会計です」

 少女はもう一度、滑舌良く繰り返した。

「当店はボランティア施設でも野戦病院でもございません。ご飲食された分のご精算をお願いいたします」


「あ」

 トトが間抜けな声を漏らし、ミリアが口元を押さえた。サリサに至っては、抜こうとしていた剣の柄から手が滑り落ちそうになっていた。


 そうだった。

 すっかり毒気を抜かれていたが、ここは店なのだ。


「……いくらだ」

 レオルが恐る恐る木片を引き寄せる。

 そこに記された内訳を読み上げた瞬間、レオルの喉から乾いた引きつり声が漏れた。


「……特製瘴気抜き深煎りブレンド、四杯。おかわり、四杯。生還後特別リカバリーブレンド、四杯……」

「合計で、金貨二枚と銀貨八枚になります」

「高ぇぇぇぇぇぇっ!?」


 レオルの絶叫が、静かな店内に突き刺さった。


「高いとは何事ですか」

 少女は冷ややかに眉を寄せる。

「魔王城の最深部、通常であれば生還率ゼロの死地において、高品質な珈琲豆を常温保存し、澄んだ湯を沸かし、魔力を中和する特殊焙煎を施して提供しているのですよ? 危険手当と輸送コスト、結界の維持費を鑑みれば、むしろ破格の慈善価格です」

「慈善で金貨取る奴があるか!」 「取ります。店ですから」

「正論が重い……!」


 カウンターの向こうで、店長がマグカップを布巾で拭きながらへらへらと笑っていた。


「気にすんな、若造。うちのバイトは数字に厳しくてなあ」

「他人事みたいに言わないでください」

 少女が即座にカウンターへ冷たい目を向ける。

「店長がそうやって『まあいいじゃないか』で済ませるから、うちの帳簿は毎月真っ赤なんですよ。ここは断固として回収します」


 レオルは冷や汗を流しながら、机の下で自分の腰袋を手探りした。

 隣でサリサが気まずそうに目を泳がせ、トトが小刻みに震え始めている。


「……なあ、レオル」

 トトが蚊の鳴くような声で言った。

「……いくら、残ってる?」

「…………」

「レオル?」

「……銀貨、四枚」


「「「少なっ!?」」」

 サリサとミリアとトトの声が見事にハモった。


「仕方ないだろ!」

 レオルは真っ赤になって怒鳴り返した。

「城に入る前の砦で、全財産はたいて高級回復薬を買い占めただろ! サリサの大盾だって新調したばかりの業物だったし、トトの煙幕玉だって特注品だ! 魔王城に挑むのに財産全部装備と消耗品に突っ込むのは冒険者の基本だろ!」

「それはそうだけど!」 「途中で薬は飲み干したし盾も砕けたじゃないか……!」 「討伐報酬で全部チャラにする皮算用だったから……!」

「うぐっ……!」


 全員が頭を抱えた。

 世界を救うために命を賭してラスダン最深部まで辿り着いた勇者パーティが、今、魔王城の真ん中で完全な無銭飲食の危機に瀕していた。ダサい。あまりにもダサすぎる。


 少女の冷徹な視線が、上から四人を射抜いた。


「……まさかとは思いますが」

「ま、待て! 払う気はある! 踏み倒すつもりは毛頭ない!」

 レオルは必死に手を振った。

「おい、全員小銭を出せ! 銅貨でも何でもいい、かき集めろ!」


 四人が慌ててポケットや鞄の底をひっくり返した。

 机の上に、擦り切れた銀貨数枚と、くすんだ銅貨がじゃらじゃらと積み上がる。トトが涙目でへそくりの銀貨を差し出し、ミリアが教会から持たされていた布施の小銭を足した。


 少女が指先でそれを仕分け、眉をぴくりと動かす。


「……銀貨六枚と、銅貨四十二枚。銀貨に換算して十枚と少し。半分にも届きませんね」

「うっ……」

「足りない分はどうされるおつもりですか? まさかとは思いますが、魔王を相手にツケで逃げ切れるとお考えで?」

「そんな命知らずなこと考えるわけないだろ!」


 サリサが苦渋に満ちた表情で、腰から予備の短剣を抜いた。

 鍔に青い魔鉱石が埋め込まれた業物だ。


「……これを受け取ってくれないか。王都の名工が打った品だ。銀貨三十枚以上の価値はある」

 すると、カウンターの奥から店長がひょいと顔を出した。


「いらんいらん」

「何っ?」

「そんな物騒なもん置いとく場所ねえよ。うちは喫茶店だぞ。カウンターに短剣飾ってどうすんだ」

「質屋じゃないんですから、物品の鑑定などできません」

 少女もすげなく断じる。

「換金性のない武器など、うちにとってはただの鉄くずです。却下します」

「名工の一品が鉄くず扱い……」

 サリサががっくりと肩を落とした。


 レオルは額を机に擦り付けんばかりの勢いで身を乗り出した。


「な、なら身体で払う! 皿洗いでも、床掃除でも、店の前の瓦礫撤去でも何でもする! 働いて返す!」

 一世一代の提案だった。

 勇者が魔王城で皿洗い。王国じゅうの吟遊詩人が聞いたら卒倒しそうな絵面だが、背に腹は代えられない。


 だが、少女は眉ひとつ動かさず、むしろ今日いちばん冷淡な声で即答した。


「断固お断りします」

「なぜだ!?」

「これ以上、無駄な人件費を増やしてどうするんですか」

「無駄って言うな!」

「人手不足なのは事実ですが、それは私と店長で回せない時間帯の話です。そこに大飯を食らう冒険者を雇い入れてごらんなさい。朝昼晩のまかないの消費だけで、この店は三日で爆発四散します」

「まかないで爆発する店があるか!」

「あります。ここに」


 少女は胸を張って言い切った。

 あまりにも堂々とした赤字宣言に、レオルは返す言葉を失った。


 トトがおずおずと手を挙げる。


「あの……じゃあ、僕たちはどうなるんでしょうか……? 足りない分は、やっぱり命で……?」

「命を取っても一銭にもなりません」

 少女はため息をついた。

「遺体を処理する手間が増えるだけです。ですから――」


「まあ、いいだろ」


 のんびりした声が割り込んできた。

 いつの間にかカウンターを出てきた店長が、濡れた手をエプロンで拭きながら、レオルの肩をぽんと叩いた。


「店長」

 少女がすかさず冷ややかに遮った。

「またそうやって適当に流す。今回はきっちり徴収すると決めていたんです」

「そうカリカリすんなって。ない袖は振れねえよ。若造から身ぐるみ剥いでダンジョンに放り出したら、途中で野垂れ死んじまうだろ」

「死なれたら代金が永遠に回収できません」

「だから生かして帰すんだよ」


 店長は机の上の小銭をごそっと大きな手で掬い上げると、自分のエプロンのポケットへ無造作に放り込んだ。


「これだけありゃ、最低限の豆代くらいにはなる。残りはツケだ」

「えっ……」

 レオルが顔を上げる。


 店長は笑っていた。無精ヒゲの隙間から覗く口元は、やはりどこまでも気が抜けている。


「その代わりだ、レオル。外の情報を置いてけ」

「情報……?」

「王都の景気、街道の様子、ギルドで今どんな依頼が流行ってるか。あとは道中の罠がどれくらい壊れてたか、だな。暇つぶしの世間話代として、帳消しにしてやる」


「……は?」

 少女が信じられないものを見る目で店長を見つめた。


「店長。情報で豆が買えるとでも思っているんですか。王都の景気で腹が膨れますか。ギルドの噂で結界が張れますか。……店長、このままじゃ本当にお店つぶれますから」

「つぶれないつぶれない」

「つぶれます。今まさに傾いています」

「なあに、こいつらが生きて地上へ戻りゃあな、『最深部にとんでもなく美味い珈琲を出す店がある』って言いふらしてくれるさ。そしたら客がわんさか押し寄せて大繁盛だ」


 店長がカラカラと笑う。

 少女は深い、深いため息を吐いた。


「押し寄せる前に城門の番人にすり潰されるのがオチです。第一、こんなところまで命がけで珈琲を飲みに来る物好きが、他に何人もいるわけがないでしょう」


 淡々とした、しかし有無を言わせぬ正論だった。

 ラスボスとは思えない、あまりにも切実で現実的な指摘だった。


 レオルたちは思わず顔を見合わせ、それから申し訳なさそうに身を縮めた。


「あの……すみません、物好きで……」 「面目ない……」 「でも美味しかったのは本当です……」

「褒めても一銅貨も負けませんよ」

 少女は冷ややかに言い放ち、それでもトレイから羊皮紙と羽ペンを取り出して机へ滑り込ませた。


「……書きなさい」

「え?」

「情報です。一文字も漏らさず王都の最新事情を書き記してください。タダ働きは絶対に認めませんので」

「は、はいっ」


 それから半刻ほど、レオルたちは知る限りの王都の情勢を吐き出した。

 王都エルディアで最近流通している小麦の相場、南の街道で盗賊が増えているという噂、討伐軍の編成が難航している裏事情、そして自分たちが通ってきた各層の崩落箇所。


 少女は口をへの字に曲げたまま、猛烈な速度でペンを走らせ、びっしりと羊皮紙を埋めていった。


「……ふん。まあ、物流の話は少しだけ仕入れの参考になりますね。ドグランに運ばせるルートも見直せますし」

「役に立ったか?」

 店長が聞くと、少女はふんと鼻を鳴らした。

「微々たるものです。雀の涙です。金貨の輝きには遠く及びません」


 それでも、羊皮紙を丸めてポケットに仕舞い込んだ少女の表情からは、先ほどのトゲトゲしさが少しだけ薄れていた。


「……よし」

 レオルは大きく息を吐き、立ち上がった。

 今度こそ、本当に出発の時だった。


 サリサが剣の帯を締め、ミリアが杖を握り直す。トトも覚悟を決めたように背筋を伸ばした。

 手持ちの金はほぼ底をつき、装備はボロボロで、身体中が痛む。それでも、店に入った時のあの絶望的な消耗感は、不思議なほど消え失せていた。


 レオルはカウンターの二人に向き直り、深々と頭を下げた。


「……店長。それから、魔王の嬢ちゃん」

「バイトです」

 少女が即座に訂正する。

「……バイトの嬢ちゃん。恩に着る。珈琲、本当に美味かった」

「次は金貨を袋ごと持ってきてやる」

 サリサが苦笑しながら言った。

「その時は、もっと愛想よく出迎えてもらおう」

「客単価に見合った接客を検討します」

 少女が無表情に返す。


 トトがおずおずと手を振った。

「僕、もう二度とここには来たくないけど……もしまた死にそうになったら、寄らせてもらうね」

「遭難者の避難小屋ではありませんよ」

 ミリアが穏やかに微笑む。

「神の御加護がありますように……と祈るのは、ここでは失礼でしょうか」

「お気持ちだけいただきます。神聖属性は少し肌に合わないので」

 少女が肩をすくめた。


 店長がカウンター越しに、ひらひらと片手を振った。


「じゃあな。生きて帰れよ。扉の外は自己責任だからな。俺は助けに行かねえぞ」

「わかってるよ」

 レオルはニヤリと笑った。

「生きて帰るさ。ツケを踏み倒したまま死ぬなんて、勇者の名折れだからな」

「当然です」

 少女が腕を組み、冷ややかに、しかしどこか見送るような目で言った。

「無銭飲食のまま死ぬことだけは絶対に許しません。きっちり地上まで生還してください」


「物騒な励まし方だな!」

 レオルが吹き出し、サリサが笑い、ミリアとトトがそれに続いた。


 レオルは振り返り、店の出口の木製扉に手をかけた。

 押し開けると、冷たい風とともに、ダンジョン特有の湿った空気と微かな獣の臭いが流れ込んでくる。地獄のような帰路が、扉の向こうで待っていた。


 だが、今の四人の背中には、確かな熱が宿っていた。


「行くぞ!」

「「「おおっ!」」」


 四人が次々と敷居を跨ぎ、暗い廊下へと踏み出していく。

 最後にレオルがもう一度だけ振り返り、軽く片手を挙げてから、足早に闇の中へ消えていった。


 カランコロン――。


 ドアベルの乾いた音が店内に響き渡り、バタン、と扉が閉まった。


 その瞬間。


 すうっ、と店内の空気が落ちた。


 あれほど賑やかだった笑い声も、ツッコミも、悲鳴も、綺麗さっぱり消え去った。

 残されたのは、魔王城最深部が元から持っていた、耳が痛くなるような圧倒的な静寂だけだった。


 テーブルの上には、冷めかけた四つの空のカップ。

 そして、カウンターの上に散らばる、手のひらに収まるほどの銀貨と銅貨。


 少女はエプロンのポケットから帳簿を取り出すと、机の上の小銭と木片の伝票を見比べ、それから今日いちばん深く、重いため息を吐き出した。


「……店長」

「ん?」

「豆の原価、中和触媒の損耗、おかわり分の抽出ロス。そして得られた対価は、銀貨数枚と王都の噂話」

 少女は帳簿をばんと閉じた。


「差し引き、今月も過去最高の大赤字です」

「でもよ、あいつらいい顔して帰ったろ」

「笑顔で豆は買えません」

 少女は静かに、しかし有無を言わせぬ調子で告げた。


「店長、このままじゃ本当にお店つぶれますから」

「つぶれないつぶれない」

「つぶれます。確実に近いうちにつぶれます」


 店長は苦笑しながら、空になった四つのカップをトレイに回収し始めた。


「まあ見てろって。あいつらは必ずまた来るさ」

「来る前にうちの仕入れが尽きるって言ってるんです」


 魔王城最深部。

 魔王の間の手前。

 客の去った静かな喫茶店に、いつも通りの、そして決して解決することのない経営危機の声が響いていた。


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