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第10話 牛頭は荷を運び、客は減る

 ずしん、ずしんと、重い石を踏み鳴らす地響きが階段に木霊していた。


 第九層・猛毒瘴気回廊の番人を務める牛頭鬼の上位魔族――砕角のドグランは、二メートルを超える巨躯を前傾させ、荒い鼻息を噴き出しながら最奥への石段を駆け上がっていた。

 右の太い角は健在だが、左の角は根元から無残にへし折れている。六年前、たった一人で防衛網を壊滅させ、玉座の間へ到達したあの忌まわしき勇者――その素手の一撃で叩き折られた、屈辱と恐怖の傷跡だった。


「……あり得ん。絶対にあり得ん……!」


 ドグランは手にした大戦斧の柄を軋ませた。

 数時間前、第九層の猛毒トラップを強引に突破して最奥へと向かった人間の若者四人組。

 間違いなく魔王様の御手によって肉片と化し、骨すら残らぬはずだった。

 ところが先ほど、その若者たちが何食わぬ顔で防衛回廊を下りていったのだ。


 傷口には清潔な布が巻かれ、血色を取り戻し、あろうことか笑い声まで交わしながら、悠々と生きて去っていった。

 魔王様が人間を生かして帰すなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。

 もしや、我が主の身に万が一のことが――。


「魔王様ァーーッ!! ご無事で――ッ!!」


 ドグランは最奥の黒鉄の扉に巨大な肩を叩きつけて押し開けた。

 凄まじい衝撃音が響く。


 カランコロン、と。


 だが、直後に返ってきたのは、場違いなまでに涼やかな硝子の鈴の音だった。


「……は?」


 ドグランの足が止まった。

 戦斧を振り上げ、血飛沫を浴びる覚悟で飛び込んだ空間。

 そこに広がっていたのは、赤黒い瘴気でも、瓦礫の山でもなかった。


 ふわりと鼻腔をくすぐる、香ばしく深いアロマ。

 磨き上げられたウッド調の丸テーブルが二つ。卓上には白い花。

 壁には、歪な文字で『営業中』と墨書きされた木札。


 そして。

 カウンターの丸椅子に腰掛け、羊皮紙に羽ペンを走らせている黒髪の少女。

 小柄な身体に纏っているのは、威厳ある黒衣ではなく――糊のきいた、純白のフリル付きエプロンだった。


「ま……魔王……様……?」

 ドグランの手から力が抜け、戦斧の刃先が床に落ちて鈍い音を立てた。

「その……その胸元の布切れは……一体何でございますか……?」


 羽ペンが止まった。

 少女は顔も上げず、冷ややかな声で言った。


「ドグラン。うるさいです。ドアベルが鳴っているのですから、もう少し静かに入れませんか。あと、足元の瘴気泥を拭きなさい。埃は珈琲の天敵です」

「珈琲……!? 埃……!? いや、それ以前に魔王様、なぜそのような格好を――」 「勤務中だからです」


 即答だった。

 少女は死んだ魚のような目で、手元の帳簿を指先でトントンと叩いた。


「話しかけないでください。今、月末の資金繰りと絶望的な赤字の計算で頭が割れそうなのです」

「し、資金繰り……? 赤字……? 魔王軍の軍資金なら、地下宝物庫にまだ金塊が――」 「あれは防衛結界の維持費と魔導炉の燃料代でとっくに底をつきました。今この城にある現行通貨は、先ほどの人間の若者どもが置いていった銀貨六枚と銅貨四十二枚だけです。それも原価の三分の一にも届いていません」 「な、何を仰っているのか、俺にはさっぱり……」


 ドグランが巨大な頭を抱えて眩暈を起こしていると、カウンターの奥から、のんびりとした足音が近づいてきた。


「おいおい、ベルを壊すなって言っただろ。開けるときは優しく引くもんだ」


 濡れ布巾でカップを拭きながら現れた男。

 四十前後。目の下に微かな隈、無精髭。珈琲染みのついた黒いエプロンを身につけた、くたびれた中年男だった。


 その顔を見た瞬間。

 ドグランの左の角の根元がズキリと疼いた。


「ぎ……ぎゃあああっ!? ゆ、勇者ぁぁぁぁぁぁっ!?」


 ドグランは反射的に飛び退き、壁に背中を強打した。

 六年前、魔王軍の前衛部隊を一撃で薙ぎ払い、自分を小枝のように叩き伏せたあの悪魔だ。


「誰が勇者だ。人聞きの悪い。今はしがない個人事業主の店長だよ」

 店長は悪びれもせず、布巾を肩にかけると、ドグランの巨躯をしげしげと眺めた。

「お、ちょうどいいところに来たな。ドグラン、地下倉庫から水樽二つと黒晶豆の樽をカウンター裏まで運んでくれ」


「ふざけるなァッ!!」

 ドグランは激昂し、戦斧を構え直した。

「貴様のような人間の下劣な指図を、なぜこの俺が受けねばならん! 魔王様、今すぐこの男の首を刎ねて――」


 すっ、と。

 店長の目が細められた。


 男は剣も抜かず、身構えもせず、ただ視線を僅かに上げただけだった。

 だがその瞬間、店内の空気が凍りついた。

 重力が増したかのような圧倒的な質量が、ドグランの巨体にのしかかる。全身の筋肉が硬直し、呼吸が喉元で詰まった。六年前、死を覚悟した瞬間の悪寒が脳髄を直撃する。


「ここは店だ」

 店長の声は低く、短かった。

「店内で騒ぐな。壁の木札が見えねえのか。『店内戦闘厳禁』だ」


「ぐ……っ、あ……っ」

 ドグランの太い膝がガクガクと震え、指先から脂汗が滲み出る。


「運んできてください、ドグラン」

 少女が帳簿から顔も上げずに、冷淡に言い添えた。

「どうせ持ち場で退屈していたのでしょう。筋肉しか取り柄がないのですから、肉体労働くらい役に立ってください」

「ま、魔王様まで……!」 「早くしてください。豆の補充が滞ると、私の仕事が増えます」


 少女の冷徹な一瞥に射抜かれ、ドグランは涙目になりながら戦斧を床に置き、すごすごと地下倉庫へと向かうしかなかった。


 ぎしぎしと床を軋ませ、百キロを超える水樽を抱え、重い黒晶豆の木樽を背負って往復すること三回。

 カウンター裏に並べ終えたドグランは、床に手をついて肩で息を吐いた。


「ぜぇ……ぜぇ……。な、なぜ魔王軍筆頭前衛のこの俺が……こんな雑用を……」

「ご苦労さん。助かったよ」

 店長が氷を入れたガラスコップを差し出してきた。

「ほら、水だ。よく冷えてるぞ」


「ふ、ふん……! 人間どもの水など……ごく、ごく、ぷはぁっ!」

 一息に飲み干したドグランは、はっと我に返ってコップを睨みつけた。

「……いや、騙されんぞ! 魔王様、一体どういうことなのです! なぜ先ほどの下層へ降りていった人間どもを皆殺しになさらなかったのですか!」


 少女は羽ペンを置き、深いため息をついた。


「あれは客です」 「客……!? 討伐に来た人間の敵を、客と呼ぶのですか!?」 「ルールを守って珈琲を飲んで代金を払った以上、客です」 「代金なら足りてねえけどな」 「足りていないことを誇らしげに言わないでください」


 流れるような掛け合いのあと、少女の冷たい視線が店長に刺さった。


「客など……そんな馬鹿な話があるか!」

 ドグランは納得がいかないように鼻息を荒らげた。

「俺が普段、第九層で挑戦者を八割方ミンチにして叩き落としている苦労はどうなるのです! 魔王城の威厳を守るため、城門をくぐる人間どもを片っ端からすり潰してこそ――」


 カツン、と。


 小さな音が響いた。

 少女の手から滑り落ちたインク壺の蓋が、木製の机に当たった音だった。


 少女が、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、玉座の間で黒衣を纏っている時よりも遥かに冷酷で、底知れない闇が宿っていた。

 死んだ魚のような、一切の慈悲を拒絶したジト目だった。


「……ドグラン」

 低く、温度のない声が店内に落ちた。

「は、はっ……?」


「今、何と言いましたか。『八割方ミンチにして叩き落としている』と?」

「はっ! 我が猛毒トラップと怪力をもって、脆弱な人間どもを徹底的に排除して――」

「……あなたのせいですか」

「は?」


 少女は両肘をカウンターにつき、指を組んでこめかみを支えた。

 どす黒い怨念のようなため息が漏れ出す。


「……開店から六年間、なぜここまで客が来ないのか。確かにここは世界一到達が困難な場所ですが、それにしても客足が途絶えすぎていると不審に思っていました。……まさか身内が、来店見込み客を城門と深部で片っ端から物理的に間引いていたとは」

「ま、魔王様……?」

「あなたのやっていることは国防ではありません。ただの悪質な営業妨害です」

「ええっ!?」


 ドグランの目が点になった。


「来客予備軍をすり潰してどうするのですか。人間どもがここまで辿り着かなければ、うちの珈琲は一杯も売れないのですよ。席数はたったの二卓、客単価を上げようにも限界があるというのに、分母そのものをあなたの筋肉でミンチにしてどうするのです」

「い、いやしかし、奴らは魔王討伐を掲げて攻め込んできた敵兵でして――」

「扉のこちら側に一歩でも足を踏み入れたらお客様です。外で敵だろうと関係ありません。金を落とす可能性がある二足歩行を、なぜわざわざ手前で挽き肉にする必要があるのですか」


「敵を殺して……怒られた……?」

 ドグランは完全に思考がショートした顔で硬直した。


「まあまあ、ドグランは自分の仕事を全うしただけだからな」

 店長が苦笑いしながら口を挟む。

「あいつの防衛線を突破できるくらいの骨のある奴じゃないと、最奥まで来ても珈琲を味わう余裕なんてねえよ」

「店長は甘すぎます」

 少女は眉をピクリとも動かさずに切り捨てた。

「客が死んだら売上はゼロです。生きてここまで来て、震える手で財布を開かせてこそ商業です。……ドグラン、明日からは第九層の罠の致死率を三割下げなさい。あと、通路の分岐点に『珈琲はこちら』と道標を立てておきなさい」

「そんな情けない看板を立てられるわけがなかろうがァッ!」


 ドグランの悲痛な叫びが響き渡る。

 その時、ぐううぅぅぅ、と雷鳴のような重低音が鳴り響いた。

 ドグランの腹だった。


「……あ」

 ドグランが気まずそうに腹を押さえる。


「腹減ってんだろ。樽を運んでくれた礼だ。まかない食ってけ」

 店長が厨房の奥から、大皿を持って戻ってきた。

 山のように盛られた分厚い肉塊。魔王城の地下に棲息する猛獣の赤身肉を香ばしく焼き上げた特製ステーキだった。ニンニクと香草の暴力的な匂いが立ち上る。


「ぬ……! これは……!」

「味付けはシンプルに岩塩と粗挽き胡椒だ。食えよ」


「ふ、ふん……! 元勇者の施しなど受けるものか……!」

 そう言いながらも、ドグランの手は無意識に肉塊を掴んでいた。

 口の中に放り込み、咀嚼する。


「……っ!? う……美味い……ッ!!」

 ドグランの目が丸くなった。

「外側は香ばしくカリッと焼き上がり、中は信じがたいほどジューシー……! 余分な脂が落とされ、肉本来の旨味が口いっぱいに広がる……! うまい、うまいぞォッ!」


 二メートルを超える巨漢が、皿の上の肉を貪り食っていく。

 五キロはあろうかという肉塊が、ものの三分で骨一本残さず消え去った。


「食ったな。じゃあ、食後の一杯だ」

 ことん、と白い陶器のカップが置かれた。

 漆黒の液体から、湯気と共に芳醇なアロマが立ち上る。


「む? これが珈琲とやらだな」

 ドグランはカップを巨大な指先で摘み上げ、豪快に一息で煽った。


 直後。


「ぶふぅぅぅぅぅーーーッ!?」

 ドグランは噴き出しそうになるのを必死に手で押さえ、顔を紫色にして悶絶した。

「に、にがっ……!? なんだこれは……!? 泥水か!? 猛毒か!? 舌が引き千切れるほど苦いぞォッ!!」


「味のわからねえ奴だなあ」

 店長が肩をすくめた。

「黒晶豆の深煎りだぞ。この苦味の奥にある、ほのかなキャラメルのような甘みとコクが最高なんだよ」

「甘みなど微塵も感じんわァッ! ただの拷問水ではないか!」 「子供舌には早かったか」


 ドグランが舌を出して涙目で呻いている横で、カリカリと羽ペンの走る音が響いていた。

 少女が帳簿に向かい、淡々と数字を書き込んでいる。


「……店長」

「なんだ」

「月次決算に、極めて不愉快な修正が発生しました」


 少女は羽ペンを置き、伝票を指先で弾いた。


「ドグランによる豆樽および水樽の運搬労働。相場換算で、人件費として銀貨一枚相当の価値です」

「おお、助かったな」

「そして、ドグランが今平らげた魔導獣の熟成赤身肉五キロ。原価換算で、銀貨三枚相当です」

「……ん?」


「差し引き、我が店の純損失は銀貨二枚です」

 少女は死んだ魚のような目で、ドグランを一瞥した。

「手伝わせる前より、確実に赤字が膨らみました。部下を店に呼ぶと、店員を雇うより高くつくという最悪の事実が証明されました」


「う……」

 ドグランが口元の肉汁を拭いながら身を縮こまらせた。


「ドグラン。あなたは二度とこの店に近づかないでください。ただでさえ客を間引いている上に、店に来れば食費だけで経営を圧迫する。あなたはこの店の最大のコスト要因です」

「な、なぜだぁっ! 俺は樽を運んだではないか!」 「運んだ分の三倍食ったからです。算数を勉強し直してください」


 少女は冷酷に言い捨て、両手でこめかみを押さえて深くため息をついた。


「……はあ。仕入れ値は上がり、売上見込み客は番人にミンチにされ、身内を働かせれば赤字が増える。……店長、このままじゃ本当にお店つぶれますから」


「つぶれないつぶれない」

 店長は笑いながら、ドグランの飲み残したカップを片付けた。

「まかないを美味そうに食う奴がいる店は、だいたい潰れねえもんだ」

「その根拠のない楽観論がいちばん怖いんです」


 少女の平坦で冷え切った声と、店長の呑気な笑い声。

 ドグランは満腹になった腹を抱えながら、もはや自分が何を見せられているのか理解できず、ふらふらと立ち上がった。


「お……俺は持ち場へ戻る……! こんな狂気の場所に、一秒たりとも居られるか……!」

「おう、また腹減ったら樽運びに来いよ」 「二度と来るかァッ!」


 ドグランは叫び、今度は壊さないよう細心の注意を払って扉を押し開け、第九層への階段をもつれる足で駆け下りていった。

 チリン、と涼やかなドアベルが、その背中を見送るように鳴る。


 魔王城最深部に、再び平穏な静寂が戻ってきた。


 だが。


 ドグランが駆け下りていった第九層の暗がり、猛毒瘴気の立ち込める回廊の奥底。

 番人が持ち場を離れていたわずかな空白の時間を縫って。


 すうっ、と。

 気配を極限まで殺した細身の影が、瓦礫の隙間を滑るようにすり抜けていた。


 足音はない。呼吸の乱れもない。

 闇に溶け込む漆黒の革鎧に身を包み、腰にはエルディア王国の紋章が刻まれた特注の短剣。


 影――王都の密偵は、床に残されたドグランの巨大な蹄の跡と、微かに漂う珈琲の香りに、フードの奥の鋭い目を細めていた。


「……牛頭鬼の番人が持ち場を放棄して上層へ……? それに、この匂いは何だ……? レオルたちの報告は、一体……」


 密偵の低く冷たい呟きが、闇の中に溶けて消えた。

 そしてその影は音もなく、最奥の『Café Last Dungeon』へと続く最後の階段へ、静かに足をかけていた。

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